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 末期のラバウル航空戦を戦った搭乗員である。あまり知られていないが、ラバウル航空戦においてトップエース岩本徹三小町定等と共に連日の戦闘をこなした。この市岡一飛曹、実はすごい記録を持っていることが近年の調査により判明した。もちろん私が調査した訳ではない。今日はこの市岡又男一飛曹についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正14年岐阜県に生まれ、丙12期予科練を経て、昭和18年7月28期飛練課程を卒業、9月末204空に配属され、ラバウルに進出した。
12月25日の迎撃戦で撃墜第1号を記録していらい、若年ながら連日の空戦で奮闘、19年1月末までの1ヶ月間に13期(うち不確実及び協同5)を葬った。1月末204空本隊のトラック転進により、トベラ基地の253空に転属、引き続き奮戦したが、4月19日戦死した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 市岡一飛曹は大正14年生まれ。もし戦争を生き抜いていたとしたら現在(2015年)は90歳である。戦争中の若手パイロットである。予科練丙種12期を修了した。同期には18機撃墜の川戸正治郎がいる。市岡一飛曹は訓練終了後いきなりラバウルに展開する204空に配属される。恐らく飛行時間300時間程度であっただろう。しかし連日の空戦を戦い抜いた。


 さて、前述のすごい記録とは、実はこの市岡一飛曹、戦闘行動報告書によると撃墜21機、岩本徹三の撃墜20機を抜いて253空のトップエースなのだ(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。無論実際に撃墜していたかは誰にも分らないが戦闘行動報告書に記載される戦果であるので空戦技術に関しては部隊内で一定の評価があったと思っていい。


 その後253空本隊はトラック島に撤退するが、市岡一飛曹はラバウルに残ったようだ。昭和19年4月19日不帰の人となる。エース列伝によると撃墜11機、戦闘行動報告書には撃墜21機とある。



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