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 今日紹介するのは、山崎市郎平一飛曹。操練50期台のパイロットだ。台南空のエースとして知られている。ちょうど坂井三郎一飛曹、笹井醇一中尉、西沢広義一飛曹等がいた頃の台南空に所属していた。この頃の台南空については坂井三郎『大空のサムライ』に詳しい。この山崎一飛曹、西多摩郡檜原村出身という、多摩育ちの私には親近感を覚える搭乗員なのだ。檜原村はだいぶ遠いが・・・。今日はこの山崎市郎平一飛曹について書いてみたい。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正9年東京府西多摩郡檜原村の山間に生まれた。昭和12年横須賀海兵団に入団後、16年5月54期操練を卒業し、大分空を経て17年2月4空に配属されてラバウルに進出したが、4月台南空に転じ、8月までラバウル、ラエを根拠に、東部ニューギニア、ソロモンの戦場を転戦した。この間3月にはロッキード爆撃機を単機で追って被弾、山奥に不時着し、土人に助けられ丸木舟で河を下って生還したことがあった。5月モレスビー空戦で負傷、8月26日のブナ進攻でも被弾不時着、負傷し本土へ送還された。翌年5月251空に属し、再びラバウルに進出したが、7月4日レドンバ島攻撃時の空戦で戦死した。総撃墜機数14機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 山崎一飛曹は大正9年西多摩郡檜原村に生まれる。檜原村といえば現在においてもかなりの田舎。移動手段は車、バスのみであり、さらにバスは一日に数本という東京都とは思えない場所だ。現在でもこの有様であるということは当時は・・・。そう、大自然の中でのびのび育ったのだ。


 山崎一飛曹の卒業した操練54期とは、戦争後半になると超ベテランクラスであるが、この時点では終了したての新米パイロットであった。まあ、最初からベテランはいないので当たり前だ。操練同期には岡野博飛曹長、さらに一期前には戦後『サムライ零戦隊』を上梓した島川正明飛曹長等がいる。


 山崎一飛曹は台南空に所属し、熾烈な前期ラバウル航空戦を経験する。しかし負傷してしまい本土に送還される。昭和17年11月、台南空改め251空は、戦力の再編成のため本土に帰還する。再編成が終了した昭和18年5月、台南空は再度ラバウル進出を命ぜられる。その時に山崎一飛曹は251空に所属していたようだ。


 この山崎一飛曹は部隊では「不時着の神様」と呼ばれていたという。昭和17年3月、連合軍に奇襲を受け、邀撃に上がった山崎一飛曹はそのまま未帰還となった。しかし数日すると現地人に助けられ基地に戻ってきたという。そして相当疲れているはずの山崎一飛曹は司令に報告を終えると「わたしが彼らに約束したことをかなえてやってください」と言ったという誠実さを持った人だったようだ(石川清治「不時着の神様」『零戦よもやま物語』)。しかし山崎一飛曹は7月4日の空戦で帰らぬ人となってしまった。



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