東海
(画像はwikipediaより転載)

 

 哨戒機東海は1945年に制式採用された現在でいう対潜哨戒機である。最新鋭の磁気探知機と対潜爆弾を装備し、低速で長時間滞空することが可能であった。傑作機ではあったが、登場があまりにも遅い上に記録が少なく、実際の活躍は不明な部分が多い。

 

哨戒機東海〜概要〜

 

 

性能

全幅 16.0m
全長 12.085m
重量 −
最高速度 322.2km/h
上昇時間 2000mまで8分44秒
実用上昇限度 4490m 
航続距離 1342.7km〜2415km
武装 7.7mm機銃1挺
   三式1号探知機
   三式空六号無線電信機4型
   250kg対潜爆弾2発
開発 九州飛行機

 

背景から開発まで

 日本海軍で対潜哨戒機が初めて登場したのは資料上は1940年7月の『航空機機種及び性能標準』で、当初の対潜哨戒機は水陸両用機が想定されており、要望は対潜哨戒に適すること、対潜急降下爆撃が容易なことであった。航続距離は武装した状態で8時間以上であった。この性能標準の修正版に基づいて東海の計画はスタートした。

 

開発

 1941年に修正した『航空機機種及び性能標準』ではそれまで水陸両用機として計画されていた哨戒機は基本的に陸上機として開発するものの艦上機、水上機としても使用できるように考慮するということでまとまり、1942年9月のちの九州飛行機に十七試哨戒機の試作を内示した。哨戒速度は出来るだけ低速であること、航続時間は10時間以上、潜水艦発見と同時に急降下爆撃が出来ること等が要求された。これを受けて九州飛行機では10月より野尻康三技師を主務者として設計を開始した。

 1942年11月〜12月に木型審査が行われ、1943年2月にはさらに電波探信儀(レーダー)装備に適していることや実用高度を低く抑えること、機銃の強化、急降下爆撃の具体的な基準が追加された。1943年12月試作1号機が完成、以降、試作機、増加試作機合わせて9機が製造された。1944年4月から生産開始。1945年1月に東海11型として制式採用された。

 この東海で特徴的なのは座席配置で、搭乗員3名の座席は全て機首にあり、操縦員が前、偵察員が右後方、電信員が左後方というユニークなものだった。機体の特徴は急降下爆撃用に装備されたフラップで急降下時には最終速度を314.8km/hに落とすことが可能であり、エンジンは低出力だが信頼性の高い610馬力天風で低速で長時間滞空する東海にはうってつけのエンジンであった。

 その他対潜哨戒用として電探(レーダー。三式空六号無線電信機四型)、一式空三号無線帰投方位測定機、磁気探知機KMXを装備していた。

 

磁気探知機

 磁気探知機とは、潜水艦が発する地磁気の変化を捉えて海中にある潜水艦の所在を探知するもので、当時、世界で実用化していたのは日本だけだった。磁気探知機KMXは、1942年秋に研究に着手、1年後の1943年11月に制式採用されたもので、探知能力は3000トン級潜水艦であれば、直上160m、左右120m、1000トン級潜水艦であれば、直上120m、左右90mの範囲なら確実に探知が可能であった。KMXは、地磁気の変化を捉えると操作員の受聴器に独特の音が発生、同時に検流計の針が振れる。そして警報灯が点灯して機内にブザーが鳴り響き搭乗員に知らせるという仕組みになっていた。

 

東海の運用法

 水中の潜水艦の探知は可能ではあったが、探知範囲が非常に狭く、単機での捜索には限界があった。そこで東海は200m間隔で3〜5機の編隊を組み5〜10mの高度で飛行して潜水艦を探知するという方法を採用した。これは大きな効果があったといわれている。このKMXは他にも対潜哨戒目的に使用されていた九六陸攻にも搭載されていた。

 

東海11甲型

 東海の搭載機銃を20mm機銃にしたもので1945年2月に量産が発令された。

 

練習機型

 高性能陸爆銀河の練習用として改良されたのが東海練習機型で1945年7月に制式採用された。操縦席が並列複座になっていることから、外観上は機首側面に膨らみがあることで判別できる。

 

生産数

 生産数は1943年に7機、19年に88機、20年58機の合計153機である。終戦時には第三千歳空に13機、三沢2機、能代空5機、横須賀空8機、小松空5機、美保空15機、水島空1機、博多空12機、宮崎空1機の合計62機が残存していた。

 

配属部隊

 

 1944年4月に東海は生産開始、これに合わせて夏頃から東海搭乗員の訓練が開始された。訓練用の機体は横空飛行実験部にあった試作機でこれら3機が横空に引き渡されてまずは幹部搭乗員の訓練が開始、10月になると佐伯空に東海隊が編成、本格的な訓練が開始された。訓練された搭乗員、整備員と機体は901空、951空に派遣、海上護衛戦に活躍するようになる。

 記録上の最初の実戦参加は1944年12月で九州南西海面と五島列島周辺での対潜攻撃作戦であった。その後901空、951空の派遣隊が上海や済州島に展開、日本近海での対潜哨戒任務に従事している。

 

まとめ

 

 戦歴は不明な点が多いが、記録上初の実戦参加は1944年12月下旬であり、海上護衛戦に従事した。総生産数153機中91機が失われ、終戦時には62機が残存しており、消耗率は約60%と意外に高い。対潜哨戒機としては高性能であったが、低速であることや、実戦に投入されたのが戦争後期の制空権が無い状況下であったがめであろう。

 

【お願い】
下記のリンクを踏んで何らかの商品を購入して頂くと私にちょっとだけお金が入ります。良い記事だと思われたら投げ銭代わりにお願いします。

 


ミリタリーランキング