01_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 九五式戦闘機は川崎航空機が1935年に開発した陸軍主力戦闘機で初期の日中戦争で活躍した複葉機である。複葉機としては究極の高性能であり、最高速度は400km/hと海軍の九五式艦戦を50km/h近く上回り、九六式艦戦とほぼ同じ速度であったが、複葉機の時代は終わり単翼機が主流となっていく中で最後の複葉戦闘機となった。

 

九五式戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(二型)

全幅 10.02m
全長 7.55m
全高 3.3m
自重 1,360kg
最大速度 400km/h
上昇力 5,000mまで5分00秒
上昇限度 11,500m
エンジン出力 850馬力
航続距離 1,100km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃(八九式固定機関銃)
設計・開発 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1934年9月陸軍は川崎航空機にキ‐10、中島飛行機にキ‐11の試作を命じた。特に川崎航空機は九三式単軽爆撃機の発動機不調、九二式戦闘機の後継機として開発したキ-5の不採用により経営状態が悪化していたためこのキ-10にかける熱意は凄まじかった。そして初の日本人スタッフのみでの設計の機体であった。

 

開発

02_九五式戦闘機
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年9月、試作指示を受けた川崎航空機は、土井武夫技師を設計主務者として開発を開始、わずか6ヶ月後の1935年3月には試作1号機が完成した。前作では斬新な逆ガル翼の機体であったが、今回は保守的に複葉機となった。エンジンはドイツBMW製エンジンを独自に改良した800馬力ハ-9兇鮑陵僉金属製の骨組みに羽布を張った構造となった。

 1935年7月には、中島飛行機に製作が命じられたキ-11と共に比較審査が行われた。この結果、キ-10は最高速度400km/hとキ-11に15km/hほど劣っていたが、上昇力、運動性能、操縦性は断然優っていたため1935年9月に陸軍の次期主力戦闘機はキ-10に内定、11月に制式採用された。生産は12月から始まり、同時に2型の設計もスタートした。

 

二型

 1935年12月に設計がスタートした。一型は高性能ではあったが安定性に問題があり、その問題を解消するのと同時に格闘戦性能を向上させるというのが二型の目的であった。試作機は1936年11月に完成、優秀な成績で審査をクリア制式採用され、1937年6月より生産が開始された。これに伴って1型の生産は1937年10月で打ち切られている。

 一型に比べ二型は翼面積が増大し、同時に重量も増大したが、翼面積が増大したため翼面荷重は減少している。最大速度、上昇速度、航続距離は1型とほとんど変わりはないが、実用上昇限度が11,500mと向上、当初の狙いであった安定性も向上した。

 

1型性能向上第2案型(キ10-飢)

 第1案型が制式採用され2型となったのとは別に第2案型も製造されていた。設計開始は1936年4月で10月に試作機が完成している。これは翼断面型や冷却器、脚支柱等の変更を行ったもので、これにより最大速度が420km/hと1型よりも20km/h向上していたが、2型が成功したために1機生産されたのみで終わった。

 

1型性能向上第3案型(キ10-恐)

 1937年3月、1型第1案(2型)のエンジン、冷却器、脚、風防を改修した第3案の設計が開始され、同年11月に試作1号機が完成した。これはエンジンを850馬力ハ9恐気亡港し、風防を川崎航空機初の密閉式風防に変更されたものであった。性能は2型と大きく変わらないが、最大速度は440km/hと2型よりもさらに20km/h向上した。同時に安定性、運動性能も向上している。複葉戦闘機としては究極の機体ではあったが、当時、はるかに高性能であったキ-27(のちの九七式戦闘機)が制式採用されたため2機が試作されたのみである。

 

生産数

 総生産数は、1型試作機4機、量産機300機、2型試作機1機、量産機280機、性能向上機第2案型1機、第三案型2機の合計588機である。

 

戦歴

 制式採用された翌年の1936年になると九五式戦闘機はいよいよ実戦部隊に配備されることとなった。配備された部隊は第4、6、8、9、16飛行連隊である。1937年7月に盧溝橋事件が勃発すると満洲に展開していた関東軍所属の第16飛行連隊が中国大陸に進出、9月にはダグラスO-38観測機と空戦になり4機を撃墜、日本陸軍初の撃墜を記録した。

 続いて内地で編成された臨時航空団が中国大陸に進出、九五式戦闘機を装備している飛行第2大隊(定数24機)、第8大隊(定数24機)、独立第9中隊(定数12機)も航空団と共に奉天に進出、順次華北戦線に参加していった。戦線が華北から華中に広がるにつれ陸軍航空隊も華中戦線に参加、九五式戦闘機装備の独立飛行第10中隊が最初に上海に進出したのち、南京攻略戦に活躍する。その後も防空や地上部隊との直協任務に活躍するが1938年7月には九七式戦闘機に改変された。

 一方、第8大隊は1937年12月に南京に進出、翌年にかけて各種作戦に参加している他、第2大隊も河南省彰徳(現在の安陽市)に進出、3月の第一次帰徳空戦では第1中隊(隊長加藤建夫)が「七度重なる感状」の最初の感状を授与されている。1938年夏になると陸軍航空隊はこれまでの連隊編成から戦隊編成に改変、第2大隊と独立第9中隊が合流して飛行第64戦隊が誕生している。この中隊は後に「加藤隼戦闘隊」として有名になる部隊である。改編時には第2中隊、第3中隊が九五式戦闘機を装備していたが、1938年中に全部隊が九七式戦闘機に改変されており、他の戦隊も順次新型の九七式戦闘機に改変されていった。

 

まとめ

 

 九五式戦闘機は、1936年に制式採用、日中戦争初期に活躍したが、時代は単翼機に移り変わったため日本陸軍最後の複葉戦闘機となった。しかし、最高速度は400km/hと海軍の九六式艦戦量産型とほぼ変わらない高速を発揮した究極の複葉戦闘機であった。

 

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