01_飛燕
(画像はwikipediaより転載)

 

 三式戦闘機は日本では珍しい液冷エンジン搭載の戦闘機である。陸軍の軽・重戦闘機という区分に疑問を持った設計者が完成させた中戦ともいわれる機体は日本の航空機には珍しく頑丈であった。最高速度は590km/hであるが、況寝では610km/h、成層圏でも編隊飛行が可能であった。しかし信頼性の低い液冷エンジンを採用したためエンジンの不調に悩まされることとなった。

 

三式戦闘機 飛燕 〜概要〜

 

 

性能

全幅 12.0m
全長 8.94m
全高 3.70m
全備重量 3,470kg
上昇力 5000mまで7分00秒
最大速度 560km/h
エンジン出力 1175馬力
航続距離 1800km(増槽装備時)
武装 20mm機関砲2門(携行弾数120発)、12.7mm機関砲2門(携行弾数250発)
   250kg爆弾2発

 

背景から開発まで

 三式戦闘機が登場するまで、日本陸軍の戦闘機は空冷エンジンを装備していた。空冷エンジンは液冷に比べ空気抵抗があるものの、取り扱い易さや信頼性においては上回っていたからである。しかしドイツの新型戦闘機Bf-109が液冷エンジンで高性能を発揮したことから陸軍は液冷エンジンに興味を示し、Bf-109が搭載していたDB601エンジンをハ-40としてライセンス生産することとなった。

 

開発

 1940年2月、陸軍は当時の戦闘機の基本方針である軽・重戦闘機の2本立ての計画から川崎航空機にハ-40発動機を使用した重戦闘機キ-60と軽戦闘機キ-61の試作が指示された。これが後の三式戦闘機飛燕である。設計は1940年12月に開始されるが、主任設計者の土井技師はこの区分に疑問を持ち、軽重の区分にとらわれない戦闘機の開発を志向した。

 1941年12月、1号機が完成する。同月初飛行に成功した。試作機は3機製造され、さらに9機の増加試作機が製造された。この増加試作機のテスト結果は、最高速度が高度6000mで591km/h、上昇時間が10000mまで17分14秒、実用上昇限度11600mと良好であり、その他の性能も全てが満足行くものであった。1942年8月から量産が開始され、1943年6月に三式戦闘機として制式採用された。

 パーツ毎に一体構造で作られた機体は非常に頑丈であった。降下限界速度も850km/hと高く、三式戦闘機では一度も空中分解事故は起こらなかったと言われている。武装は7.7mm機銃2挺と12.7mm砲2門、または12.7mm砲4門で運動性能を示す翼面荷重(機体重量を翼面積で割ったもの)は147.5kg/屬任△辰拭これは抜群の運動性能を誇った一式戦闘機隼が102kg/屐⇔軅21型が108kg/屬任△襪里鉾罎戮襪搬腓いが高速重戦闘機キ-44鐘馗の翼面荷重は171kg/屬茲蠅肋さい数値である。因みにこれらは全て当時の諸外国の戦闘機に比べると低い方ではある。

 

三式戦闘機儀

04_飛燕丁
(画像は三式戦闘機儀拭wikipediaより転載)

 

 儀森辰蓮∈能蕕領婿叉,1942年8月に1号機が完成している。武装は機首胴体内に12.7mm砲(ホ103)2門、翼内に7.7mm機銃(89式)2挺である。燃料タンクはゴムに覆われ防火装置となっている。儀寝気詫稙睨い12.7mm砲(ホ103)に変更し、12.7mm砲4門となった。胴体内燃料タンクは廃止、以降、三式戦闘機の搭載燃料は500Ⅼになった。

儀進困詫稙睨い鬟泪Ε供151/20・20mm砲に換装したタイプで1943年9〜1944年7月まで生産された。総生産数は388機(400機説あり)で現地で改修されたものもある。儀臣は胴体砲を20mm砲(ホ5)に換装したタイプで胴体燃料タンクも95Lではあるが復活した。潤滑油タンクの設計を変更したため全長が8.94mと20cm長くなった。この改造の結果、重量は250kg、最大速度は30km/h低下した。1944年1月から1945年1月までに1358機が生産された。

