01_五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 五式戦闘機は三式戦闘機のエンジンを液冷から空冷のハ-112兇吠儿垢靴慎‖里任△襦このため機体は三式戦闘機の機体と大きな違いはないが、途中から風防が胴体一体型のファストバック式風防から涙滴型風防に変更されている。最高速度こそは三式戦闘機に劣っているが、運動性能や離着陸性能は優れていた。生産数は400機前後と少ないが、最優秀戦闘機の一つといえる。

 

五式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.0m
全長 8.92m
全高 3.75m
全備重量 3,495kg
上昇力 5000mまで6分00秒
最大速度 580km/h
エンジン出力 1500馬力
航続距離 5時間30分/2200km(増槽装備時)
武装 20mm機関砲(ホ5)2門(弾数各200発)
   12.7mm機関砲(ホ103)2門(弾数各250発)
設計開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 陸軍が1943年に制式採用した初の液冷エンジン戦闘機飛燕であったが、液冷エンジンの不調に泣かされた航空機であった。このエンジンは、ドイツ製DB601エンジンの製造ライセンスを取得し国産化したものでハ-40(海軍名「熱田」。統合名称「ハ-60」)と呼ばれている。

 高性能エンジンではあったが、DB601エンジンは、本家のドイツでも生産に手を焼く程の難物であり、当時の日本の基礎工業力、技術力ではこのエンジンを生産できる水準には達していなかった。さらに戦争が開始されると熟練工は徴兵されて、代わりに素人の徴用工、動員学徒、挺身隊等が生産を担ったため工作精度が大幅に低下し、生産が遅れた上、信頼性の低いエンジンとなってしまった。

 三式戦闘機況燭任呂海離-40をさらに改良したハ-140を採用したが、ハ-40以上に工場での生産は滞っていた。これに対して三式戦闘機況燭竜‖里寮源困録覆鵑任い燭燭瓠工場にはいわゆる「首無し機」が溢れかえることになった(儀燭亮麑気靴眤減澆靴討い襦)。このため陸軍航空本部は1944年10月、況燭離┘鵐献鵑鬟-140から空冷のハ-112供奮し殻勝峩眄62型」)への換装に踏み切り、名称をキ-100として正式に試作命令を出した。

 

開発

02_五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 実は三式戦闘機の空冷化の研究は以前から行われていた。これは1943年4月に三式戦闘機で編成された飛行第68戦隊がラバウルに進出した際、液冷エンジンの不調に悩まされたことにより始まったものであった。このためキ-100の設計は順調に進み、試作命令から2ヶ月後の1944年12月には設計完了、1945年2月には試作1号機が完成、同月初飛行した。

 性能は最高速度が三式戦闘機の600km/h超から580km/hに低下、急降下性能も劣ったが、翼面荷重が190kg/屬ら175kg/屬妨詐したため離着陸性能、運動性能がが向上した。この設計変更での一番の問題はハ-112競┘鵐献鵑粒扱造三式戦闘機の胴体よりも大きいことで、これを埋めるために推力式単排気管を並べて段差を埋め、さらには大型のフィレットを被せることで解決した。

 武装は計画では、胴体内に20mm機関砲(ホ5)2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲(ホ103)2門(弾数各250発)を装備する予定であったが、生産段階では翼内砲は廃止され20mm機関砲のみが搭載された。照準器は三式射爆照準器で、250kg爆弾2発を搭載することができた。風防は当初は胴体と一体化したファストバック式風防であったが、途中から涙滴型風防に変更された。

 

 エンジンを排気タービン付きのハ-112競襪亡港した高高度性能を向上させたタイプで、1945年2月に設計開始、4月には設計が完了、5月に1号機が完成した。性能は、高度6000mまでは儀燭諒が10km/h程優っていたが、8000mでは況燭585km/hと15km/h優越し、10000mでは最高速度565km/hを発揮、儀燭30km/h以上上回った。

 上昇時間は高度5000mまでが儀燭6分00秒であるのに対して6分40秒、10000mまでの上昇が儀20分に対して況燭18分で到達することが出来た。これに対して航続距離は儀燭鉾罎拊擦、増槽なしで3時間、増槽付きで5時間30分と儀燭鉾罎30分短かった。

 エンジンに泣いた日本航空機にしては珍しくこの況浸邵邉,魯┘鵐献鵐肇薀屮襪少なく、量産されていればかなりの活躍をした可能性がある。しかし、9月から生産が開始される予定であったが、終戦となり試作機が3機生産されるにとどまった。

 

生産数

 生産数は合計390機(または398機以上)であった。終戦時には台湾に展開していた飛行第17戦隊が11機の五式戦を保有、終戦後に台湾空軍に引き渡された。さらに中部方面に展開していた飛行第5戦隊が25機、小牧基地に展開していた飛行第111戦隊が約90機の五式戦闘機を保有していたことが判明している。

 

戦歴

 最初に五式戦闘機が配備されたのは飛行第18戦隊で1945年3月に五式戦の未修教育を受けた後、五式戦が配備、同年4月7日に初空戦を行った。4月22日、明野教導飛行師団に配備された五式戦も空戦に参加、P51相手に奮戦している。東京では調布の244戦隊が五式戦へ改変、5月17日には沖縄航空戦へ参加するため九州へ向かった。同じく5月には歴戦の59戦隊が五式戦に改変、芦屋に進出、月末には清洲に展開していた5戦隊もそれまでの二式複戦に代わり五式戦を受領している。

 1945年6月5日には、明野教導飛行師団の五式戦が岐阜上空で爆撃終了後帰途についた敵機を迎撃、11機に及ぶ撃墜戦果を挙げている(連合軍側資料)。6月中旬には5戦隊も戦列に参加、中部方面の防空戦に活躍した。同月、17戦隊がそれまで装備していた三式戦を19戦隊に引き渡して五式戦に改変、さらに7月18日には新しく明野教導飛行師団第一教導飛行隊を基幹として111戦隊、常陸教導飛行師団教導飛行隊を基幹とした112戦隊が編成、どちらの戦隊にも五式戦が配備された。

 これらの戦隊はその後も本土防空戦に活躍、少なくない戦果を挙げたものの衆寡敵せず、8月14日に行った244戦隊の迎撃戦が五式戦最後の戦いとなった。

 

まとめ

 

 五式戦闘機は三式戦闘機の液冷エンジン不調若しくは不足から誕生した高性能戦闘機であった。信頼性の高い空冷エンジンを使用することで信頼性が高くなり、速度が遅くなった分、運動性能は上がり空中戦で活躍した。第二次大戦時の最強戦闘機と言われたP51マスタングにも十分に対抗できる戦闘機であったといわれている。

 

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