01_谷水竹雄
(画像はwikipediaより転載)

 

 模型愛好家だったら、米軍の星マークに矢が刺さっている撃墜マークの横に立っている搭乗員の写真を見たことがあるかもしれない。零戦の写真集には必ずと言っていいほど掲載されている有名な写真だ。この写真の男は谷水竹雄飛曹長。初陣から終戦までに撃墜した敵機の数は18機とも30機以上ともいわれる、太平洋戦争中期から終戦まで戦い続けた熟練搭乗員だ。

 

海軍へ。。。

 

02_九三式中練
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は、大正8年三重県生まれた。母は真珠を採る海女だったという。昭和16年2月に丙種予科練習生3期に採用された。丙飛卒業生の飛練は17期、18期の2期あり、谷水は16年4月に始まる17期飛練に分けられた

 飛練の教員は操練40期の中島隆三空曹で同じ教員に割り当てられたペアには杉野計雄、杉田庄一、のちにソロモン航空戦で戦死する加藤正男がいた。撃墜数は不確定要素が強いので参考にしかならないが、杉野は32機撃墜、杉田は70機撃墜と言われる著名な撃墜王となっていく。この中島隆教員はよほど教えるのが上手かったのだろうか谷水も18機の撃墜記録を持っていたと言われている

 そのまま大分空へ転勤、戦闘機搭乗員として訓練を受ける。この時期には海兵67期、甲飛5期、乙飛10期が訓練を受けている。のちに翔鶴戦闘機隊で分隊長となる小林保平も同時期に訓練を受けていた。これらの期は太平洋戦争中盤から中核として戦ったクラスであり、その分、犠牲も多かった。

 

6空配属。ミッドウェー海戦

 

03_ミッドウェー海戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和17年3月飛練を修了。4月1日に新たに木更津で編成された6空に配属される。6空は司令森田千里大佐、飛行長玉井浅一中佐、飛行隊長新郷英城大尉を主要幹部に迎えた特設航空隊である。その後、204空と改称され、のちのラバウル航空戦の主力として戦線を支え続けた部隊だ。

 4月18日のドーリットル隊の空襲では6空も陸攻隊を援護して敵機動部隊攻撃に向かうが発見できずに帰投している。空襲は日本側の防御網の貧弱さや油断から成功し、日本側の死傷者は500名以上に上った。この空襲の大本営からの発表では日本側の損害は「軽微」、米軍機を9機撃墜したことになっている。実際には、日本側は陸海軍共に航空機が飛行していたが誤認や油断のために1機も撃墜することはできなかった。

 この空襲がきっかけでミッドウェー作戦が決定されるのだが、6空もミッドウェー島占領後の基地航空隊としてミッドウェー作戦に参加する。6空は南雲機動部隊と陽動のため実施されるアリューシャン作戦に参加する空母隼鷹に分乗するのだが、谷水は隼鷹に乗っていたため難を逃れた。

 

空母大鷹へ

 

03_大鷹
(画像はwikipediaより転載)

 

 ミッドウェー作戦失敗後、隼鷹は大湊に寄港、谷水他6空搭乗員は陸路木更津に移動する。6空はその後ラバウルに進出するが、谷水や同期の杉野は7月7日、母艦搭乗員として大分空で編成中の「大鷹」戦闘機隊に着任する

 空母大鷹は日本郵船の貨客船春日丸を海軍が徴収したもので排水量17830トン、最高速力22ノットの航空母艦である。谷水が配属された時点ではまだ特設空母春日丸であったが、昭和17年8月に大鷹として正式に航空母艦となる。空母としては小型で速力も22ノットしか出せないため戦闘機は未だ九六式艦戦であり、搭乗員には熟練者が選抜された。

 谷水は数ヶ月前に実戦部隊に配属されたばかりであるが、飛練も同期の中では早い17期に編入されていることや母艦搭乗員に選抜されていることからも当初から搭乗員としてのセンスに恵まれていたのだろう。この時の大鷹戦闘機隊の構成は、丙3期の谷水、杉野、米田以外は飛行隊長は海兵66期の塚本祐造、分隊士は操練26期の松場秋夫、その他の搭乗員も操練26期の青木恭作、同27期大久保良逸、甲飛1期の前田英夫等の熟練者が揃っていた。

