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零戦01
(画像はwikipediaより転載)


 オール先任搭乗員。何のことだか分からないかもしれない。これは日本海軍の戦闘機搭乗員であった菊池哲生上飛曹に付けられたあだ名だ。先任とは軍隊では同じ階級で最も序列が上の人間を指す言葉だ。では「オール先任」とはどういうことだろうか。


 日本海軍では特務士官といって下士官兵から士官への昇進のルートが存在した。特に搭乗員は昇進が早く、ある程度の経験、実績を積むと特務士官となることができる。


 著名な海軍の搭乗員である岩本徹三や坂井三郎等も兵として海軍に入り特務士官となり少尉として終戦を迎えている(岩本、坂井は菊池と同年兵)。しかし菊池哲生は士官への昇進を拒み続け下士官として生涯を終えた。「オール先任搭乗員」というあだ名はこれに由来している。





 もちろん能力が低くて昇進できなかった訳ではない。彼は技量人格共に優れ、撃墜数も恐らく20機は超えていると言われる程の熟練搭乗員であった。菊池はあくまでも「自ら」士官になることを拒み続けたのだ。


 菊池哲生は大正5年(1916年)に岩手県に生まれる。父親、兄共に医師であった(1)。昭和9年(1934年)に海軍に入隊、当初整備兵であったが航空機搭乗員を目指し、昭和12年(1937年)5月操縦練習生39期に採用された。


 操縦練習生略して操練は兵から選抜される搭乗員養成課程である。前の38期には著名な撃墜王坂井三郎がおり首席で卒業している。余談だが、操練は兵からの選抜のため年齢に開きがあるが搭乗員という体力が必要な職種である以上、ある程度年齢層は固まっている。





 例えばこの操練39期前後のクラスは主に大正5年前後の年齢の練習生が主だった。大正5年生まれ前後の搭乗員は20代前半で中国戦線で実戦経験を積み、25歳前後の知力体力共に充実した時期に太平洋戦争に突入したため、戦争初期から中核となって戦ったクラスであったが同時に犠牲も多かった。


 例えば、菊池の卒業した操練39期生30名の内、戦闘機専修は7名いるが、その内6名が戦死している。このことからもどれだけ過酷だったのかが分かるだろう。
 訓練を終えた菊池の初の戦地は昭和14年(1939年)に配属された南支戦線である。しかし、ここでは空戦の機会には恵まれず内地に帰還、霞ヶ浦航空隊、谷田部航空隊で教員配置となる。


 海軍の搭乗員の教育は「職人の養成」と言われるくらいの少数精鋭主義であった。この時期は日米開戦を間近に控えた時期であったため搭乗員の大量育成が始まりつつあったが戦争中期や末期に比べればはるかに充実していた。





 それだけに教育も厳しかったが特に「日本の張飛」と言われた菊池哲生の教育の厳しさは有名だったようであり、入隊早々の挨拶が「パンチ」であり、以後も折に触れ体罰が加えられたという(2)


 この時期に菊池に教育を受け、後に南方やラバウル航空隊や343空で活躍した著名なエース本田稔氏は菊池教員についてこのように語っている。


菊池哲生―― その名は、霞が浦にまで知れ渡っており、本田氏はもし自分が谷田部空に行っても、この菊地兵曹の指導だけは避けたいと祈る思いでいた。だが、残念ながら本田氏の祈りは天に届かなかったのである。とにかく菊池教官の指導は厳しかった。「93式中間練習機」通称”赤とんぼ”の後部座席から、ことあるごとにゴツンと頭を殴られる毎日が続いた。本田氏は菊地教官の指導についてこう語っている。「菊池教官の教育は、要するに自分の操縦は自分で編み出せということでした。昔の侍の剣の道と一緒だというわけです。つまり、基本は教えてやるけれども、本田流の操縦は自分で編み出せと。結局それが良かったと思いますね」
(井上和彦『最後のゼロファイター』より引用)





 体罰については当時の搭乗員の間にも賛否があるようで乙種予科練5期の角田和男は反対、日本海軍のトップエースと言われる西澤廣義は肯定などまちまちだった。


 因みに、この昭和16年(1941年)中盤から後半に育成された搭乗員は丙飛(旧操練)2〜4期、乙飛(旧予科練)10期、甲飛5期、海兵68期は戦争初期から中期にかけて各地の戦線に投入された。活躍すると同時に多くの犠牲を出すこととなる。甲飛5期にいたっては戦闘機専修者42名中36名が太平洋戦争で命を落とした。


 菊池は教員配置の後、昭和16年(1941年)9月空母赤城乗組みを命ぜられる。そして昭和16年(1941年)12月8日、赤城以下6隻の空母艦載機が真珠湾を攻撃する。所謂真珠湾攻撃である。


 菊池は制空隊ではなく艦隊上空哨戒を命ぜられる。恐らく当時はまだ熟練搭乗員が多く経験の比較的少ない菊池クラスの搭乗員が上空哨戒にまわされたのであろう。この時に艦隊上空哨戒を行った搭乗員にはのちに活躍する岩本徹三、原田要、小町定等がいた。


オール先任搭乗員 菊池哲生上飛曹 2/3へつづく


参考文献

(1)小平好直「翔鶴戦闘機隊」『艦隊航空隊』供
(2)岡野 充俊『本田稔空戦記


 ※本記事は敬称略。書籍等の二次資料に基づいて執筆しており一次資料にまで遡っての事実確認はしていない。そのため事実関係において誤りがある可能性があることは否定できない。内容は基本的には秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』に多く寄っているが、それ以外の資料については文中に明示した。


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