01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 




山崎市郎平一飛曹の略歴

 




 1920年5月5日東京府に生まれる。1937年横須賀海兵団に入団。1940年3月54期操練に採用、1941年5月大分空で実用機課程修了。5月26日横空配属。1942年2月1日4空に配属されラバウル進出。4月1日台南空に異動、8月に負傷し本土へ送還。1943年5月251空隊員として再度ラバウルに進出。7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死。

 




奇跡の生還を果たした男

 




 山崎一飛曹は操練54期出身で同期には岡野博飛曹長がいる。戦闘機専修の同期は21名で終戦までに19名が戦死している。戦死率90%以上である。山崎一飛曹は大分空での実用機課程修了後、横須賀航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。1942年2月にはトラック島で新設された4空に配属、4空隊員としてラバウルに進出、そして3月にはラエに進出した。


 1942年3月22日、RAAF(オーストラリア空軍)航空隊がラエ基地に奇襲攻撃をかけた。在地の零戦10数機は全て被弾。出撃できるのは2機のみとなり、山崎一飛曹と菊地敬司三飛曹が迎撃したが、菊地三飛曹はハドソン爆撃機の銃撃により戦死、単機で追跡した山崎一飛曹も銃撃により被弾、不時着している。山崎一飛曹は乗機の零戦に火をかけた後、丸太船を製作しラエに向かうマーカム川を下り始めた。


 2日目に原住民の集落に到着、食べ物や反物を与えることを条件にラエ基地まで送ってもらった。この時、山崎一飛曹は、原住民との約束を反故にすることなく誠実に約束を果たしている。3週間の休養を与えらえれた山崎一飛曹は4月12日に復帰するが、5月17日のポートモレスビー上空空戦で負傷、8月26日にはミルン湾攻撃後の着陸事故で重傷を負ってしまう。


 この重傷により山崎一飛曹はブナで休養後、本土に送還され本格的な治療を受けることとなる。それから数ヶ月後の11月中旬、台南空も消耗した戦力を再建するため内地に帰還。豊橋基地において部隊の再建に取り掛かった。1943年5月再建が完了した251空は再びラバウルに進出。治療・療養を終えた山崎一飛曹も貴重な実戦経験者として再度ラバウルに進出した。


 再度ラバウルに進出した山崎一飛曹は連日の航空戦に活躍したものの7月4日のレンドバ島攻撃時の空戦でコロンバンガラ島に不時着、かつて奇跡の生還を果たした山崎一飛曹はついに帰ってくることはなかった。総撃墜数は14機といわれる。撃墜数を判定することは非常に困難であるが、連合軍の戦闘報告を調べた資料では台南空所属時のニューギニア航空戦での戦果は3.3機といわれている。

 




山崎市郎平一飛曹の関係書籍

 




ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド『台南海軍航空隊』






ルーカ・ルファート、マイケル・ジョン・クラーリングボールド 著

大日本絵画 (2016/2/1)





 本書はイタリア人ルーカ・ルファート氏、オーストラリア人マイケル・ジョン・クラーリングボールド氏によって書かれた太平洋戦争初期のラバウル、ラエ周辺の台南空と連合軍の航空戦の実態を調査したものである。ソロモン航空戦まではカバーしていない。


 近年、この種類の著作が多く出版されているが、本書はポートモレスビーで育った著者がその地域で起こった戦闘を調査するという地域史的な要素を持つ異色のものだ。オーストラリア人の著作であるため、連合国軍側の視点で描かれていると思っていたが、読んでみると、著者は日米豪それぞれの国のパイロット達に対して非常に尊敬の念を持っていることがわかる。山崎一飛曹の生還について詳しく書いてある。

 




零戦よもやま物語 零戦アラカルト






柳田邦男 豊田穣他 著

潮書房光人新社 (2003/11/13)※初出は1982年7月





 零戦に関わった搭乗員、整備員、設計者等様々な零戦に関わった人々の短編手記集。戦記雑誌等にあまり寄稿しない方々が多く寄稿しているのが貴重。台南空時代の同僚石川清治飛曹長による山崎一飛曹の思い出が寄稿されている。

 




まとめ

 




 山崎一飛曹は何度も負傷しているが当然、負傷しているということは連日の戦闘を戦っていたということである。撃墜された際には機体を羅針儀を外した後、機体を焼却。その後筏を自作し帰還するという冷静で合理的な対応をしており、さらに原住民への約束を誠実に果している。冷静かつ誠実な人物であった。

 









 




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