 

母艦搭乗員としての猛訓練

 

 昭和17年7月7日着任後、大分基地で母艦搭乗員としての猛訓練を受ける。この猛訓練のお陰で谷水は終戦まで生き抜くことができたという。8月17日、春日丸は戦艦大和の護衛としてトラック諸島に進出、谷水も戦闘機隊員として乗艦する。以降、航空機の輸送任務に従事するが、10月にはデング熱にかかってしまう。その後谷水は空母大鷹と共に呉着、大村空で教員配置に就く。短期間ではあるが飛練24期の教員となる。

 飛練練習生卒業後は、練習生の一部と共に12月1日付で佐世保軍港防衛戦闘機隊に転勤する。戦闘機隊といっても新人の錬成も主な任務だったようだ。この時期に谷水はじめ搭乗員達が憲兵と喧嘩になった。その後問題となり谷水が暴行の犯人として名乗り出たという。どうも実際にはやっていないようだ。

 昭和18年1月、谷水は同期の杉野と共に冨高基地に移動する。冨高基地は艦隊航空隊の訓練基地で1月15日には訓練部隊である第50航空戦隊が開隊している。ここで艦隊航空隊の訓練を行うための移動だ。この時点で艦隊戦闘機隊への編入が決まっていたようだ。

 この異動は同期の杉野と一緒であるが、驚いたことに谷水と杉野は飛練の練習生時代に同じ教員のペアになって以来、9回の異動でもいつも同じ部隊であった。海軍ではかなり珍しいことだ。この冨高への移動の途中、谷水と杉野は「私たちはピーナッツですね「本当だ、二人は二枚貝のようだな。いっしょにいるから強く生きているのかね」と話し合ったという

 同期とはいっても同年ではなかったが、二歳年上の谷水に対して8ヶ月海軍への入隊が早い杉野と、年齢では谷水が先輩だけど、海軍では杉野が先輩ということで対等な付き合いだったようだ。冨高基地では艦隊航空隊の訓練が行われていたが、この時、のちに「トッカン兵曹」と呼ばれる小高登貫もこの冨高基地の訓練に参加していたようだ。小高は翔鶴戦闘機隊に配属予定であったが急遽202空に変更されてしまった

 それぞれの搭乗員の記録を読むと当初から所属する母艦が決まっていたというのではなく、「艦隊航空隊搭乗員」として冨高基地に集められ、のちにそれぞれの母艦に振り分けが行われていたようだ。当時、翔鶴戦闘機隊に所属していた操練43期の熟練搭乗員小平好直の手記によると、築城航空隊附となったが築城飛行場が完成していないため築城空冨高派遣隊となっていた。築城空は昭和17年10月に新設された艦上機搭乗員練習航空隊である。

 

空母翔鶴に転属

 

04_翔鶴
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水や杉野、小高はいったん築城空に配属されたのちそれぞれの航空隊に配属されたのだろう。昭和18年2月に転勤命令が出て、谷水はまたもや杉野と共に翔鶴戦闘機隊に配属されるが、この時期には空母翔鶴は南太平洋海戦での損傷を修理中であったようだ。4月には谷水達翔鶴戦闘機隊は訓練のため笠之原基地に移動した。

 笠之原基地で谷水は戦闘機爆撃の研究員となる。戦闘機爆撃とはその名の通り戦闘機による爆撃をすることである。これは空母の飛行甲板を一時的に破壊することを目的している。ミッドウェー海戦や南太平洋海戦での経験からの着想だろう。当然、戦闘機は爆撃用ではないので急降下爆撃機のようにエアブレーキがない。急降下すると自然に浮き上がってしまったりと爆撃機のように目標に命中させるのは難しいようだ。

 この戦闘機爆撃という戦法は一見合理的に見えるが、実はかなり危険な戦法のようだ。昭和18年11月24日、マキンに上陸した敵を爆撃するために252空の周防大尉以下19機の爆装零戦が出撃したが、内10機がたどり着く前に敵戦闘機に撃墜されてしまっている。零戦は爆装すると全く自由が効かず敵が襲ってきても手も足も出ないという

