不定期更新です。 更新は気分次第でーす(^_-)

空母翔鶴01



 菊池の性格は豪放磊落で気骨のある「日本の張飛」とあだ名されるほどの人物だったが菊池が広い視野で海軍全体を客観的に見ていることが分かる。ただの豪傑ではないのだ。菊池の聡明さを示すエピソードにこんなものがある。


 のちの話になるが、昭和19年(1944年)5月に連合軍がビアク島に上陸した際、母艦搭乗員の間で敵機動部隊の主目標について憶測が交わされた。多くの搭乗員はビアクを主目標と考えたが菊池は一人異を唱える。


ビアク島こそ牽制作戦だ。大体アメリカさんは、ソロモン・ニューギニア方面を陸軍が受け持っとるタラワ、クェゼリンは玉砕したが、あの方面ー太平洋の真ん中は、海軍の受け持ちだ。だから、敵の機動部隊はサイパンにくる。サイパンだ
東富士喜「龍鳳戦爆隊」『艦隊航空隊』





 当時米軍は陸軍と海軍がそれぞれの方面から日本に侵攻していた。海軍はマーシャル諸島、マリアナ諸島、硫黄島、沖縄と太平洋を進撃する作戦を行い、陸軍はニューギニアからフィリピンを目指していた。


 根拠から分析、結論まで全く正確であったことはのちに判明することとなる。連合艦隊がビアク島に上陸した米軍に対して渾作戦を行い兵力を分散させてしまったことを考えると菊池は連合艦隊の参謀以上に正確に状況を把握していたといえる。


 昭和17年(1942年)11月、内地帰還後築城空の教員をしていた菊池だが昭和18年(1943年)9月再び母艦勤務に復帰する。龍鳳、飛鷹、隼鷹と第二航空戦隊を転々とした後、南方に進出する。この間、昭和18年12月末から一週間カビエン基地へ派遣された。





 さらに昭和19年(1944年)になると隼鷹、飛鷹、龍鳳の第二航空戦隊はラバウルに派遣され菊池上飛曹も1月25から2月19日までラバウルで連日の迎撃戦に参加する。ラバウルに派遣された第二航空戦隊は戦闘機だけで69機を数え、少数で迎撃戦を展開していたラバウル航空隊にとって強力な増援であった。


 同時に、この第二航空戦隊の進出によって長い間戦線を支えていた第一航空戦隊派遣隊、204空、501空はトラック島に後退する。この大部隊の登場に、当時253空に所属していた岩本徹三飛曹長は、歓迎すると同時に「艦隊戦闘機隊という誇りはあっても敵の性能、戦法も知らない状態であれば危険である」と不安を感じていた(1)


 実際、第二航空戦隊戦闘機隊は初空戦で4機を喪失するという損害を出してしまう。菊池や小泉藤一という熟練搭乗員もいたが多くが実戦経験の少ない若手搭乗員だったことが理由だろう。岩本の不安は的中した。





 しかし連合軍側には第二航空戦隊の戦線参加は脅威だったようだ。当時の連合軍側航空隊指揮官は下記のように警鐘を鳴らしている。


ラバウルの防空戦には明らかに新しい部隊が加わっていた。新着の零戦隊は自軍の対空砲火に当たる危険を顧みずSBD艦爆の急降下に食らいついて来た。従来の零戦隊に比べ、この部隊はよく訓練され指揮統率もより攻撃的であった。これからもこの部隊と戦わなければならないとすると、大きな損害を覚悟しなければならないかも知れない(2)


 菊池達、第二航空戦隊の登場は連合軍側を恐怖せしめたようだ。しかしこの第二航空戦隊も連日の戦闘で徐々に消耗していきラバウルを後退する時には69機あった戦闘機も37機に減少していた。約半数になってしまったのだ。





 昭和19年(1944年)2月に第二航空戦隊はラバウルを後にする。そして菊池はそのまま652空に転じた。652空は第二航空戦隊の後進部隊であり基幹搭乗員も多くが残されたようだ(因みに第二航空戦隊は艦隊であり652空は航空隊である。複雑なので説明は割愛する)。ただ第二航空戦隊はラバウルでの戦闘で大きく消耗しており内地で再建が急がれた。下士官の「ぬし」である菊池上飛曹も部下の教育に腐心したであろう。


 そして昭和19年(1944年)6月、あ号作戦に出撃する。菊池上飛曹は攻撃隊直掩として出撃するも敵機動部隊を発見出来ずに燃料がなくなったためグアム島に着陸する。菊池上飛曹は上空哨戒にあたっていたがその時40〜50機の米軍機が来襲、菊池上飛曹等直掩戦闘機隊は迎撃する。


 しかし長距離飛行をしてきた直掩戦闘機隊には燃料がなく、撃墜されるまでもなく次々に落ちていったという。菊池上飛曹も敢闘し敵機2機を撃墜するも燃料切れのため落ちていった。豪放磊落でありながら広い視野を持ち、幾度もの士官昇進の内示も拒否し続けた名物男、「オール先任搭乗員」菊池上飛曹は昭和19年(1944年)6月19日マリアナ沖に消えた。


 菊池上飛曹の戦果は判明しているもので撃墜5機、協同及び不確実7であるが、日本海軍は公式資料には個人戦果を記載しない場合が多く、この菊池上飛曹の戦果も赤城時代のものしか残ってない。一説には20機以上撃墜していたともいわれるが実際のところは不明である。


オール先任搭乗員 菊池哲生上飛曹 1/3
オール先任搭乗員 菊池哲生上飛曹 2/3
オール先任搭乗員 菊池哲生上飛曹 3/3


参考文献

(1)岩本徹三『零戦撃墜王
(2)梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3


 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。内容は基本的には秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』に多く寄っているが、それ以外の資料については文中に明示した。


↓良かったらクリックして下さい。

ミリタリー(模型・プラモデル) ブログランキングへ