01_一式戦闘機隼
(画像はwikipediaより転載)

 

 第二次世界大戦中最も生産された陸軍の戦闘機「隼」として有名な機体である。合計5751機の生産数は零戦に次いで日本軍用機史上2番目の多さ。太平洋戦争開戦から終戦まで使用され、戦後もアジア地域で使用されていた。

 

一式戦闘機隼〜概要〜

 

 

 

性能(一式一型)

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

背景から開発まで

 傑作機として有名な九七式戦闘機の後継機として計画された本機の基本方針は、「九七式戦闘機と同程度の旋回性能を保持しつつ他の性能を向上させる」というものであった。高速重戦闘機に移行しつつあった世界の趨勢とは異なり、格闘戦性能に重きを置いた要求であった。

 しかしだからといって速度では妥協はしたくない。航続力も欲しいということで性能要求は、速度は九七式戦闘機と比較して40km/h以上、航続力は1.6倍とする無茶な性能要求であった。

 

開発

 1937年12月、陸軍は、九七式戦闘機の後継機であるキ-43の開発を中島飛行機に指示した。試作機キ-43の設計は、設計主務者小山悌を中心に進められ、1938年12月末、試作1号機が完成した。初飛行は同年12月12日で、1939年2月に2号機、3月に3号機が立て続けに完成した。単翼で陸軍戦闘機初の引込脚を採用、風防も密閉式が採用された。照準器は旧来の筒状の望遠鏡式が採用され、プロペラは2翅、スロットルレバーはフランス式の手前に引くと増速するタイプのものであった。

 試作機の武装はドイツラインメタル社製MG17、またはこれを国産化した九八式7.9mm固定機関銃2丁であった。装弾数は各400発である。これら3機の試作機は各部に微妙な違いがあったが、1940年から1941年にかけて試作4号機以降と統一された。完成した試作機の性能はというと機体が大型化し重量も増加したため空戦性能では九七式戦闘機に及ばず、速度も期待していたほどではなかった。

 試作機3機についで増加試作機も10機が1939年11月から1940年9月にかけて製造された。試作機の不評を受けてこの増加試作機では、尾翼、風防等多くの部分で性能改善が行われた。この時にスロットルレバーも前方に押すと増速する方式に変更された。さらに機銃も八九式7.7mm固定機銃2挺に変更されたが、中島飛行機側は採用を半ば諦めていたようだ。

 変化が訪れたのは1940年の夏、シンガポール攻略を念頭に置いた遠距離戦闘機の必要性から航続距離の長いキ-43の採用が決定した。この結果、中島飛行機では1941年4月までに陸軍が要求したキ-43戦闘機40機を完成、1941年5月に一式戦闘機として制式採用された。

 制式採用された一式戦闘機は1942年3月に報道関係者に発表されたが、この時に報道係将校である西原勝少佐の発案で「隼」という愛称が考案され、以降、戦闘機隼として国民に親しまれた。因みにこれは愛称であり正式名称ではない。

 

一式一型

全幅 11.44m
全長 8.83m
重量 1580kg(資料により異なる)
出力 950馬力
最大速度 495km/h(高度4000m)
武装 7.7mm機銃、12.7mm機関砲
   15〜30塲弾2発

 

 最も初期に生産された一式戦闘機。発動機はハ‐25(海軍名「栄」)で950馬力、全幅11.44m、全長8.83m、重量1580kg、武装は八九式7.7mm固定銃または一式12.7mm固定機関砲2挺を機首内に装備できる。海軍の零戦と異なり、当初から防弾装備が装備されていた。7.7mm2挺を装備した機体は一型甲、右7.7mm、左12.7mmの機体は一型乙、12.7mm2挺の機体は一型丙と呼ばれる。

 武装に関しては威力からすると12.7mm機関砲2挺が好ましかったが、当時の12.7mm機関砲は信頼性が低かったため、実績のある7.7mm機銃2挺とした。後に12.7mm機関砲の信頼性が向上したため12.7mm機関砲2挺の丙型が誕生した。無線機は九六式飛三号無線機。

 

一式二型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 1975kg(資料により異なる)
出力 1130馬力
最大速度 515km/h(米軍テスト結果では558km/h)
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 キ-43が制式採用される前の1940年1月、速度及び上昇力向上を目的とした第二案の研究が始まった。これはエンジンをハ-25の改良型ハ‐105に変更し、機体を空気抵抗の少ない形に改良することであった。1940年5月にキ-43増加試作機1機に改修を実施、発動機はハ-105をさらに改良したハ-115(海軍名「栄21型」)を搭載した試作1号機が1942年2月に完成した。

 その後、5機の試作機と3機の増加試作機が製作され、1942年6月一式二型戦闘機として制式採用された。上記以外の改良点としてはプロペラが2翅から3翅に変更、主翼の両翼端を30cm切り詰め、主翼付け根部分の縦通材が強化された。さらに照準器は望遠鏡式から光学照準器である一式照準器に変更された。燃料タンクにも13mmのゴムで防弾化された。防弾タンクを装備した関係で搭載燃料は36L減少した。無線機は九九式飛三号無線機。

 生産は中島飛行機と立川飛行機で行われた。1942年11月に量産一号機が完成、1944年9月まで生産が続けられた。二型は大きく甲乙丙の3タイプに分けられるがこれは一般的に用いられている区分であり、陸軍の公式の呼称ではない。

 

二型甲

 甲型は最初の生産型。二型は一型に比べエンジンのパワーが向上したため潤滑油冷却器を装備しているが、初期生産型と後期生産型では冷却器の位置が異なる。排気管は集合排気管を使用。