 同様に昭和18年12月15日、マーカス岬の米軍上陸地点に爆撃をかけたラバウルの爆装零戦隊15機も、15機中14機が被弾、3機が不時着するという大損害を受けた。米軍には損害はほとんどなかった。この戦闘機爆撃の危険性は翔鶴戦闘機隊でも訓練前から把握していたようで、南太平洋海戦にも参加した分隊長の小林大尉は谷水の同期の杉野に対して戦闘機爆撃隊は決死隊であると語っている

 

トラック島へ進出

 

 昭和18年7月10日、笠之原基地での数ヶ月に及ぶ訓練を終え、翔鶴戦闘機隊は空母翔鶴に収容され呉を後にした。15日には南方の連合艦隊の拠点トラック諸島に到着する。全くの余談だが、呉トラック間の距離は3573km、5日間で到着したので一定の速度で航行していたと仮定すると、速度は時速29.7km、ノットにすると16ノットでの航海となる。戦時中の機動部隊の航行速度が分かって面白い。

 トラック諸島に着いた谷水たちを待っていたのは引き続きの猛訓練であった。珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と相次ぐ海戦に搭乗員が消耗してしまったため、若手搭乗員の技量を早急に上げる必要にせまられてのことだった。

 戦闘機爆撃の訓練も引き続き行われた。その結果、戦闘機爆撃の命中率は50%以上に達したという。2回に1回は命中するというのは相当な練度といえる。しかしこの訓練中、脇本二飛曹が標的艦矢風のマストに接触、空中分解するという事故も起こった。脇本二飛曹は死亡。遺体は手足の無い胴体のみが回収されたという

 そんな中、第一航空戦隊の三空母合同の大演芸会が企画された。娯楽の少ない戦地では演芸会というのは本当に楽しいようだ。翔鶴戦闘機隊は谷水が座長になり漫才や寸劇等が行われた。谷水は寸劇を担当した。特に女形の声色が素晴らしかったようだ

 

搭乗員の墓場ラバウルへ

 

05_ラバウル航空隊
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和18年11月1日、谷水達翔鶴戦闘機隊員は「ろ」号作戦に参加するためラバウルの西、ブナカナウ飛行場に進出した。「ろ」号作戦とは、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の艦隊航空隊をソロモン方面の戦闘に投入し、一挙に体制を立て直そうとした作戦であった。

 この時の進出機数は資料によって若干の違いがあるが、翔鶴戦闘機隊32機、瑞鶴戦闘機隊32機、瑞鳳戦闘機隊18機の計82機の戦闘機隊が進出した。翌11月2日、米軍機のラバウル来襲に対して、ラバウルに展開する204空、201空等と第一航空戦隊の零戦隊は迎撃戦を展開する。

 翔鶴戦闘機隊は2機を失うも撃墜40機という大戦果を挙げた。この日の迎撃戦では全部隊での撃墜戦果は撃墜97機、不確実22機、総合戦果は、当時の新聞報道によると対空砲火の戦果まで含めると201機の撃墜であったという。しかし実際の米軍側の損害はP38、9機、B25、8機の計17機であった。これに対して零戦隊は18機が撃墜されている。損害だけで見るとほぼ互角の戦いといっていい。

 この空戦で谷水はP38、2機を撃墜し初陣を飾る。飛練を卒業してから1年半での初陣であった。他の丙3期出身の同期の中には1年以上前に戦地に送られている者もあり、十分な訓練期間を与えられた谷水は幸運であったといえる。「ろ」号作戦は11月13日を以って終了する。ラバウルに進出した第一航空戦隊零戦隊82機の内、43機を失った。艦攻、艦爆に至っては8割以上が失われた挙句、特筆すべき戦果は何もなかった。この後、翔鶴戦闘機隊はマーシャル諸島に進出する。谷水が参加したかどうかは不明であるが恐らく参加しただろう。帰還後、谷水は次期作戦のため、しばらく休養を命ぜられた。

 

トラック島に後退

 

06_トラック島
(画像はwikipediaより転載)

 

