岩井 勉 著
藝春秋 (2001/12/7)

 

神様のお墨付き

 海軍母艦戦闘機隊のエース、岩井勉氏の著書である。岩井氏は1919年京都府生まれ、乙6期予科練生として横須賀航空隊に入隊。1940年には日中戦争零戦初空戦にも参加した。その後、精鋭搭乗員が選抜されるといわれていた母艦戦闘機隊隊員としてラバウル航空戦に参加、終戦までに22機を撃墜するという戦果を挙げた。この経歴だけでもすごいのだが、岩井氏の記録で何よりも凄いのはその間に被弾ゼロだったということだ。撃墜王やらエースやらと言われた搭乗員は多くが大体は被撃墜を経験しており、撃墜された経験がなくても被弾は当然ある。それが一度もないというのだから快記録である。

 この被弾ゼロに関しては本書に面白い記載がある。戦時中一時帰郷した際、地元の鞍馬寺に参拝、導師に憑依した大力権現にお伺いを立てたところ、郷里の人には伏せていた戦闘で怪我をしたことを見抜き、さらには「お前の飛行機の左翼の上には、いつでもこの大力権現が乗ってやっている。思う存分戦うがよい」と言われたという。神様のお墨付きであったようだ。

 

 

海軍の硬直化と自責の念

 教員時代に「ゼロファイターゴッド」と訓練生にあだ名を付けられた岩井氏は「操縦は飛行時間の大小によって決まり空戦の優劣は実戦経験の多寡によって決まる」という。これに対して同じく零戦初空戦に参加した搭乗員である三上一禧氏は「操縦はセンス」と逆のことを言っている。三上氏はセンスが良かったようで訓練で新人の頃からベテラン搭乗員を手玉に取っていたようだ。どちらも熟練者であるのでどっちが正しいのかは分からないが様々な視点があるのはよい。因みにその三上氏が唯一手こずったのが後輩である奥村武雄上飛曹であったという。その奥村上飛曹は1943年9月22日に戦死するまでに54機を撃墜したと言われている。

 戦果を挙げ無事に終戦を迎えた岩井氏、海軍内部の階級の硬直化という問題には不満があったようだ。当時の日本の海軍は兵として入った場合はまず士官になることはできない。優秀者は士官に選抜されることもあるが「特務士官」と呼ばれて一般の士官とは区別される。そしてその昇進もある程度の階級で頭打ちとなる。優秀な人材であったとしても兵学校出身者か否かによって差別されるのだった。やはり能力の高い岩井氏にとってはこれは相当に不満であったようだ。海軍に対しては古い操縦練習生出身者ならびに予科練出身者に対し進級を早くし高度の指揮権与えて欲しかったと不満を漏らしている。当然の主張だろう。

 戦争末期になり特攻隊が編成されると日中戦争以来のベテランである岩井氏も特攻隊に編入されることになる。結局、特攻出撃はなく終戦を迎えたが、岩井氏は戦死した戦友達に対して自分だけが生き残ったという自責の念を持ったようだ。「自分だけ生き残ってしまった」と元軍人の多くが語るようだが、ここらへんの気持ちは当時の同じ境遇にいた人にしか分らない。当時を知る人達の多くが鬼籍に入られた現在において本書は貴重な歴史の記録であるといえる。

 

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空母零戦隊 (文春文庫)
岩井 勉
文藝春秋
2001-12-07



 

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