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 ゼロファイターゴッドと呼ばれた熟練搭乗員である。日中戦争から太平洋戦争終戦まで戦い抜いた。日中戦争では零戦初戦果の空戦に参加するという貴重な経験をしている。数々の空戦に参加するも被弾ゼロという記録を持ち終戦を迎えた。母艦戦闘機隊に所属していることが多く、母艦戦闘機隊のエースであるといっていい。今日はこの岩井勉氏についてみてみよう。


概要
大正8年京都府に生まれ、昭和13年8月乙6期予科練の飛練課程を卒業して、15年1月12空に配属され、漢口基地に進出した。9月13日進藤三郎大尉の指揮する13機の零戦ガ、重刑上空で慶27機撃墜の大戦果をあげた空戦に、白根中尉の3番機として参加、2機を撃墜した。ついで10月26日の成都攻撃では、山下小四郎空曹長の列機で飛行場銃撃後、飛行中の非武装練習機を攻撃して1機を撃墜した。

 15年11月本土へ帰還し、筑波、佐伯、大村空を経て、17年11月空母瑞鳳乗組に転じ18年1月ラバウルに進出、ガダルカナル島撤退援護、ラエ船団輸送、ブナ攻撃に、さらに4月の「い」号作戦では、ガダルカナル島、オロ湾、モレスビー、ミルン湾攻撃に参加した。

 19年8月ふたたび601空付を命じられ、松山基地で練成に当たったが、10月捷号作戦の発動により、瑞鶴に搭乗して比島東方海面に出撃した。10月24日昼すぎ米機動部隊に対し、戦爆56機の攻撃隊を送った時、岩井飛曹長は、小林保平大尉の指揮する直衛戦闘隊の一員として出撃したが、目標到達前、敵戦闘機群の迎撃を受け、空戦ののち主隊と分離して単機でルソン島アパリに着陸、他の母艦機と共に中川大尉の指揮下に入り、マニラに前進、翌日は後退途上の栗田艦隊の上空直衛に出動して、来襲した敵雷撃機2機を撃墜してバタンガスに帰着した。

 その後数日クラークからレイテ攻撃に参加した後、陸軍の重爆に便乗して、松山へ帰還した。11月少尉に進級し、20年春、南九州に進出して沖縄航空戦に参加、4月末百里原に移動し、終戦を鈴鹿基地で迎えた。撃墜機数11機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 岩井氏は大正8年生まれというから零戦初空戦の時は21歳くらいだったのだろうか。随分若い・・・と思ってしまうのは私がもういい年をしているからだろう。当時は20歳前後のパイロットも多くいた。昭和15年に本土に帰還してからは教員配置が続く。太平洋戦争での初めての実戦は昭和18年初頭であるから2年も前線から遠のいていたことになる。


 昭和17年、空母瑞鳳所属となり出撃するが、飛行長より「今度の戦いは日華事変当時とは全然様相が変わっているから、功をあせらず、一回目は見学せよ。」という訓示を受けたという。この言葉によって今日まで生き残って来られたという。その後、ラバウル航空戦に参加、昭和19年、台湾の二代目台南空で教員配置に付く。先任下士官は撃墜マークで有名な谷水竹雄上飛曹であった。


 その後、601空付、特攻隊にも編入されたりしたが無事終戦を迎えた。総撃墜数はエース列伝では11機、『零戦の20世紀』では22機となっている。



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