 

 性能向上型である況燭1942年4月に設計が開始される。1943年3月には設計完了、同年8月に試作1号機が完成した。エンジンは1500馬力のハ-140で、全長は9.16mと丁型よりも40cm程延長され、翼面積も22崛大し、垂直尾翼も大型化された。武装は胴体に20mm砲(ホ5)2門、翼内に12.7mm砲(ホ103)2門であったが期待した性能が出せる見込みがなかったため、試作機3機、増加試作機8機が製作された段階で計画は打ち切られた。

 

況寝

05_五式戦
(画像は五式戦闘機 wikipediaより転載)

 

 況寝は、況燭瞭溝里縫-140エンジンを搭載、儀臣の主翼を取り付け、部分的な改修を施した機体で1944年4月に完成した。総重量は2825kgで最高速度は高度6000mで610km/h、10000mでも544km/hを出すことが出来たことから三式二型として制式採用され、1944年9月から生産を開始し終戦までに374機が生産された。この内99機は完成したが、ハ-140の生産が遅れたため275機はエンジンの生産待ちの状態になってしまった。このため空冷式エンジンであるハ-112(海軍名「金星」)を装着した五式戦闘機(キ-100)となった。前期型は通常の三式戦闘機の風防であるが、後期型は水滴風防を採用している。

 

その他

 儀燭1機が翼面蒸気冷却実験機に改修されている他、儀臣の翼内砲を30mm砲2門とした実験機も存在する。

 

生産数

 三式戦闘機飛燕の総生産数はかなり異説がありはっきりしないが、総生産数は2844〜2888機前後である。儀燭蝋膩2746機で、試作機が3機、増加試作機が9機、儀森辰388機、乙が591〜603機、丙が388機(400説あり)、丁が1358機で、況燭倭加試作機30機、量産機が100機程度である。さらには五式戦闘機に改修された機体が275機あり、これらを含めた合計は3150機前後であるといわれている。

 

配属部隊

 1942年4月18日、未だ制式採用前の飛燕は水戸飛行場で試作機として試験中であった。そこにドーリットル少佐率いるB-25が来襲、緊急出動して迎撃したというのが飛燕の初陣であった。2機の飛燕が迎撃に出撃したものの1機は敵機を発見することなく帰還、もう1機は敵機を発見、攻撃をかけたもののそれまでの試験で燃料を使い果たしていたため致命傷を与えることができなかった。

 最初に飛燕が配属された部隊は68戦隊で1942年12月に改変を開始、翌1943年3月に完了した。この68戦隊は空母春日丸(のちの大鷹)に搭載されトラック島に到着、そこから空路ラバウルに進出している。次に飛燕が配備されたのは78戦隊でこちらは1943年4月〜6月にかけて改変を行い、7月には78戦隊もニューギニアに進出している。同時期に東京調布の244戦隊も飛燕が配備された。

 1944年になると17戦隊が飛燕を装備してフィリピンに進出、続いて19戦隊も同じくフィリピンに進出した。他には18戦隊、55戦隊、56戦隊、59戦隊、105戦隊、第7錬成部隊、独立23中隊、さらには明野、水戸等の教導団でも飛燕を装備、特攻機としても使用されている。

 

まとめ

 

 三式戦闘機は日本では数少ない液冷エンジン搭載の戦闘機である。このためエンジン不調に泣かされたが、機体は頑丈で一度も空中分解事故を起こすことは無かった。生産されたのは儀燭ほとんどであるが、戦争後期に完成した況寝は生産数こそは少なかったものの高度10000mの成層圏で544km/hというB-29と同等の速度を出すことが出来た。これは日本の戦闘機としては稀有なことであった。

 


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