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↑この写真の人!!



 昭和19年2月下旬、横須賀に着いた谷水は飛練以来の戦友、杉野と別れ実家のある志摩に向かった。志摩で母親にあったのち、台湾方面行きの航空便を待つため鹿屋に向かった。そこで台南空より大村航空廠に練戦(練習用の航空機)の領収に来ていることを知り一路大村基地に向かった(1)


 台南空とは台南航空隊の略で台湾の台南を拠点とする航空隊である。台南空といえば、戦記に詳しい人には、坂井三郎や西澤廣義、笹井醇一等が活躍した部隊として有名であるが、この台南空はその部隊とは異なり、昭和18年4月に台南に開隊した練習航空隊である。


 その台南空では機材受領等のために頻繁に大村の第二一航空廠から機材輸送を行っていた。谷水達が便乗したのはこの内の練戦受領の便だった。練戦には九六式艦戦をベースにした二式練戦と零戦ベースの零式練戦があったが、恐らく練戦とは第二一航空廠で試作、生産が行われた零式練戦のことだであろう(日立航空機でも272機生産されている)。





 零式練戦とは零戦21型を複座式にした練習機で昭和18年に試作機が完成、昭和19年3月17日に正式採用された(2)。谷水が台南空に着隊した時期は恐らく3月上旬だと思われるので完成したばかりの正式採用前後の機体であったのだろう。


 谷水は、空輸隊指揮官松田二郎飛曹長(撃墜9機のエース)に理由を話して領収飛行に参加、沖縄経由で台南空に着任した(3)。谷水が担当したのは特乙1期、2期であった。特乙とは乙飛合格者の中から年長者を選び短期間で教育する制度だ。特乙は1期〜10期まで採用されたがこのうち戦闘機専修があったのは4期までである(4)


 谷水の手記には、その特乙1期も昭和19年5月には卒業したとあるが、秦郁彦『日本海軍戦闘機隊』には特乙1期の卒業は7月とありどちらが正しいのかは不明である。ただ、特乙2期は飛練も2期に分けれられているのでより人数の多かった特乙1期も2期に分けられていた可能性もある。


 その後、特乙2期も終了、前後して13期予備学生が入隊する。これら訓練生の教育と共に教官や教員には哨戒任務も課せられていた。特に、これら教官、教員の中でも、この時期の台南空では夜間戦闘ができるのは谷水と零戦初空戦に参加した熟練搭乗員岩井勉(撃墜22機)のみであったという。





 夜間空襲の場合、一つの目標に対して二機が立ち向かうことはお互いに衝突する恐れがあるので、邀撃は零戦1機のみで行うこととなり谷水と亀井が交互に待機任務に就くことになった(5)


 昭和19年8月31日、B-24、11機の接近に対して、待機中の谷水に出撃命令が下った。谷水は最初に1機を銃撃、手ごたえを感じたというが損害を確認できず、さらに対空砲火が止んだのを見計らって別の1機のエンジンに一撃し1機撃墜戦果を報告している。これは第425爆撃飛行隊のノーマン・Bグレンドネン中尉操縦のB-24で墜落して1名が捕虜になっている。


 谷水が最初に銃撃をかけた1機もその後中国大陸で山に衝突しているので、谷水はこの空戦で2機を撃墜していることになる(6)。さらに9月3日にも夜間に大型機の邀撃をするが、この時は陸軍の一式戦から攻撃を受け撃墜に失敗している。


 この時の一式戦は風防を開けたままであったということに谷水は驚いているが、加藤隼戦闘隊こと、第64飛行戦隊のエース安田義人(撃墜10機以上)によると、陸軍の戦闘機乗りは死角を減らすために風防を開けたまま戦うのが普通だったようだ(7)





 台南空での勤務時、谷水は特攻隊の話を聞かされ志願している。特攻隊の編成は志願による場合と、志願という建前で強制される場合があったが、台南空の場合は前者の方だったようだ。谷水は当初、母一人子一人であったため特攻の話から外されていたが、特攻であることを知り改めて志願している(8)


 昭和19年10月になると、台湾も米軍機動部隊の攻撃を受けるようになってきた。谷水もしばしば邀撃戦に参加している。さらに台南空教員でありながら、「飛び入り」で台湾沖航空戦にも参加した。しかし11月3日、ちょっとした油断から撃墜されてしまう。


 撃墜したのは第74戦闘飛行隊のボリアード中尉でP51を駆り、谷水と列機の伊藤上飛曹(甲飛10期)機を撃墜、最終的には5機を撃墜するエースとなる(9)。伊藤は戦死、谷水は一命を取り留めるものの大やけどをしてしまう。


 病気療養中、台南空は練習航空隊としての機能を失った結果、教官、教員で特攻隊を編成することになった。当然谷水も特攻隊員に任命されたのだが、台南空司令の判断により内地の戦闘308飛行隊への転勤を命ぜられる。因みに教官とは士官、教員は下士官の指導員のことを指す。


 昭和19年12月6日、谷水は鹿屋に到着、笠之原基地で戦闘308飛行隊へ入隊した。その戦闘308飛行隊も前線に進出してしまったが、谷水は被撃墜時の傷のため内地に残留となり、そのまま戦闘312飛行隊に編入された。傷の癒えた谷水はこの戦闘312飛行隊で数度の空戦に参加する。


あの撃墜マークの人 谷水竹雄 飛曹長 5/5(完結)へつづく


参考・注釈

(1)谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』P64
(2)秋本実『日本軍用機航空戦全史〈第5巻〉大いなる零戦の栄光と苦闘』P88
(3)谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』P65
(4)零戦搭乗員会編『海軍戦闘機隊史』P334,345
(5)岩井勉『空母零戦隊』P261
(6)ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』P84
(7)梅本弘『ビルマ航空戦(上)』P438
(8)谷水竹雄「愛機零戦で戦った千二百日」『零戦搭乗員空戦記』P69
(9)ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』P84


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