 この数週間の戦闘で消耗しつくした第一航空戦隊は再建のため本土に帰還する。昭和18年12月13日、中川大尉を隊長として母艦戦闘機隊より選抜された谷水、杉野を含む21名は、派遣隊としてラバウル、トベラ基地に展開している253空の指揮下に入った。昭和19年2月1日付で台南空への転勤命令がでるまでの2ヶ月間、谷水は「搭乗員の墓場」と言われたラバウルで連日の航空戦に参加した。谷水は、このラバウルでの戦闘においてヘルキャットが最も強敵であったという。

 

「機動性に富み、素早く横転ができるヘルキャットがいちばん手ごわい相手でした。P-38やF4Uコルセアは小回りが効かず、一撃して離脱していくだけでしたから。米軍機は総じて空中で火を吐かせるのは至難の業でした。弾丸を命中させても、いくらか煙をひくだけなのです。煙が出るようすをみれば、それがアメリカ機か零戦かすぐわかりました」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 さらにF4Uコルセアについてはこう語っている。

 

 「F4Uコルセアを確実に落とそうと思うなら、気づかれてはいけません。そして、後方のある特定の角度からでないと、銃弾がはね返されてしまいます。また、私はコルセアが低高度から機種を上げきれずにそのままジャングルや海中に突っ込んでいくのを目にしています。機体が重すぎるのでしょう。我々はときにはコルセアを追いかけて海に突っ込ませたものです。零戦は軽かったのでそんな心配はありませんでした」 ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P82

 

 憲兵隊との事件で犯人として名乗り出たことからも分かるように谷水は優しい性格だったのだろう。昭和19年1月4日、パラシュートで海面に降下する敵パイロットに対して救命用浮き輪を投げたこともあった。残念ながらその米軍パイロットは生還できなかった

 数々の空戦を生き抜いた谷水達第一航空戦隊派遣隊は1月25日、ラバウルを後にする。進出した時、21名いた隊員はわずか7名になっていた。第一航空戦隊派遣隊以外にも長期間にわたってラバウル戦線を支えた204空、501空がトラック島に後退したが、代わりに第二航空戦隊がラバウルに進出した。この中には「オール先任搭乗員」菊池哲生上飛曹もいる。

 トラック島に帰還した谷水は春島基地で錬成中の202空に仮入隊する。次の転勤先は谷水が台南空教員、杉野が大分空教員と土浦以来いつも一緒だった二人がとうとう別々の勤務先に配属されることとなった。2月4日、トラック島にB24が飛来、谷水と杉野は迎撃に出撃するがこれが谷水と杉野が一緒に戦う最後の空戦であったようだ。

 

内地帰還。親友との別れ

 

 2月10日、本土とトラック島の輸送任務に従事していた空母瑞鳳に乗艦しトラック島を出発、2月下旬、横須賀に入港した。ここからの移動手段は不明だが、恐らく電車であろう。途中で谷水は実家の志摩によるため、大分に直行する杉野と別れることになる。別れる時はただ一言「元気でな」だけであった。谷水と別れた杉野は何か気の抜けたような感じであったという。生死を共にした仲間の別れとしてはあっけないが、本当の親友に言葉はいらないのだろう。

 昭和19年2月下旬、横須賀に着いた谷水は飛練以来の戦友、杉野と別れ実家のある志摩に向かった。志摩で母親にあったのち、台湾方面行きの航空便を待つため鹿屋に向かった。そこで台南空より大村航空廠に練戦の領収に来ていることを知り一路大村基地に向かった。台南空とは台南航空隊の略で台湾の台南を拠点とする航空隊である。台南空といえば、坂井三郎や西澤廣義、笹井醇一等が活躍した部隊として有名であるが、この台南空はその部隊とは異なり、昭和18年4月に台南に開隊した練習航空隊である。

 

台湾へ異動

 

 その台南空では機材受領等のために大村の第二一航空廠との間で機材輸送を行っていた。谷水達が便乗したのはこの内の練戦受領の便だった。練戦には九六式艦戦をベースにした二式練戦と零戦ベースの零式練戦があったが、恐らく練戦とは第二一航空廠で試作、生産が行われた零式練戦のことだであろう

