たまたま購入した戸高氏の『海戦からみた太平洋戦争』があまりにも良かったためについつい購入してしまった。今日紹介するのは『海戦からみた日露戦争』である。
【目次】
はじめに―「完全勝利の物語」を海戦史から再検証する
第一章 海軍戦略思想はいかに生まれたか
第一節 開戦の決意
第二節 対露軍備の足場固め
第三節 関係を深める日英海軍
第二章 実戦に臨む日本海軍と”丁字戦法”
第一節 基本戦策”丁字戦法”の誕生
第二節 開戦から旅順口閉塞作戦まで
第三節 黄海海戦の苦い教訓
第四節 ロシア極東艦隊の殲滅
第三章 バルチック艦隊の撃滅
第一節 ”丁字戦法”からの脱却
第二節 二日間の日本海海戦
第四章
日本の「完全勝利」とは何だったのか
おわりに
最近、私の中で密かな日露戦争ブームが起こっているのだが、それはどうでもいい。戸高氏の著作は客観的で的確、読んでいて夢中になってしまう。日本海海戦といえば一番有名なのは秋山真之が考案した丁字戦法であるが、実はこれは誰が考案したのかははっきりしないようだ。元海軍士官で歴史学者の野村氏は著書『日本海海戦の真実』で、考案者は山屋他人であるとしているが、戸高氏はそれを踏まえた上で不明としている。
そしてその丁字戦法であるが、日本海海戦に先立つ各海戦で実践してみたがどれも失敗したという。そこでこりゃ駄目だということで連合艦隊の司令部は一つの奇策を用意していた。それが連繋機雷である。連繋機雷とは4つの機雷をロープでつなぎ艦が通るとロープによって艦に機雷が引き寄せられるというもの。で結構画期的だったようだ。小型艦艇による巧みな陽動で敵艦隊全面に連繋機雷を敷設する予定だったようだ。しかし、
「天気晴朗なれども波高し」
ということになってしまった。これはどういうことかというと、波が高いために小型艦艇による奇策が実行できないということだ。要するに机上の計画に終わってしまったのだ。それでは丁字戦法をやったのかというと。。。
ターン後の丁字状態の戦闘時間は、かなり「イ字」が崩れた状態を含めてもわずか三分だったという(『海戦からみた日露戦争』より引用)
結局、やっていないんだなぁー。実は日本海海戦は丁字戦法ではなく単純な併航戦だったようである。
少なくとも東郷ターンの直後、また以後の併航戦において丁字戦法は存在しなかったといえる(『海戦からみた日露戦争』より引用)
ズバリ書くとそうなってしまうようだ。結局のところ勝利したのだが、その勝利の原因というのはではなんだったのだろうか。実はこれはものすごい合理的な理由だった。バルチック艦隊ははるばる地球を半周してへとへとだった。その上、速力も遅く、火力も弱く性能もまちまちだった。さらに長い航海で船底には海草や貝類が付着し速力が出なかった。
さらに各艦喫水が下がる程に石炭を満載していた上に照準装置も日本海軍が最新鋭の照準望遠鏡であったのに対してバルチック艦隊は肉眼であった。その上、バルチック艦隊の兵員の三分の一は予備兵力であったのに対して、日本は統一した性能の艦で猛訓練を行っていた。要するに。。。
日本海海戦が、事前の準備や装備、将兵の練度や士気等において優勢にあった日本側の圧倒的な勝利に終わったことは、連合艦隊がバルチック艦隊に対して正面から戦いを挑み得たことから生じる当然の結果であったといえる。(『海戦からみた日露戦争』より引用)
という身もふたもない結論になってしまうのであった。結局、連合艦隊首脳部が考案した戦法は全て役には立たなかったということだ。世界海戦史上稀に見ぬパーフェクトゲームだったことについて、当時、第二艦隊の参謀であった佐藤鉄太郎中将は、海軍兵学校五二期への記念講演で要約するとこのようなことを言っている。
偶然でした!
秋山真之に至っては大本教に入信し人知の及ばない世界に傾倒してしまった。あっちの人になってしまった訳だ。それはそうと、なぜ丁字戦法なるものが勝利の決め手になったと信じられることになったのかというと連繋機雷の存在を隠すためだったようだ。やはり戸高氏の著書は面白い。これ以外にも、広瀬中佐の最期について、
「自ら三度船内を捜索した後、巨弾、中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一遍の肉塊を艇内に残して、海中に墜落したるものなり」と記されている。(『海戦からみた日露戦争』より引用)
とある。私は広瀬中佐は艦の中に杉野を探して入ったっきり出て来なかったと思っていたが、脱出した後に戦死したようだ。さらにバルチック艦隊に対して、日本海軍は仮装巡洋艦を使って偽情報を流していたり、実は津軽海峡は機雷で封鎖されていたりと知らなかったことだらけだった。感想としては、
面白かった!
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