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↑この写真の人!!



 昭和20年3月26日、谷水は戦闘303飛行隊に編入された。戦闘303飛行隊は昭和19年3月1日に発足した飛行隊で太平洋戦争末期、海軍戦闘機隊の中で最も練度の高い部隊であった。


 隊長は海兵63期のベテラン指揮官岡嶋清熊で、隊員には戦地帰りの熟練者が多く、太平洋戦争のトップエースと言われる西澤廣義(87機撃墜)、零戦虎徹を自称するエース岩本徹三(80機撃墜)、操練27期のエース近藤政市(13機撃墜)、ラバウル帰りの西兼淳夫等が所属しており、太平洋戦争末期においてもA級搭乗員の比率は30%に及んだ(1)


 戦闘303飛行隊は編成後、フィリピンに進出するが、そこで壊滅的な打撃を受ける。谷水が戦闘303飛行隊に編入されたのは、この消耗した戦闘303飛行隊が再編成された時であった。谷水の編入に前後して岩本徹三や近藤政市も戦闘303飛行隊に着任している(2)


 谷水が所属していた時期の戦闘303飛行隊は第五航空艦隊隷下203空に所属、九州の基地で作戦行動を行っていた。昭和20年になると前線は九州まで後退しており、五航艦随一の制空部隊である戦闘303飛行隊は最前線で連合軍と対峙していた。


 当時の戦闘303飛行隊の戦闘の激しさは、丙飛16期出身の戦闘機搭乗員安部正治の手記(3)や土方敏夫の著書(4)に詳しいが、谷水も貴重なA級搭乗員として、さらに戦闘303飛行隊の先任搭乗員として日々の激しい戦闘に活躍していた。


 戦闘経験の豊富な上に人柄の良い谷水は、上下から信頼されていたようだ。予備学生13期出身の土方敏夫によると、谷水が台南空時代に予備学生13期の教育隊の教員をしていたことから親しみやすく、細かいことも良く教えてくれた。さらに実戦では、谷水が小隊長の位置、士官の土方が列機の位置に就き戦い方を実地で教えていったという(5)


 先任搭乗員としての谷水は、低下しがちな士気の高揚にも腐心していた。いくら精鋭部隊といえども1945年にもなるとさすがに彼我の戦力差が圧倒的になってくる。谷水は隊員の士気高揚の手段の一つとして隊歌を作詞した。その隊歌が以下のものだ。


<岡嶋戦闘機隊の歌>
一 乱雲南にまた北に 乱れ飛ぶ世に生を得て
  意気と度胸のますらおが 建てし誉れの進軍賦
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

二 衆を頼みつ驕りつつ 神州汚す醜敵を
  死を期し破邪の剣もて 国の勝利を我が胸に
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊

三 身は何冥の雲を染む 功は永遠に若鷲の
  生気放光錦江湾 七生報国意気高し
  ああ、吾等は吾等は 岡嶋戦闘機隊
(土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』より引用)


 当初は二番目の「国の勝利」は「遂の勝利」であったが、共同通信の記者の意見によって変えたという。この歌詞にさらに士官の土方敏夫(予備13期)が曲をつけ隊歌が完成した(6)。さらに士気高揚のために撃墜マークを機体に描いたのもこのころであった。安部氏の手記の時系列が正しければ、撃墜マークを描いたのは昭和20年6月〜7月中旬あたりだろう(7)


 戦闘303飛行隊は九州に展開していた第五航空艦隊随一の制空戦闘機隊として八面六臂の活躍をしていたが衆寡敵せず昭和20年8月15日終戦となる。当時、戦闘303飛行隊が所属していた五航艦は作戦継続を指令していたようだが(8)、結局、停戦命令が出た。最後は五航艦司令宇垣纏中将の特攻によって五航艦の戦闘は幕を閉じた。


 谷水は現在の大分県宇佐市柳ヶ浦駅付近にあった宇佐基地で終戦を迎えた。玉音放送後、この宇佐基地にも徹底抗戦を主張した厚木航空隊の陸上爆撃機銀河が徹底抗戦を主張するガリ版刷りの檄文を撒いていったようだ。一般には8月15日を以って全ての部隊が戦闘を中止したと考えられているが、実際にはその後も戦闘が散髪していた。戦闘303飛行隊も15日を以って完全に武装解除した訳ではなく、16日も迎撃戦が行われ未帰還機も出したという(9)


 戦闘303飛行隊は、最精鋭の飛行隊だけに武装解除時も大変だった。玉音放送後、日本中の海軍航空隊では武装解除のため、航空機の燃料を抜き、プロペラを外した。戦闘303飛行隊でも整備員たちがこの作業を行おうとしたところ、搭乗員達は拳銃を持ち零戦に乗りプロペラ外しと燃料を抜きに来た整備員を近づけなかったという(10)


 谷水の手記には終戦時のことはあまり触れられていないが、谷水は終戦を認めず、終戦後も5日間にわたって敵機を追い求め徹底抗戦を主張するビラを撒いたりしていたらしい(11)。結局、8月19日夜、総員集合命令があり、集合すると総員無期休暇が発表された。さらに20日零時までに本州に入ること、またそれが出来なかった場合は山に入ること。さらに敵がポツダム宣言を履行しなかった場合は24時間以内に原隊に復帰することが言い渡された(12)


 ここらへんの記憶は人によって若干異なる。土方敏夫によると、24日に搭乗員集合の命令がかかり24時間以内に退隊すること、搭乗員の証拠になるようなものは一切身に着けるな。さらに隊から正式に帰隊命令があるので地下に潜伏し、隊長(蔵田)とは連絡が取れるようにすることが言い渡されたという(13)


 どちらが正しいのか(またはどちらも正しい)は不明だが、速やかに基地から離れること、帰隊の指示を待てというのは共通している。ただ、司令部が帰隊命令をどこまで本気で出そうとしていたのかは疑わしい。再度戦闘を行う可能性を示唆しつつ復員させるというのは、血の気の多い搭乗員を復員させるための方便であったのかもしれない。


 結局、終戦を受け入れた谷水は重要書類を焼却したのち、送別会を行い、全員で泣きながら同期の桜を歌ったという(14)。谷水の総飛行時間は1425時間、その間に撃墜した敵機は18機とも32機とも言われている(15)


参考・注釈

(1)渡辺洋二『彗星夜襲隊』P109
(2)安部正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』P206
(3)安部正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった
(4)土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記
(5)土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』P250
(6)土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』P259
(7)安部正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』P225
(8)岩本徹三『零戦撃墜王』P392
(9)土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』P282
(10)土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』P283
(11)ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』P86
(12)谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』P88
(13)土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』P284
(14)谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』P89
(15)秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』P192、ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』P86


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