紫雲
(画像はwikipediaより転載)

 

水上偵察機紫雲〜概要〜

 

 紫雲は潜水艦隊旗艦用巡洋艦として建造された大淀に搭載するために製作された高速水偵で生産数はわずか15機のみであったが、二重反転プロペラを始めとする画期的な技術を採用した水偵で、当時の水上機では最高レベルの性能を持っていた機体でもあった。しかし戦局は紫雲を必要としない方向に推移し、紫雲は目立った活躍をすることなく消えていった。

 

性能

全幅 14m
全長 11.567m
翼面積 30.0
全備重量 4.100kg
過荷重 4900kg
武装 7.7mm旋回銃1挺、60kgb爆弾2発。
最大速度 468km/h(川西飛行機資料)
航続距離 (正規)1389km、(過荷重)3370.6km

 

背景から開発まで

 潜水艦隊旗艦用巡洋艦搭載用の高速水偵として計画された。 この巡洋艦は丙型巡洋艦と呼ばれ、索敵により敵艦隊の位置を把握して指揮下の潜水艦を的確に所用海域に向かわせることが使命であった。海軍の要求は、二座水偵であること、カタパルトによる射出が可能であること、自動操縦装置、写真機装置の装備、そして何よりも敵艦隊付近での強行偵察という目的であったため、最高速度が高度4,000mで555km/h以上という戦闘機並みの高速を要求するという非現実的な要求であった。

 

開発

 1939年7月1日、川西航空機に開発が指示された。これを受け川西航空機では設計を開始、この非現実的な要求に対応するため、エンジンは当時最強力であった火星エンジン(二式大艇や一式陸攻に使用されている)を採用、トルクによる影響をなくすため二重反転プロペラとし、フロートは少しでも空気抵抗を減らすため単フロート、補助フロートは半引込式とすることが決定した。

 1941年12月5日初飛行。試作機5機、さらに増加試作機10機が発注されたが、1号機は転覆事故を起こすなどトラブルが続出、1942年10月に海軍に領収されるが、トラブル続きのため、領収は順調にはいかず、以降、15機全てが領収されたのは1944年2月であった。1943年8月10日には水上偵察機紫雲11型として制式採用されたものの量産化はされず試作機のみ。 エンジンは川西の資料では火星14型(1500馬力)であるが、海軍の資料では火星24型(1850馬力)となっている。開発途中で変更された可能性が高い。

 水偵としては当時最高性能であったが、海軍側の要求値には達しておらず、計画から完成までの間にレーダーの出現など海戦様式が大きく変化した関係もあり紫雲の大淀搭載は中止となり、大淀は連合艦隊旗艦に改装された。

 

悲運の紫雲

 1944年4月、横須賀で紫雲隊が編成、5月28日以降3機がパラオに進出(最終的には6機)、第12偵察隊として第一航空艦隊第五基地航空部隊第41西空襲部隊に配属された。翌月には「あ」号作戦に参加したが、出動した機はいずれも敵戦闘機の追撃を受けたとき主フロートが落下せず撃墜されたといわれている。 主フロートは投下可能であったが実機による試験は行っていなかった。

 

生産数

 試作機5機、増加試作機10機の合計15機のみ。

 

まとめ

 

 大戦中、日本陸海軍は少ない資源を使って多くの試作機を製作した。本機もそれら試作機の一つであった。レーダーの開発により存在意義を無くした機体であったが実戦でも使用された。実戦ではフロートが落下せず多くが撃墜されたようだ。仮にフロートが落下したとしても、フロートを投下するということは生還したとしても海面に危険な胴体着水する他ない。日中戦争時に計画された航空機であったが、戦争の様相が変わった太平洋戦争において紫雲はもはや活躍の場はなかった。それでも開発を中止させることなく航空機開発の貴重なリソースを使い続けた上に投下式フロートという人命軽視の思想。ある意味日本海軍を象徴した航空機と言えるかもしれない。

 


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