ラバウル航空隊ブイン基地
(画像はwikipediaより転載)

 

 末期のラバウル航空戦を戦った搭乗員である。あまり知られていないが、ラバウル航空戦においてトップエース岩本徹三、小町定等と共に連日の戦闘をこなした。この市岡二飛曹、実はすごい記録を持っていることが近年の調査により判明した。もちろん私が調査した訳ではない。今日はこの市岡又男二飛曹についてみてみよう。

 

市岡又男二飛曹の経歴

 

略歴

大正14年岐阜県生まれ。昭和17年8月、丙12期予科練に採用。昭和18年7月28期飛練課程を修了。昭和18年9月末ラバウルに展開する204空に配属された。1月26日204空本隊のトラック転進により、トベラ基地の253空に転属、4月19日戦死した。

 

予科練と飛練

 市岡二飛曹は昭和17年8月、丙種予科練12期に採用される。丙種予科練とは下士官兵から選抜するパイロットのコースで以前は操縦練習生と呼ばれていたが航空兵育成は予科練に一本化されたため丙種と呼ばれることとなった。

 同期には19機撃墜の川戸正治郎がいる。飛練とは飛行練習生の略で航空機の初級教育をする課程だ。飛練28期は昭和17年9月に始まり昭和18年7月に終了した。予科練の他のコースと共同で訓練が行われる。この飛練28期だと甲種予科練8期が該当する。甲飛8期は75名が採用されたが、終戦時の生存者は14名、戦死率81%というクラスである。当時のパイロットの戦死率がどれだけ高かったのかが分かるだろう。市岡二飛曹は教育修了後、即座にラバウルに派遣されたようである。

 

撃墜21機で部隊トップ

 さて、前述のすごい記録とは、実はこの市岡一飛曹、戦闘行動報告書によると撃墜21機、岩本徹三の撃墜20機を抜いて253空のトップエースなのだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。無論実際に撃墜していたかは誰にも分らないが戦闘行動報告書に記載される戦果であるので空戦技術に関しては部隊内で一定の評価があったと思っていい。

 

市岡又男二飛曹関係書籍

 

海軍零戦隊撃墜戦記3: 撃墜166機。ラバウル零戦隊の空戦戦果、全記録。

 日本、連合国軍双方の資料から空戦の実態を可能な限り正確に描き出した労作。実は公文書から確認できる撃墜数では市岡二飛曹がトップであるという。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。後半のエース列伝に市岡二飛曹についても記載がある。

 

まとめ

 

 その後253空本隊はトラック島に撤退するが、市岡一飛曹はラバウルに残ったようだ。昭和19年4月19日不帰の人となる。エース列伝によると撃墜11機、梅本弘氏の調査によると撃墜21機とある。どちらが本当なのかは分からないが才能のあるパイロットだったのだろう。