一ノ瀬俊也 著
中央公論新社 (2016/7/20)

 

レビュー要約

 

 本書は、内容が天皇の戦争責任等のデリケートな話になることから断定を避けるような書き振りがあり、著者が全体的に迷いながら書いている印象があり、著者の意見が分かりにくい。さらに序章で本書の内容を前半と後半に分けるということを書いているがそれも一つの本にテーマが二つあるということになり、分かりにくさに輪をかけている。

 内容は結構なボリュームであるが、結論も結局、人間というのは自分が目の前で体験したことくらいしか原因を追究しようとしないというような感じのものであるが、これ自体も明確な「結論!」「私の意見!」というような感じではなくボンヤリとした感があり、首肯できるものの、ここまでの労力をかけた作品にしては結論がちょっとぼんやりしすぎているというのが率直な感想である。

 

レビュー

 

 最近、書評ばかり書き過ぎていい感じに訪問者数も減ってきたし、私もちょっと書評を書くのに飽きてきたところだったが、また書評を書いてしまおう。今回は一ノ瀬俊也氏の『戦艦武蔵』を読んでみた。一ノ瀬氏が戦艦武蔵をテーマにしたのは同型艦大和に比べて武蔵は地味で暗いイメージがあることに疑問を持ったことによるようだ。

本書を読む上で大切なのは本書は最新の歴史学の成果や発見で「戦艦武蔵がここまで分かった!」というようなものではない。戦艦武蔵を題材に太平洋戦争の主に大艦巨砲主義と航空主兵主義等の海軍内部の問題、から歴史学的な問題意識から戦争をどうとらえどう継承していくかというところまで行く。

 著者の一ノ瀬氏は日本近代史の専門家だ。今まで『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」 帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』等、歴史史料を駆使して今までにない視点から近代戦争史を分析してきた人だ。その著者が歴史学的な問題意識にまで踏み込んだのは本書が初めてなのではないだろうか。

 ただ、本書はちょっと詰め込み過ぎの感はある。前半は戦争とファンタジー、後半は戦争を当事者達はどう描き、それが戦争を知らない世代にどう継承されていたのかを描いている。実は、私は「戦艦武蔵には噴進砲が装備されていた!」的な内容を期待していたのだが・・・。 それはそうと、前半は戦争体験者は戦争をリアルに感じ、戦争を知らない世代は戦争をファンタジーと感じるというのは違うということを書いている。

 戦中派でも実際に戦争をしている最中でも戦争にファンタジーを感じることもあるとする。それはそうだと思うが、そもそもファンタジーとリアルの定義があいまいである。本書中の戦争中のファンタジーの例を見ると、当事者の夢や希望がファンタジーとして扱われている。これがファンタジーであるならば世の中全てがファンタジーなのではないかと思ってしまうこともある。まずは何がファンタジーで何がリアルなのかという定義をするべきだと思う。  

 戦争を知らない人間が戦争をファンタジーとして捉えることの問題点は、戦争に対して自身の理想を投影し、現実の殺し合いや各種残虐行為という「リアル」が見えなくなってしまうことだ。これによって戦争を無邪気に賛美することになってしまう。著者は戦争当事者自身もファンタジーであると結論付けるが、そうなると上記の戦争を理想化する問題は戦争当事者も理想化してしまうことになる。要するに戦争を知らない人、戦争の当事者共に戦争は理想的なものという結論になってしまう。

 それではそういう結論になることによって我々、今を生きる人々にとってその結論から何を得られるのかということを語らなければならない。「こういうことがありました」では学問にならない。それは史料を羅列したのと同じことだ。学問であるならば、この結論によって著者は何を主張したいのかというのを明確にしなければならない。

 後半部分になると主な問題意識は戦艦武蔵の撃沈を中心になぜこのような悲惨なことになったのか、海軍士官と下士官の違いから戦中戦後の意識の違いから分析する。日本にはなぜこうなったのかという原因を追究する姿勢がないという結論に落ち着いたようだ。本書は近代史を専門とする歴史学者が戦争責任等のデリケートな内容にまで踏み込んだということでは意義がある。しかしどこかしら明確な結論を出すことを避けている感があるのが残念だ。

 しかし私は著者の基本的なスタンスが歴史学会の標準的なスタンスにあることが分かったのでこれは良かった。つまり、左右問わず思想的なものを極力排除して合理的な結論を導き出す作業を行っているということだ。ただ思想的なものを排除した結果、結論もありきたりになってしまったのが残念だ。

 

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