世間では、大戦中の陸海軍については海軍はリベラルで戦争反対。陸軍は国粋主義に凝り固まり戦争賛成という二項対立で分けるのが一般的だと思うが、本書はそれが間違いであることを分からせてくれる。


 著者は陸軍中将樋口敬七郎の子ある。父、樋口中将との思い出を書いた本である。父と子のふれあい、特に著者は父を本当に尊敬しているのが分かる。


 その父、樋口中将とはどんな人かというと普通の陸軍の軍人というイメージからは程遠いリベラリストであった。考え方は私から見てもリベラルで本当に人柄の良い人だったのだと思う。


樋口 敬七郎
 佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。

 1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。

1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。

 開戦後、香港の戦いに参加。1942年(昭和17年)2月、台湾軍参謀長となり、次いで久留米第一陸軍予備士官学校長に発令された。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第156師団長に着任し、宮崎県本庄で本土決戦に備える中で終戦を迎えた。

 戦後、戦犯容疑により逮捕され香港に連行されたが、1947年(昭和22年)6月に不起訴となり釈放された。その後、故郷の唐津で生活し、唐津市選挙管理委員会委員長も務めた。
(wikipediaより一部転載)
 さらに詳しい情報を知りたい方はこちら(wikipedia)


 軍人としての厳しさを示すエピソードは、著者が佐賀の高校生だった時代、父が宮城の師団の師団長として師団の指揮を執っていた。あまりにも会いたかったので父に会いに行くと


「バカッ!何しに来たか、ここは戦場だぞ!」


 と一喝されてしまう。その後「すぐ戻れ」と追い返されてしまう。しかし普段は驚くくらいに温厚な家族思いの父親であった。私の好きなエピソードが、著者が文系大学に合格したが、理系であれば徴兵されないという理由で浪人して理系を受けようとする。


 しかし当時、浪人には父親の承諾がいる。そこで著者は父に電報で『浪人して高校の理科を受けろ』と電報を至急打ってくださいと頼んだ。その後、父親から一通の電報が届く。


ロウニンシテコウコウノリカヲウケナサイ


 著者はこの電報を見て父はどうしてこんなに優しいのだろうかと泣きたくなったという。軍人である父は息子が浪人するのは徴兵逃れであることは良く分かっているはずだ。


 それでもそれを認める電報を打つのは子供の選んだ道を承認するという気持ちと同時に、本当は父は息子のような生き方をしたかったのではないだろうかと思った。


 これは本書全体を通して私が感じることだ。本書はリベラル精神の持ち主である著者から見た父であるのでもちろんそういう視点で見ている。しかしそれを差し引いても父はリベラルだったと思う。


 負ける戦争であることを当初から知っていた樋口中将は戦争後期に宮崎の師団の師団長に任命されて息子が見ても凛々しい軍服に中将の階級章を付けて出かけていく。


 そして戦後、著者は「高級軍人であるお父さんは物資を山積みにして戻ってくる。そうしたら大金持ちだ」というような嫌味を周りから言われていた。心の中では父親がそんなことはしないと信じていた著者は実際帰ってきた父を見て愕然とする。


 汚いナッバ服(作業服)にござ一枚。


 それが戦争から帰った父であった。そして父親を送ってくれた兵士が著者にこう報告する。


「ご子息に報告致します。トラックに一杯、兵の手により山のように物資を乗せてありましたが、閣下はそれを見て激怒されまして、『ばかっ!所定の配分通りに配分し直せ』と命令され、閣下はこのござ一枚に座られて、熊本から参りました」


 その父は出征する時以上に立派な姿だったと著者は回顧している。そして父は信頼を裏切らなかった。報告した兵士も感動したのだろう。樋口中将はリベラルで人格者でもあったようだ。


 本書はとにかく良かった。久しぶりに時間が経つのを忘れる素晴らしい本だ。北九州市自分史文学賞の応募作品の書籍化なのであまり部数は出ていないと思う。欲しいと思ったら早めに買った方がいい。

 

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