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 旧日本海軍の最強戦闘機隊といえば何だろうか?最新鋭機紫電改と生き残りのエースを集結させた「剣」部隊343空?いやいや、あれは都市伝説だ。最新鋭機紫電改を集中配備したのは本当だが、343空は生き残りのエースを集結させて作ったエース部隊ではない。基幹搭乗員に熟練者を配置しただけだ。搭乗員の多くは当時の感覚では熟練者といえるものではなかった。


 他にも隠れた精鋭部隊に芙蓉部隊というのがある。これは美濃部正少佐率いる夜間攻撃専門部隊である。当時比較的熟練者の多かった水上機からの転科者が多く、さらに工夫した訓練法で練度を増した。特攻には断固反対で結果、部隊の練度を上げるのに成功したのだ。


 しかし、その芙蓉部隊も海軍最強ではない。当時、海軍には部隊の練度を評価する基準があった。搭乗員の練度を測定するものだった。搭乗員はAランクから順に区分されていた。その基準で当時、最もAランクの搭乗員を擁していたのは今日紹介する戦闘303飛行隊なのだ。


 この戦闘303飛行隊というのは、私の感覚では戦史ファンや戦闘機ファンにはあまり知られていない部隊ではないかと思う。使用機は普通の零戦で基本的には九州地区での作戦行動を専らにした。日本海軍のトップエースといわれる岩本徹三、西沢広義、谷水竹雄等、歴戦の搭乗員が在籍していたのだ。




 私がチャラく調べたところによると戦闘303飛行隊は、1944年3月1日、特設飛行隊制度発足によって203空隷下部隊として厚木に誕生した。当時の飛行隊長は海兵63期の岡嶋清熊少佐。搭乗員には日本のトップエースの一人である西沢広義、操練35期のベテラン長田延義、同54期の倉田信高、丙飛4期の本多慎吾、丙飛3期の加藤好一郎等がいた。


 1944年3月30日、千歳基地に展開する。3月30日と書いたが、これは4月末であったという説もある(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』)。それはそうと、4月末にさらに幌筵島武蔵基地に移動する(安倍氏前著では5月中旬)。これは武蔵基地に展開していた281空が転出したためだ。


 その後1944年8月11日に美幌基地へ移動。9月2日に一時的に百里原基地に展開するが9月14日にはまた美幌基地に戻る。9月18日にT部隊編入が下令され茂原に移動、さらに鹿児島の鴨池基地へ移動待機する。その後、台湾沖航空戦に参加したのち、10月24日フィリピンに到着する。





 10月27日、特攻隊援護任務を完了した西沢広義飛曹長が帰還時に戦死する。翌11月15日に本隊は鹿児島へ撤収したようだ。所属航空隊も201空やら221空やらに変わったようであるが、ここら辺はよく分からない。結構、本によってあやふやなんだよね。ただ、本隊がここら辺で内地に帰還したのは間違いないようだ。


 台湾沖航空戦、フィリピンの戦闘でかなりの消耗をした戦闘303飛行隊であったが、1945年から隊員を増強し始める。まず、3月15日に零戦虎徹こと岩本徹三少尉がヘッドハンティングされる。この時点での部隊規模は機材が32機、搭乗員57名であった。3月26日にラバウル帰りのベテラン谷水上飛曹、操練27期の大ベテラン近藤政市少尉が着任したようだ。


 これだけ見ると何か数人のベテラン搭乗員だけしかいないような印象があるが、この戦闘303飛行隊の練度は全海軍中トップクラスであった。エースが好きな人だったら知っているような名だたるエースが在籍しているのをみても分かると思う。谷水上飛曹が有名な撃墜マークを書いたのも戦闘303飛行隊にいた時だ。


 今日は何かダラダラと戦闘303飛行隊について調べたことを書いてしまったのであまり面白くなかったかもしれない。特に戦史に興味の無い人にはなんじゃこりゃーな話なのだが、私は昔から妙に興味があるのでついつい書いてしまった。



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