 

二型乙

 排気管が推進力式排気管に変更された。初期生産機は集合排気管であったが、後期生産機は単排気管となった。それ以外にも冷却器の追加、増槽振れ止め、増槽取付位置の変更、頭部保護支柱の改修等の改良が行われた。二型乙型以降はタ弾、ト弾、ロ弾の搭載が可能となっている。1943年1月頃から実戦配備が開始されている。

 

一式三型

全幅 10.84m
全長 8.92m
重量 - kg
出力 1130馬力
最大速度 568km/h
武装 12.7mm機関砲2門
   30〜250塲弾2発

 

 エンジンを水メタノール噴射式のハ-115供淵-35・32型)に換装した型。最大速度は試作機で568km/hに達し、量産機でも550km/hを維持していた。1943年末に試作が内示、1944年3月に試作指示が出され、1944年12月に制式採用された。

 水メタノール噴射式のエンジンを採用したことにより、胴体内に70Ⅼのメタノールタンクが新設された。さらに座席後方の3ヵ所に厚さ13mmの防弾鋼板が追加され、照準器も三式照準器に変更されている。これらの改良により三型は一式戦の使いやすさ、運動性能を維持しつつ、速度、上昇力、実用上昇限度、航続距離等が向上している。但し、エタノール噴射装置の不具合や整備員の不慣れにより稼働率は低下している。無線機は九九式飛三号無線機であるが、一部に性能向上型であるム4四式飛三号無線機を装備している。

 この三型の武装強化型として三型乙というのも計画された。これは武装を20mm機関砲に変更したもので、1944年末から製作を開始、1945年初頭に試作機が完成した。当初は翼下に20mm機関砲ポッドを装着する案も検討されたが、結局、機首12.7mm機関砲を20mm機関砲に変更することになった。このため三型乙は風防前面の胴体が大きく膨らんだものとなった。

 この改良により重心位置が変わったためエンジン架を200mm程延長しているが、この三型乙は重量過大のため不採用となった。

 

一式四型

 計画のみに終わったが、一式戦闘機にハ-45(海軍名「誉」)、ハ-33(海軍名「金星」)エンジンを装着するという案があった。しかし計画中に終戦となった。または航空本部の指示により中止されたとも言われている。因みに零戦は金星エンジンを装着した五四型が2機試作されている。

 

その他の改修機

ロケット弾搭載型

 試作のみで終わったが、二型の両翼下面にロ三ロケット弾各2発を搭載できるようにしたロケット弾搭載機が53機試作された。1943年11月に設計に着手、1944年3月に試作機が完成したが実用に適せずとして不採用となった。

 

対潜爆弾搭載型

 二型に対潜爆弾を搭載できるようにした型。1943年11月に設計に着手、1944年1月に試作機が完成した。懸吊架は木製で両翼に60kgまたは30塲弾を搭載することができる。合計3機が試作されたが試作のみに終わった。

 

着陸制動フック装着型

 陸軍が開発中であった陸上移動式着陸制動装置と射出装置に対応するように改造された型。1944年3月に設計に着手、9月までに50機が改修されている。

 

 マルサ装置搭載型

 マルサとは資料上は○の中にカタカナのサが入る。「サ」とは酸素を指すと思われる。高高度性能を強化するためにエンジンに液体酸素を供給することにより高性能を発揮することを企図したもの。試作機のみ製作された。

 

寒冷地用装備型

 エンジンの過冷却防止のためカウリング前面の開口部に脱着可能なシャッター付き空気制限板が用意されていた。主翼とプロペラの防氷装置も試作されたが試作のみ。

 

生産数

 一型は試作機が13機あり、量産機は1941年4月から1943年2月までの間に中島飛行機で703機、陸軍航空工廠で51機の合計767機、二型が試作機8機、量産機は1942年11月から1944年9月までの間に中島飛行機で2481機、立川飛行機で1342機の合計3831機、三型が試作機3機、量産機が立川飛行機のみで1143機の合計5751機である。

 

配属部隊

 この一式戦闘機を最初に装備した部隊は59戦隊で1941年6月に立川にて一式戦一型甲を約30機受領した。しかし強度的な不具合が続出、空中分解事故が起こるに至って再度立川に帰還、一型乙に改修した後、仏印に進駐している。同年8月には64戦隊が一式戦に改変、太平洋戦争開戦時には、59戦隊が21機、64戦隊が32機、合計53機の一式戦を装備していたのみであった。

 太平洋戦争開戦後は一式戦の配備も進み、33戦隊、50戦隊、教導飛行隊の204戦隊にも一式戦が装備されていった。1942年10月になるとビルマに展開していた64戦隊は一式戦2型に改変するために内地に帰還、1943年2月3日には同じくビルマに展開していた50戦隊もスラバヤに移動、陸軍輸送船あきつ丸で運ばれてきた一式戦2型を受領、同時に2型への改編が完了した64戦隊が再びビルマに進出した。遅れて11月頃には204戦隊も2型に改変された。

 南東方面では1942年12月18日、一式戦を装備した11戦隊がラバウルに到着、1943年1月9日には1戦隊もラバウルに進出した。5月には2型を装備した24戦隊がニューギニアに進出、8月には11戦隊の後退と共に59戦隊が進出、二式複戦装備の13戦隊や三式戦装備の68戦隊も11戦隊や24戦隊、59戦隊が残していった一式戦を装備していた他、63戦隊、77戦隊が一式戦を装備していた。

 以降、20戦隊、26戦隊、30戦隊、31戦隊等多くの部隊が一式戦闘機を装備、終戦まで活躍した。

 

 

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