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 自著は無いが有名な撃墜王であり、戦中派エースの代表的な存在である。総撃墜数はエース列伝によると16機、本人によると共同撃墜含め48機だそうだ(『零戦最後の証言 2』)。手記等の寄稿もあまり見られない。現在私が確認できるのは「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉『零戦最後の証言 2』のインタビューくらいであろうか。まずは渡辺秀夫飛曹長の経歴を簡単にみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正9年福島県の農家に生まれ、昭和12年海軍に入団、開戦直前の16年11月丙2期飛練を卒業、翌年3月千歳空に配属され内南洋の防空任務についたが、18年3月204空に転じ、ラバウル、ブインに進出、激烈なソロモンの空戦に参加した。

6月16日宮野飛行隊長が戦死したのちは、士官、准士官パイロットがほとんどいない状態になったので、弱冠23才の渡辺上飛曹が中隊長代理、ときには大隊長代理として204空戦闘隊を指揮した。

 8月26日午後、戦爆連合のブイン来襲を単機で迎撃して、B−24を1機撃墜した後グラマンF4F1機を撃墜した瞬間、後方より被弾右眼球貫通、前頭骨折の重傷を負ったが、海面直上で立て直し、やっと着陸したのち失神、そのまま入院した。

 この奮戦に対し、ラバウル海軍病院で草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後本土へ送還されたが、終戦まで再起できないままに終わった。撃墜数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 渡辺氏は丙種予科練2期。多くの撃墜王が排出したのと同時に多くが戦場で散って行ったクラスである。同期には宮崎勇等がいる。渡辺飛曹長は多くの撃墜王がそうであるようにラバウルに派遣された。そこで連日の空戦に参加することとなる。8月26日の空戦では負傷し、意識を失いながらも不屈の闘志をもって基地上空まで帰投した。この壮烈な戦闘と不屈の闘志に対し南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は”武功抜群”と墨書した軍刀一振を授与し、その栄誉をたたえられた。ここら辺の経過は「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉に詳しい。負傷後はさすがに戦闘機での出撃はなかったようだ。空輸部隊に配属されるがそこでも操縦桿を握ることはなく終戦を迎えた。戦後は村役場、市役所で定年まで勤め上げた。


 『零戦最後の証言 2』のインタビューにおいて戦争中のことをこのように語っている。

「海軍は自分が好きで行ったところですから、居心地はいいと思っていました。悪い思い出はないですね。昔の上官の恨み節や悪口ばかり言う人がいますが、私はそんなにいやな人間にはぶつからなかったし、ああいう人間にはなりたくないと思います。」
(『零戦最後の証言 2』より一部転載)

 と語っている。私の推測であるが、この「ああいう人間」とは坂井三郎氏のことを指しているのだろう。この記事を読んだ読者の多くは恐らくこの渡辺氏の意見を支持し坂井氏に対しては批判的になると思う。しかし悪口を言わない人、恨みを持たない人は見ていて気持ちがいいが同時に本来修正されなければならない問題点を見えなくしてしまうことがある。


 渡辺氏のような見方をする人がいるのと同時に坂井氏のように当時の軍隊内部の問題点を指摘するというのも重要なことだ。因みに渡辺氏に関しては『日本陸海軍航空英雄列伝』にも記事があるので詳しく知りたい方はこちらを見てみるのもいいと思う。

 

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