 零式練戦とは零戦21型を複座式にした練習機で昭和18年に試作機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された。谷水が台南空に着隊した時期は恐らく3月上旬だと思われるので完成したばかりの正式採用前後の機体であったのだろう。谷水は、空輸隊指揮官松田二郎飛曹長に理由を話して領収飛行に参加、沖縄経由で台南空に着任した。谷水が担当したのは特乙1期、2期であった。特乙とは乙飛合格者の中から年長者を選び短期間で教育する制度だ。特乙は1期〜10期まで採用されたがこのうち戦闘機専修があったのは4期までである

 谷水の手記には、その特乙1期も昭和19年5月には卒業したとあるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』には特乙1期の卒業は7月とありどちらが正しいのかは不明である。ただ、特乙2期は飛練も2期に分けれられているのでより人数の多かった特乙1期も2期に分けられていた可能性もある。その後、特乙2期も終了、前後して13期予備学生が入隊する。これら訓練生の教育と共に教官や教員には哨戒任務も課せられていた。特に、これら教官、教員の中でも、この時期の台南空では夜間戦闘ができるのは谷水と零戦初空戦に参加した熟練搭乗員岩井勉(撃墜22機)のみであったという。

 

B24を撃墜

 

07_B24
(画像はwikipediaより転載)

 

 夜間空襲の場合、一つの目標に対して二機が立ち向かうことはお互いに衝突する恐れがあるので、邀撃は零戦1機のみで行うこととなり谷水と亀井が交互に待機任務に就くことになった。昭和19年8月31日、B-24、11機の接近に対して、待機中の谷水に出撃命令が下った。谷水は最初に1機を銃撃、手ごたえを感じたというが損害を確認できず、さらに対空砲火が止んだのを見計らって別の1機のエンジンに一撃し1機撃墜戦果を報告している。これは425thBSのノーマン・Bグレンドネン中尉操縦のB-24で墜落して1名が捕虜になっている。

 谷水が最初に銃撃をかけた1機もその後中国大陸で山に衝突しているので、谷水はこの空戦で2機を撃墜していることになる。9月3日にも夜間に大型機の邀撃をするが、この時は陸軍の一式戦から攻撃を受け撃墜に失敗している。この時の一式戦は風防を開けたままであったということに谷水は驚いているが、加藤隼戦闘隊こと、第64飛行戦隊のエース安田義人によると、陸軍の戦闘機乗りは死角を減らすために風防を開けたまま戦うのが普通だったようだ

 台南空での勤務時、谷水は特攻隊の話を聞かされ志願している。特攻隊の編成は志願による場合と、志願という建前で強制される場合があったが、台南空の場合は前者の方だったようだ。谷水は当初、母一人子一人であったため特攻の話から外されていたが、特攻であることを知り改めて志願している。昭和19年10月になると、台湾も米軍機動部隊の攻撃を受けるようになってきた。谷水もしばしば邀撃戦に参加している。さらに台南空教員でありながら、「飛び入り」で台湾沖航空戦にも参加している。しかし11月3日、ちょっとした油断から撃墜されてしまう。

 撃墜したのは74FSのボリアード中尉でP51を駆り、谷水と列機の伊藤上飛曹機を撃墜、最終的には5機を撃墜するエースとなる。伊藤は戦死、谷水は一命を取り留めるものの大やけどをしてしまう。病気療養中、台南空は練習航空隊としての機能を失った結果、教官、教員で特攻隊を編成することになった。当然谷水も特攻隊員に任命されたのだが、台南空司令の判断により内地の戦闘308飛行隊への転勤を命ぜられる。因みに教官とは士官、教員は下士官の指導員のことを指す。

 

戦闘303飛行隊へ

 

08_零戦52型丙
(画像はwikipediaより転載)

 

 昭和19年12月6日、谷水は鹿屋に到着、笠之原基地で戦闘308飛行隊へ入隊した。その戦闘308飛行隊も前線に進出してしまったが、谷水は被撃墜時の傷のため内地に残留となり、そのまま戦闘312飛行隊に編入された。傷の癒えた谷水はこの戦闘312飛行隊で数度の空戦に参加する。

