01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 小八重幸太郎上飛曹は、太平洋戦争開戦後に訓練を修了した正に戦中派パイロット。エリートである母艦戦闘機隊に選抜され、激戦のラバウル航空戦に投入される。内地帰還後は新鋭紫電を駆り比島航空戦に活躍。内地帰還後は海軍の精鋭部隊343空で終戦を迎える。零戦、紫電、紫電改と乗り継いだパイロットであった。

 

小八重幸太郎上飛曹の経歴

 

略歴

 大正12年3月15日、宮崎県生まれ。昭和16年10月丙種予科練7期生に採用される。昭和17年11月第24期飛練課程を卒業、大村航空隊で延長教育を受け戦闘機操縦者となる。空母瑞鳳乗組となり昭和18年3月トラック島進出。「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加する。その後253空配属。昭和19年2月末内地帰還。大村空で教員配置に就く。9月戦闘701飛行隊に編入(7月説あり )。新鋭機紫電を以って、10月末ルソン島マルコット基地に進出する。12月休養のため内地に帰還。昭和20年初頭2代目戦闘701飛行隊に編入。343空に配属され終戦を迎える。

 

母艦戦闘機隊へ

 小八重上飛曹は予科練丙種7期修了。戦中派パイロットである。大村空での延長教育修了後、エリートである母艦戦闘機隊に配属される。母艦搭乗員訓練のため冨高空で鳳翔での着艦訓練を受けた後、瑞鳳戦闘機隊に配属される。

 この時期、冨高空では杉野計雄、谷水竹雄兵曹、小高登貫兵曹等が同じく訓練を行っている。瑞鳳戦闘機隊は鹿児島県鴨池基地で訓練を続け、昭和18年3月にトラック島に進出、「い」号作戦、「ろ」号作戦に参加している。当時、瑞鳳戦闘機隊は飛行甲板の狭さが理由なのか分からないが、岩井勉、山本旭等のベテラン搭乗員が多数おり小八重上飛曹は中々搭乗員割に入れてもらえなかったようだ。11月2日のラバウル迎撃戦にてF4F2機を撃墜して初戦果をあげた。その後中川健二大尉と共に253空に編入され、激烈なラバウル航空戦を戦った。

 激しい空戦のさ中、米軍戦闘機と単機空戦となりお互いに秘術を尽くして戦ったが勝敗が決せず、どちらからともなく寄り添い顔を見合わせて飛び去って行ったという一コマもあったようだ(小八重幸太郎「零戦に生き紫電改に死す」『零戦搭乗員空戦記』)。

 

紫電・紫電改装備の新鋭部隊に配属

 その後、本土に帰還するが、その時、第一航空戦隊戦闘機隊の生存者は66名中わずか9名であった。昭和19年7月、新鋭戦闘機紫電を装備する戦闘701飛行隊に配属され、台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加した後、極度の過労により入院する。その後2代目戦闘701飛行隊に転属した。

 2代目戦闘701飛行隊は言わずと知れた343空所属の飛行隊であり、ほぼ全機が紫電改で編成された鴛淵孝大尉が隊長を務める部隊である。小八重上飛曹は終戦まで343空で西日本防空戦を戦い抜いた(『日本陸海軍航空英雄列伝』参照)。 https://water-wildcat.com/archives/52180397.html  総撃墜数は15機といわれる。丙飛7期という開戦直前に採用され、日本が徐々に劣勢に陥っていくさ中に母艦戦闘機隊として実戦に参加した。その中で生き抜いただけでなく15機もの撃墜を果たしたというのは驚異だ。

 

小八重幸太郎上飛曹関係書籍

 

坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』

 本書は月刊『丸』紙上に発表された零戦パイロットの手記を集めたもの。執筆者は小八重幸太郎氏、谷水竹雄氏、河島透徹氏、今井清富氏、塩野三平氏、坂井三郎氏の6名。坂井氏以外は本書以外に著作はなかったはずだ。貴重な記録である。小八重幸太郎氏は「零戦に生き紫電改に死す」という一篇を寄稿している。

 

野原茂『日本陸海軍機英雄列伝』

 1994年に出版された『海軍航空英雄列伝』『陸軍航空英雄列伝』が元になっている。基本的に表彰された搭乗員が掲載されている。多くを『日本海軍戦闘機隊』に拠っているが、コラムにR方面部隊など、あまり知られていない航空隊のエピソードがあるのも貴重。模型愛好家のために航空機の塗装のカラー絵が多くある。小八重上飛曹の略歴と戦功が書かれている。

 

まとめ

 

 小八重幸太郎上飛曹は母艦戦闘機隊としてラバウル航空戦に参加、その後、戦闘701飛行隊として比島航空戦に参加、紫電改で編成された343空で本土防空戦に参加した。太平洋戦争を戦い抜き終戦を迎える。戦後は故郷の宮崎県日南市で消防官として勤務していたようである。