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インド洋作戦



 昭和17年(1942年)4月にはインド洋作戦に参加。5日のコロンボ空戦では単機で撃墜3機、不確実撃墜2機を記録する。これが確認できる菊池の初戦果のようだ。このコロンボ空襲はインド洋の要衝に位置するセイロン島にある英軍基地を空襲したものであった。日本側発表の戦果は英軍機を51機撃墜。対して日本側の戦闘機1機、艦爆6機が撃墜されたとしている。


 この数字はやや過大であり、戦後の航空史家の調査によると英軍の実際の損害は28機と日本軍の報告した戦果の約半数であるという(1)。それにしても圧倒的勝利であったことは間違いない。勝利の要因は日本側の兵力が圧倒していたためだろう。


 そして昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦に参加。第一次制空隊としてミッドウェー島攻撃に参加、2機撃墜、2機不確実撃墜の戦果を挙げる。その後艦隊上空哨戒で来襲してきた米軍機と交戦協同で3機を撃墜するも母艦赤城が撃墜されたため飛龍に着艦する(2)





 この時、飛龍が被弾艦内に閉じ込められてしまう。一緒にいた高須上飛(操練51期)と出口を探すが全て閉鎖されており一時は自決を決意したようだ。しかし士官室の窓から外に出られることに高須上飛が気が付き脱出するが菊池は20数貫(80kg以上)を超す巨体。一時は脱出を断念すも最終的には何とか脱出することができた(3)


 その後、菊池はミッドウェー海戦生き残りの他の搭乗員と共に鹿屋基地に軟禁される。外出は禁止され仲間以外とは口がきけない状態だったという。菊池は鹿屋基地に軟禁されたがミッドウェー海戦に参加した他の搭乗員も各基地に軟禁された。


 例えば後にラバウルで有名を馳せる第6航空隊(のち204空)の搭乗員は木更津(4)、蒼龍乗組の岡元高志(操練43期)は大湊航空隊に。同じく蒼龍乗組の原田要は笠之原基地に軟禁された(5)(6)





 この軟禁はミッドウェーの敗戦を隠すための口封じというのが大方の搭乗員の見方であった。味方の搭乗員を軟禁とは大げさと思われるかもしれないが、木更津基地に軟禁された6空搭乗員は海岸寄りの隊舎に入れられた上、縄張りが張られ憲兵によって監視されており(7)、まさしく軟禁である。


 このミッドウェー海戦の敗北の隠ぺいでそれまで正確に報道していた大本営発表が虚偽の発表を行うようになった。これは国民だけでなく陸軍に対してさえも隠ぺいされたという(8)


 それはともかく、正確な日時は不明だが1ヶ月ほどで軟禁は解かれたようだ。菊池は今は機動部隊の主力となった空母翔鶴に着任する。他のミッドウェー生き残りの搭乗員は7月にそれぞれ新しい部隊に着任しているので菊池も7月頃に翔鶴に着任したのだろう。





 菊池は翔鶴戦闘機隊として第二次ソロモン海戦に参加する。第二次ソロモン海戦とは昭和17年8月24日に始まった日米空母海戦である。主な参加兵力は日本側が空母翔鶴、瑞鶴、龍驤、米側はエンタープライズ、サラトガ、ワスプである。


 海戦の結果は日本側は空母龍驤、駆逐艦睦月が撃沈され、多数の航空機を失ったのに対して米側はエンタープライズ中破と20機の航空機を失ったに過ぎなかった。日本側の完全な敗北である。これによってガダルカナル島の制空権は完全に米側の手に落ちた。


 その後菊池は新郷英城大尉の指揮の下、ブーゲンビル島ブカ基地に進出。連日の航空戦に参加する。9月4日に翔鶴戦闘機隊は帰還するが、進出した15機中帰還したのは菊池を含め10機のみであった。未帰還の5機の中にはミッドウェー海戦で共に飛龍から脱出した高須上飛も含まれていた。





 さらに10月26日、空母翔鶴は南太平洋海戦に参加する。これは陸軍のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場総攻撃を支援するために出撃した日本海軍機動部隊とそれを阻止するために派遣された米海軍機動部隊との間に行った海戦である。


 結果的に米機動部隊の撃退には成功したものの主目的である日本軍の総攻撃は失敗したが、日本側の損害が空母翔鶴大破というのに対して米側は空母ホーネットが沈没、エンタープライズ中破と一応戦術的勝利を収めた形になる。


 しかし人員の損害をみると艦船乗員の死者は同数であるものの航空機搭乗員の米側26名に対して日本側148名と極端に多い(「南太平洋海戦」wikipedia)。この南太平洋海戦で菊池の操練39期の同期星谷嘉助も瑞鶴戦闘機隊員として戦死している。





 この海戦に菊池は参加していない。これは菊池がブカ基地に進出した際マラリアとデング熱に感染してしまったことが原因らしい。菊池はマラリアとデング熱のために体が熱くなり、それを冷ますための氷嚢に入っている氷をかじっていたことにより病状をこじらせてしまった。このため南太平洋海戦の間は翔鶴の艦内で寝ていたようだ(9)。因みにこの南太平洋海戦で操練39期の同期星谷嘉助が瑞鶴戦闘機隊で参加戦死している。


 菊池はそのまま内地の病院に入院してしまう。同時に昭和17年(1942年)11月、菊池は上飛曹に進級する。これは菊池にとって生前の最高位である。以降菊池は戦死するまで「俺は士官の仲間入りはしない」(10)「准太郎(准士官=飛曹長)になるほどの馬鹿じゃない」(11)と飛曹長(士官)への任官を拒み続ける。


 菊池が士官への任官を拒否する理由はこうだ。菊池によると日本海軍の強さは下士官にある。そして兵を強い下士官に育てるのは下士官だ。しかし戦争が始まって経験の浅い兵ばかりになってしまった。そのために自分が下士官として残り続け優秀な下士官を育て続ける。というのだ(12)


オール先任搭乗員 菊池哲生上飛曹 3/3へつづく


参考文献

(1)梅本弘『ビルマ航空戦〈上〉
(2)秦郁彦『日本海軍戦闘機隊
(3)小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供
(4)204空編『ラバウル空戦記
(5)森史朗『零戦 7人のサムライ
(6)原田要『零戦(ゼロファイター)老兵の回想
(7)杉野計雄『撃墜王の素顔
(8)辻田真佐憲『大本営発表
(9)小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供
(10)小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供
(11)白浜芳次郎『最後の零戦
(12)白浜芳次郎『最後の零戦』P174


 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。内容は基本的には秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』に多く寄っているが、それ以外の資料については文中に明示した。


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