
(画像はwikipediaより転載)
薩摩級戦艦は日本初の国産戦艦である。初の戦艦でありながら世界最大の戦艦であり、最新のタービン機関を搭載した画期的な戦艦であった。第一次世界大戦に参加した他は目立った活躍はしていないが、日本戦艦史に残る名艦であるといえる。
戦艦 薩摩級 〜概要〜
性能
通常排水量 19372トン(安芸は19800トン)
最大排水量 -トン
全長 137.2m(安芸は140.2m)
全幅 25.5m
吃水 8.4m
機関出力 1万7300馬力(安芸は2万5000馬力)
最大速力 18.3ノット(安芸は20ノット)
航続距離 -
乗員 887名(安芸は931名)
武装 45口径30.5cm砲連装2基
45口径25.4cm砲連装6基
40口径12cm砲単装12基
45口径15.2cm砲単装8基(安芸のみ)
40口径7.6cm砲単装8基(安芸は16基)
45cm水中発射管5門
装甲 舷側 22.9cm
甲板 50.8cm
主砲 233.7cm
同型艦 2隻
特徴
本級は日本初の国産戦艦である。それまで装甲巡洋艦建造の経験はあったものの戦艦の建造経験はなかったが、香取級よりも高性能な戦艦を目指して日本独自の設計で建造された。旧来の戦艦を増産するのではなく独自設計でより高性能を目指した意欲作であった。
当初の計画では艦の中心線上に主砲連装4基を搭載するという弩級戦艦を先取りする案もあったが、最初の国産戦艦ということもあり従来通りの前後に2基という設計で落ち着いた。主砲の数こそは従来通りであったが、中間砲は45口径25.4cm連装砲を6基とかなり強力な配置となっている。中間砲は威力こそ主砲に劣るものの発射速度では主砲を上回り、状況によっては弩級戦艦をも凌駕する能力を持ったものであった。
このため排水量は2万トン近くなり、建造時点では世界最大の戦艦となった。さらに2番艦安芸では最新のタービン機関を搭載するという初の国産戦艦としてはかなり挑戦的な艦であった。同型艦で速力が異なるという点を承知の上で新技術に挑む意欲と同時に当時の日本の焦りが感じられなくもない。
同型艦
1番艦薩摩
2番艦安芸
建造
1番艦薩摩は1905年5月に起工、2番艦安芸は1906年3月に起工した。1番艦薩摩は1910年3月、2番艦安芸は1年後の1911年3月に竣工した。
戦艦薩摩級の活躍
1番艦薩摩

(画像はwikipediaより転載)
主砲の増設を諦める代わりに中間砲を増設した本級だが、当初は発射速度に難があった。改良を繰り返され、後には発射速度も速くなり弩級戦艦に匹敵する砲戦能力になったと言われている。1910年竣工と同時に第一艦隊に就役、第一次世界大戦では第二南遣支隊に編入され、太平洋のドイツ領攻略作戦に活躍した。1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦、除籍となる。1924年9月には標的艦として沈没した。
2番艦安芸

(画像はwikipediaより転載)
安芸は1番艦薩摩の同型艦とされているが、実際には様々な違いがある。副砲の口径が延長されていること等もあるが、最大の違いは薩摩がレシプロ機関であるのに対して、安芸がタービン機関であることであろう。これにより最大出力が薩摩1万7300馬力に対して安芸2万5000馬力と大幅に増加している。最大速度も薩摩18.5ノットに対して安芸が20ノットと大きな違いが出ている。外観上の違いは煙突の数で薩摩が2本に対して安芸は3本である。
1911年3月に竣工した安芸は、第一次世界大戦に参加したのち、1919年には大改装を受け、数度御召艦として活躍したが、1923年9月、ワシントン軍縮条約により廃艦となった。1924年9月標的艦として戦艦長門、陸奥の砲撃により沈没。艦はこれにより沈没したが、安芸の砲身のみは兵庫県西宮市の鳴尾八幡神社で戦没者を祀る慰霊塔として現存している。

(画像は鳴尾八幡神社に現存する戦艦安芸の砲身 wikipediaより転載)
まとめ
薩摩型戦艦は日本海海戦の前々日に起工、日露戦後に就役しワシントン軍縮条約により廃艦となった目立たない戦艦であった。しかし日本初の国産戦艦であった。本級には初の国産戦艦でありながら世界最大の戦艦であったことを始め、最新のタービン機関を採用する等、当時の技術者の数々の意欲的な挑戦がみられる日本戦艦の記念碑的な艦であった。
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