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 今日紹介するのは加藤邦逵。大正12年生まれというから太平洋戦争開戦時には18歳と相当若いのだ。この加藤邦逵で面白いのは撃墜スコア16機という多撃墜者でありながらラバウル航空戦を経験していないことだろう。同期で撃墜王となったのは撃墜12機、または共同撃墜105機と言われる小高登貫、石井勇、服部一夫等がいるが多くはラバウル航空戦で撃墜数を伸ばした。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
川戸正治郎に次いで海軍戦闘隊最年少のエースである。大正12年愛知県に生まれ、18年1月丙10期飛練を卒業し、大村空を経て5月海南島の254空へ配属された。未経験ではあったが射撃の名手で大村空時代に佐鎮管内で優勝したことがあった。初陣は同年夏で、飛行服なしに飛び上がって、来襲したP−38を撃墜した。

 18年末から西南支那を根拠とする米空軍の B−24、B−25、P−38、P−40混成編隊が、広東、香港、海南島へ頻繁に来襲するようになり、加藤飛行兵長は果敢な迎撃戦闘で254空のトップエースの座を占め、19年秋210空に転じ内地へ帰還するまでに、計9機を撃墜した。

 その後、明治基地にあって本土防空にあたり、とくに20年2月16日米機動部隊の本土初空襲では、浜松上空において単機で敵艦爆の10機編隊に突入し、3機を撃墜した。ついで国分基地に進出、数次の沖縄特攻作戦援護に参加した。飛行時間882時間、撃墜機数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 加藤邦逵は丙種予科練を修了すると大村空、そして254空へ配属された。ここで254空について簡単にみてみよう。

第254航空隊
 昭和18年10月1日に新偏され、同時に海南警備府に所属、海南島三亜に進出して、海南島およびホンコン地区の防空および南支方面の海上交通路保護に当たることとなった。定数は艦戦24、艦攻4、輸送機1機で、司令には堀九郎大佐、飛行隊長には予備学生(早大卒)の水上機出身者松原勇大尉、先任分隊長には海兵69期の前田博中尉がそれぞれ任命されたが、練成を兼ねた部隊でもあり、熟練者は少なく、20歳前後で飛練課程終了直後の若年搭乗員が主力を占めた
(日本海軍戦闘機隊―戦歴と航空隊史話より一部転載)

 254空とは零戦好きでもあまり知られていない航空隊であるが三亜、香港というから現在でいうシーレーン防衛のための部隊だったようだ。これは航空隊の航空機定数を見ても艦攻4となっていることからも分る。防空だけでなく対潜防衛も重視された部隊なのだろう。


 新米であり当時でいう「若(ジャク)」であった加藤邦逵は一年程で9機を撃墜するというビックリ戦果を挙げてしまった。その後、本土防空戦でまた7機を撃墜して総撃墜数16機という記録を残し終戦を迎える。2015年現在、御存命であるかどうかは不明であるが、御健在であれば92歳である。



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