
(画像は局地戦闘機雷電 wikipediaより転載)
はじめに
本書は太平洋戦争ドキュメンタリーのシリーズ第2巻。このシリーズは「土曜通信社」という出版社から1954〜1962年まで刊行された戦記シリーズを24巻にまとめたものだ。戦後9年から17年までの間の手記なので内容がかなり生々しい。もちろん事実誤認も多いだろうがかなり貴重な資料だ。
目次
- 東京空戦記 厚木302部隊元海軍大尉 阿山須美雄 初出は1962年
- ツラギ夜襲戦 第十八戦隊司令元海軍少将 松山光治 1954年
- ビルマ隼戦記 飛行64戦隊元陸軍准尉 安田義人 1956年
- 七つボタン記 三重空予科練 西村由吉 初出は1962年
- 九九艦爆戦記 701空元海軍少佐 江間保 1954年(推定)
- 軍艦名取短艇隊の生還 名取高射長元海軍大尉 久保保久
- 零戦と共に 653空戦闘機隊 白浜芳次郎 初出は1962年
- 十八軍密林戦記 第九個定通信隊長元陸軍少佐 清水博 1956年
- 電探かく戦へり 連合艦隊司令部付元海軍大尉 立石行男 1955年
東京空戦記
最初の手記は「東京空戦記」の著者は阿山須美雄氏となっているが、土曜通信社の戦記版は寺村純郎でクレジットされている。1962年〜1967年の間に養子に入るなり改名したりしたのだろう。旧軍の軍人は戦後養子に入ったり改名したりする人が多い。阿山氏もその一人だと思う。阿山氏は海兵71期で終戦時でもまだ経験では新人の域を出ないクラスだ。
その阿山氏が指揮官として分隊を率いて戦うプレッシャーはすごいだろう。何せ部下はあの伝説の搭乗員赤松貞明中尉だ。阿山氏は赤松氏には気に入られていたようだ。厚木航空隊の戦記だが、空戦以外の搭乗員達の日常が面白い。B-29が接近中でも到着まで碁をやっている搭乗員など戦闘前でも意外とのんびりしている。当時の戦闘機は遅く上がるのは論外だが、早く上がり過ぎても燃料が無くなってしまう。
その時間調整が新鮮だった。さらに雷電は事故が多く「殺人機」と呼ばれていたことは有名だが、その事故の中でもエンジンが飛行中に落ちてしまったことやプロペラのピッチが逆になっているというのがあったそうだ(P20)。
ツラギ夜襲戦
第二のツラギ夜襲戦とは現在では第一次ソロモン海戦と言われる海戦である。日本軍の完勝だったが、輸送船を攻撃しなかったことが後に批判の対象になる。その海戦に司令官として参加した人の手記だ。まだこの時代は将官も存命だったのだ。
ビルマ隼戦記
は著名な陸軍戦闘機搭乗員である安田義人氏の執筆によるもの。安田氏は『栄光 加藤隼戦闘隊』という本も出版されているので読んでみるといいと思う。この手記の部分も含まれているはずだ。安田氏が撃墜されて歩いていると前から支那兵(中国兵)がやってくる。お互いに武器を持っているがそのまますれ違うという戦場での奇妙な事件は面白い(P100)。
さらに第64飛行戦隊、通称加藤隼戦闘隊の撃墜判定が参考になる。加藤隼戦闘隊では地面に激突したことを確認しない限り撃墜とは認められないという方針だったそうだ(P117)。近年、ビルマ航空戦を日本・連合国の史料を元に正確な彼我の損害を調査している梅本弘氏が第64戦隊の戦果報告はかなり正確であることを確認している。
もちろん過大になっている場合もあるが、連合軍の戦闘報告と第64戦隊の戦果報告が完全に一致している場合もあったという(梅本弘『ビルマ航空戦』上P316)。
七つボタン記
著者は乙種予科練21期生で航空機搭乗員として採用されたが飛行訓練をする間もなく特攻兵器(恐らく回天か海龍)への志願が募られた。歴戦の零戦搭乗員岩本徹三は特攻に対してはっきりと「否」と書いて提出したが(角田和男『修羅の翼』P344)、予科練の若い隊員達はむしろ特攻に熱烈志願が多かったようだ。