 昭和20年3月26日戦闘303飛行隊に編入された。戦闘303飛行隊は昭和19年3月1日に発足した飛行隊で太平洋戦争末期、海軍戦闘機隊の中で最も練度の高い部隊であった。隊長は海兵63期のベテラン指揮官岡嶋清熊で、隊員には戦地帰りの熟練者が多く、太平洋戦争のトップエースと言われる西澤廣義、零戦虎徹を自称するエース岩本徹三、操練27期のエース近藤政市、ラバウル帰りの西兼淳夫等、太平洋戦争末期においてもA級搭乗員の比率は30%に及んだ

 戦闘303飛行隊は編成後、フィリピンに進出し壊滅的な打撃を受ける。谷水が戦闘303飛行隊に編入されたのは、この消耗した戦闘303飛行隊が再編成された時であった。谷水の編入に前後して岩本徹三や近藤政市も戦闘303飛行隊に着任したようだ。いくら精鋭部隊といえども1945年にもなるとさすがに彼我の戦力差から士気が低下してきたようだ。谷水は隊員の士気を高めるため隊歌を作詞したりもしたようだ。その隊歌が以下のものだ。

 

<岡嶋戦闘機隊の歌>
一 乱雲南にまた北に 乱れ飛ぶ世に生を得て
  意気と度胸のますらおが 建てし誉れの進軍賦
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

二 衆を頼みつ驕りつつ 神州汚す醜敵を
  死を期し破邪の剣もて 国の勝利を我が胸に
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

三 身は何冥の雲を染む 功は永遠に若鷲の
  生気放光錦江湾 七生報国意気高し
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

(土方敏夫『海軍予備学生空戦記』より引用)

 

 当初は二番目の「国の勝利」は「遂の勝利」であったが、共同通信の記者の意見によって変えたという。この歌詞にさらに士官の土方敏夫が曲をつけ隊歌が完成した。さらに士気高揚のために撃墜マークを機体に描いたのもこのころであった。安部氏の手記の時系列が正しければ、撃墜マークを描いたのは昭和20年6月〜7月中旬あたりだろう。

 戦闘303飛行隊は九州に展開していた第五航空艦隊随一の制空戦闘機隊として八面六臂の活躍をしていたが衆寡敵せず昭和20年8月15日終戦となった。当時、戦闘303飛行隊が所属していた五航艦は作戦継続を指令していたようだが、結局、停船命令が出た。最後は五航艦司令宇垣纏中将の特攻によって五航艦の戦闘は幕を閉じたようだ。

 

終戦

 

09_空母天城
(画像はwikipediaより転載)

 

 谷水は宇佐基地で終戦を迎えた。玉音放送後、厚木の陸上爆撃機銀河が徹底抗戦を主張するガリ版刷りの檄文を撒いていった。ただ、15日を以って完全に戦闘が終了した訳ではなく、16日も迎撃戦が行われ未帰還機も出したようだ。最精鋭の飛行隊だけに武装解除時にも零戦搭乗員が拳銃を持ち零戦に乗りプロペラ外しと燃料を抜きに来た整備員を近づけなかったという。谷水も終戦を認めず終戦後も5日間にわたって敵機を追い求め徹底抗戦を主張するビラを撒いたりしたようだ

 その後、谷水の手記によると、8月19日夜、総員集合命令があり、集合すると総員無期休暇が発表された。さらに20日零時までに本州に入ること、またそれが出来なかった場合は山に入ること。さらに敵がポツダム宣言を履行しなかった場合は24時間以内に原隊に復帰することが言い渡されたという。土方敏夫の著書によると若干異なる。土方によると24日に搭乗員集合の命令がかかり24時間以内に退隊すること、搭乗員の証拠になるようなものは一切身に着けるな。さらに隊から正式に帰隊命令があるので地下に潜伏し、隊長とは連絡が取れるようにすることが言い渡されたという

 どちらが正しいのか(またはどちらも正しい)は不明だが、速やかに基地から離れること、帰隊の指示を待てというのは共通している。どちらも血の気の多い搭乗員を復員させるための方便であったのかもしれない。谷水は重要書類を焼却したのち、送別会を行い、全員で泣きながら同期の桜を歌ったという。谷水の総飛行時間は1425時間、その間に撃墜した敵機は18機とも32機とも言われている