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(画像はwikipediaより転載)

 

中仮谷国盛少尉の略歴

 

 1920年鹿児島県に生まれる。1937年6月乙8期予科練生として入隊、1940年3月飛練課程を卒業し、大分、大村、鹿屋空を経て、1941年4月12空に配属、日中戦争に参加した。9月3空に異動して太平洋戦争開戦を迎えた。1943年5月大村空の教員として内地へ帰還、1944年5月飛曹長進級と同時に653空に転属、6月にマリアナ沖海戦、さらに10月には捷号作戦の発動によりフィリピンに進出した。11月中旬内地に帰還後、601空戦闘310飛行隊に編入、本土防空戦、沖縄航空戦に参加して終戦を迎えた。

 

3空、母艦戦闘機隊と渡り歩く

 

 中仮谷少尉は、1920年生まれで太平洋戦争開戦時は21歳と若かったものの、日中戦争では空戦を経験しており、中堅搭乗員として十分な実戦経験を積んでいた。中仮谷少尉が採用されたのは予科練の乙飛8期で1937年6月から訓練を開始、1940年3月に修了している。同期の戦闘機専修は11名であった。

 このクラスの戦闘機専修者は太平洋戦争で多くが戦死し、終戦時には15名(3名が戦闘機へ転科)中3名のみとなっていた。中仮谷少尉は他の戦闘機専修者と同様に大分空、大村空と延長教育を受けたのち1941年4月には漢口に展開している12空に配属、初空戦を経験している。同年9月には新しく編成された3空に異動、太平洋戦争開戦を迎える。開戦後は比島・蘭印航空撃滅戦に参加、チモール島クーパン基地に進出した後には、ポートダーウィン攻撃に活躍している。1943年5月、2年半に及んだ戦地での生活を終え、大村空の教員として内地に帰還した。

 この頃の大村空には磯崎千利少尉、坂井三郎飛曹長、南義美飛曹長、小町定一飛曹等、歴戦の搭乗員が教育を担当していたものの膨大な数の練習生を相手にしていたため決して楽ではなかったであろう。約1年間の教員配置の後、中仮屋上飛曹は空母千歳、千代田、瑞鳳戦闘機隊で編成された653空に異動、翌月にはマリアナ沖海戦に参加する。

 マリアナ沖で大打撃を受けたものの653空は他の航空隊に比べ損害が少なかったため653空を中心に艦隊航空隊が再編されることとなったが、戦局はそれを許さず台湾沖航空戦、比島航空戦でその戦力を消耗させることとなった。中仮谷飛曹長も同航空隊隊員としてエンガノ岬沖海戦に直掩隊として参加、第2小隊長として共同で11機のF6F撃墜を報告している。フィリピンに進出した10月28日にはドラッグ飛行場攻撃でF6F撃墜1、協同撃墜1機を報告、11月3日のタクロバン飛行場制圧でもP38 1機撃墜を報告している等、数多くの戦闘に参加したが、11月中旬には戦力を消耗し尽くしたため内地へ帰還している。

 中仮谷飛曹長は内地帰還後、601空戦闘310飛行隊に異動する。601空は母艦航空隊であったが、エンガノ沖海戦で壊滅、新たに再建された部隊であった。再建された601空は香取穎男隊長の下、岩国基地で訓練に励んでいたが、1945年2月には艦艇を全廃することが決定、601空も母艦航空隊から基地航空隊へと転換した。同月16日、米艦載機の関東地区来襲のため関東に移動中空戦となり、翌日も迎撃戦を展開している。

 3月になると鹿児島県国分基地に進出、中仮谷少尉も同地に進出、本土防空戦、沖縄航空戦に活躍するが、5月には百里原基地に引き揚げた。その後はしばしば迎撃戦に活躍したものの戦力を温存したまま終戦を迎えた。総撃墜数は16機といわれているが例によって実数は不明である。

 

中仮谷国盛少尉の関係書籍

 

艦隊航空隊〈2 激闘編〉

艦隊航空隊
斎藤三朗 著
今日の話題社 (1987/2/1)

 艦隊航空隊に所属していた搭乗員達の手記を集めたもので、主に太平洋戦争後半の出来事を中心に収録している。執筆者は、斎藤三朗少尉、小平好直、東富士喜、池田速雄、白浜芳次郎、石坂光雄、永田徹郎で永田氏以外は戦闘機搭乗員である。執筆者の内、白浜芳次郎飛曹長、同じ乙8期の東富士喜少尉は中仮谷少尉と同じ部隊でマリアナ沖海戦に参加している。

 

艦隊航空隊〈3 決戦編〉

杉山 利一他 著
今日の話題社 (1986/11/1)

 艦隊航空隊末期の記録。601空司令杉山利一大佐他、艦隊航空隊に所属した隊員達による手記。中仮谷少尉と同じ部隊に在籍した隊員達が多く執筆している。

 

神立尚紀『祖父たちの零戦』

 神立尚紀氏が零戦搭乗員とのインタビューで書き上げた本。戦後の人間としての搭乗員の生き様が描かれている。この中に坂井三郎氏の戦後の姿もあり、大ベストセラー『大空のサムライ』を出版する前後の話、これによって元搭乗員達からの批判などが描かれている。

 『大空のサムライ』がゴーストライターの手によるものであったこと、戦後、ねずみ講に元搭乗員達を勧誘したことや、そこからの資金により藤岡弘主演『大空のサムライ』が製作されたことなど、坂井氏の「負」の部分も描かれている。この部分に関しては坂井スマート道子氏の著書で違う視点から本書に対して意見を書いているのでどちらも読むことをおすすめする。本書でインタビューを受けている鈴木實中佐は12空、3空での中仮谷少尉の上官でポートダーウィン攻撃についても詳しく書いてある。

 

まとめ

 

 中仮谷少尉が修了した乙飛8期は太平洋戦争開戦前に十分な訓練を受け日中戦争で実戦経験を積んだ乙種予科練最後のクラスであったといえるが、それでも生存者は15名中3名と凄まじい状態であった。中仮谷少尉の経歴で特徴的なのは日中戦争以来の長い航空隊生活の中で南東方面(ラバウル・ソロモン)に一度も行っていないことであろう。しかし、だからといって中仮谷少尉は決して「楽」だった訳ではなく、米軍から「七面鳥撃ち」とまで言われ、一方的敗北を喫したマリアナ沖海戦、特攻隊まで出さざるを得ななった戦争後期の比島航空戦にも参加している多くの戦場を経験したベテラン搭乗員である。

 

 

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