これは意外であった。神雷部隊の隊員も特攻隊に編入して欲しくて大騒ぎをしたという(小野田正之「学徒出陣」『零戦虎徹』太平洋戦争ドキュメンタリー第4巻)。これは自分達は戦力にならないのでせめて体当たりをして役に立ちたいという気持ちから来ているようだ。しかしやはり飛行機乗りには未練があったようだ(P160)。
九九艦爆戦記
急降下爆撃隊の著名な搭乗員江間保少佐の手記。ラバウルでの204空宮野大尉の印象が興味深い。江間氏は宮野大尉の二期上なので同時期に兵学校に在学していたが宮野大尉のことは記憶になかったという。兵学校の同期の間では明朗快活で目立った存在であったようだが(神立尚紀『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』)、先輩から見た場合、あまり目立つ存在ではなかったようだ。しかし前線では勇猛果敢が全軍に響いていた(P178)。
さらに戦死が日常茶飯事である前線では、遺品整理役というのがいたらしい。それは戦闘に出しても役に立たない者を充てるという。こういうことも実際にその場にいた人間しか分からないものだ。江間氏は『急降下爆撃隊』という本を上梓しているのでそちらの方が詳しいかもしれない。
軍艦名取短艇隊の生還
名取短艇隊といえば松永市郎氏が有名である。松永氏の『思い出のネイビーブルー』は読んだことがあるが、ユーモアたっぷりで戦記物でありながら笑いながら読んだ。この松永氏と共に名取短艇隊での生還者の記録である。同じ事象を多角的な目で見られるのはよい。
零戦と共に
最後の母艦戦闘機隊搭乗員、白浜芳次郎氏の手記。白浜氏は『最後の零戦』を上梓している。白浜氏は水上機搭乗員から転科してきた零戦搭乗員だ。最終階級は飛曹長で操練56期出身。中川健二大尉の思い出が印象的だ。細かいところに気が付く人格者だったという(P252)。中川大尉は海兵67期で有名な笹井醇一少佐と同期だ。この67期は開戦直前に部隊配属され、多く戦死したクラスだ。因みに海兵70期の香取穎男大尉のあだ名は「ブウちゃん」だったそうだ(P261)。
十八軍密林戦記
これは非常に生々しい手記だった。陸軍のニューギニア戦線での話でまさに生き地獄の世界だ。補給が断たれ、そこらへんに日本兵の白骨が転がっていたという。夜になるとあちこちで炸裂音がし、探すと絶望した兵士の自決体があったという(P296)。さらに極度の食糧不足から食人まで行われたという。その光景が詳しく書かれている(P311)。
電探かく戦へり
こちらは海軍の技術士官の手記。電探の専門家だった方だ。ドイツの駐在武官から新兵器電探の情報が送られてきてわずか半年で製品化したという(P322)。当時の日本の電気技術は理論面では諸外国に決して劣ったものではなかったという。そして日本最初の電探は千葉県勝浦灯台付近に昭和16年11月に設置された(P327)。さらに伝説の殺人光線についても触れている。殺人光線とは強力な極超短波を発射してその電磁界の作用によって航空機の発動機の点火栓の火花を消し止めて墜落させようというものであったそうだ(P358)。
さいごに
やはりこの太平洋戦争ドキュメンタリーのシリーズはすごい。戦争後すぐの戦記なので当事者の記憶がまだ鮮明なのだ。戦争の生々しさが伝わってくる。現在の平和の中に生きている私達が戦争のリアルを感じられる数少ない書物だ。
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