(画像はwikipediaより転載)
中島文吉飛曹長の経歴
1918年富山県生まれ。1936年9月33期操練を卒業後、鹿屋空へ配属された。1938年3月13空、7月15空に異動。1941年9月3空に配属され太平洋戦争開戦を迎える。3空隊員として比島・蘭印航空撃滅戦に参加。1942年11月252空に転じてラバウルに進出。1943年2月マーシャル群島に転進した。年10月6日、米機動部隊のウェーク島来襲に対して増援のため出撃、米艦載機の奇襲により乱戦となり未帰還となった。
中島飛曹長の太平洋戦争
操練33期の戦闘機専修者は5名と少ない。これは戦前の少数精鋭教育のためである。同期には翔鶴戦闘機隊で活躍した大森茂高少尉がいる。前後のクラスでは32期に「空の宮本武蔵」と呼ばれた武藤金義少尉、34期には「零戦虎徹」を自称した岩本徹三少尉がいる。中島文吉飛曹長は17歳で戦闘機搭乗員となったため太平洋戦争開戦時には23歳と年齢的には若いが、日中戦争には勃発時から実戦を経験している。
太平洋戦争開戦時には3空に所属しているが、この3空は赤松貞明中尉始め練度の高い隊員が非常に多かった部隊で新米搭乗員でも飛行時間が1,000時間を超えていたといわれている。3空は開戦後、フィリピンのクラーク基地攻撃を手始めに台南空と共に開戦当初の比島・蘭印航空撃滅戦を行った。中島一飛曹も3空隊員として幾多の空戦に参加している。
1942年11月、中島上飛曹は252空に転出する。この252空は現在の北朝鮮で編成された戦闘機陸攻混成部隊であった元山航空隊から戦闘機隊を抽出して編成された部隊で同年9月に館山で編成され、11月にはラバウルに進出する。搭乗員にはベテランの武藤金義上飛曹、宮崎 勇一飛曹等が在籍していた。中島文吉上飛曹も252空の一員として空母大鷹によってラバウルに進出、翌年の2月に内南洋に進出するまで数ヶ月にわたって熾烈なソロモン・ラバウル航空戦に参加する。
進出早々の11月14日、飛行隊長菅波政治大尉率いる252空零戦隊6機は輸送船団掩護に出撃、第1小隊は菅波大尉が直率、中島上飛曹は第2小隊の小隊長として出撃した。全機無事に戦闘は終了したものの菅波大尉は戦果確認に戻ってしまう。中島飛曹長は菅波大尉に同行しようとしたが菅波大尉に制止されてしまい、それでも律儀な中島上飛曹は菅波大尉に付いていこうとすると菅波大尉は強い調子で制止したため断念した。その後菅波大尉が戻ってくることはなかった。
ラバウル進出後、わずか5日で飛行隊長を失った252空であったが、後任には士官でありながら個人撃墜11機の記録を持つと言われている周防元成大尉が着任、数ヶ月にわたって連日のように上空哨戒や戦闘に活躍することとなる。しかし1943年2月になると中部太平洋の緊張が高くなり始めたため252空はラバウルから後退、部隊を二分して1隊をウェーク島、1隊をマーシャル諸島に配置したが、中島上飛曹はマーシャル諸島に展開することとなった。
1943年10月6日、ウェーク島が米機動部隊に襲撃されたためマーシャル諸島に展開していた252空に出撃命令が発令された。中島上飛曹も増援隊の一員として第2小隊2番機として出撃したが、途中、F6Fヘルキャットの襲撃により空戦に突入、中島上飛曹は未帰還となった。尚、この空戦がF6Fが日本軍と行った最初の空戦であったようだ。総撃墜数は16機といわれている。
中島文吉飛曹長関係書籍
宮崎勇『還って来た紫電改』
総撃墜数13機の熟練搭乗員であった宮崎勇氏の著作。ドーリットル隊の空襲時に上空にいたにも関わらず、味方機と勘違いし攻撃しなかったことを戦後も悔いていたという。252空搭乗員としてほとんどの期間を過ごし、戦争後期には全機紫電改を装備した新鋭部隊343空の搭乗員として活躍する。宮崎氏は片翼帰還で有名な樫村寛一少尉に操縦を教わり、搭乗員の墓場と言われたラバウル航空戦に参加、マーシャル島では恐らく日本で最初であるF6Fとの空戦を行う。敵空母上空を味方機のように旋回して危機を脱したりとすごい体験をしている。
まとめ
操練33期の戦闘機専修者はわずか5名、のちの搭乗員不足の状況を考えるとお寒い限りであったが、航空機はあくまでも海戦の補助戦力であったため致し方ないといえる。この5名の内、終戦まで生き残ったのは普川秀夫少尉ただ一人で他の4名は日中戦争、南太平洋海戦、終戦間際の九州で散っている。生存率は20%である。
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