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 あまり有名なパイロットではないが16機撃墜したエースである。日本海軍ではパイロットになるための最短コースを歩んだ場合、最も若くて17歳でパイロットとなることができるようだ(誕生日の関係でもっと早い人もいるかも)。今日紹介する中島上飛曹もそんな最若年で搭乗員となったものの一人だ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正7年富山県に生まれ、警察官給仕から海軍に入団し、昭和11年9月33期操練を卒業して、17才で3等航空兵の最若年戦闘機操縦者となった。直ちに鹿屋空へ配属され、支那事変勃発とともに台湾へ進出し、防空任務にあたった。

 13年3月13空に、7月15空に転じたが、空戦の好機はえられなかった。16年9月3空に配属され、開戦とともに比島、蘭印を転戦、17年11月252空に転じてラバウルに進出し、翌年2月マーシャル群島に転進するまで3ヶ月にわたり、東部ニューギニア、ガダルカナル島航空戦に参加した。

 18年10月6日、米機動部隊が大挙ウェーク島に来襲したので、増援のため陸攻7機を同数の零戦(指揮官 塚本裕造大尉)が直衛してマロエラップから発進したが、ウェーク島付近まで飛んだ時、敵戦闘機群に奇襲された。乱戦の末5機は着陸したが、中島上飛曹をふくむ2機は行方不明となり、戦死と認定された。撃墜機数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 中島上飛曹は操縦練習生33期の出身である。33期と言われてもピンと来ないかもしれないが、太平洋戦争前に十分な訓練を受け、太平洋戦争開戦時にはベテランだったクラスである。同じ操練出身の撃墜王岩本徹三が操練34期、坂井三郎が38期というからこの中島上飛曹は出身期でいえば両氏の先輩にあたる。


 しかし岩本、坂井が大正5年生まれなのに対してこの中島上飛曹は大正7年生まれ。2歳若いのだ。上記のように戦闘機搭乗員になったのは若干17歳というからすごい。開戦時に配属された部隊はあの赤松貞明などのエースを輩出した3空であった。この部隊は若手でも飛行時間が1000時間を超えていたという強烈な部隊であった。


 その後、252空に転じ、ラバウル航空戦に参加した。昭和18年10月ウェーク島上空で行方不明となる。252空の隊長、菅波政治大尉の戦死時には2番機を務め、単機、戦果の確認をしようとする菅波隊長に随伴しようとしたが菅波隊長に強く制止され断念したという。その中島上飛曹も10月6日、児島飛曹長の二番機としてウェーク島上空でF6Fと空戦、行方不明となり戦死と認定された。この空戦については宮崎勇『還って来た紫電改』に詳しい。



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