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 有名といえば有名。無名といえば無名とったところか。零戦のパイロットに多少でも興味がある人にとっては超有名だけど世間ではあまり知られていない搭乗員だろう。今回紹介する撃墜王は宮野善治郎大尉。撃墜王には珍しく海軍兵学校出身の士官だ。今日は宮野善治郎大尉についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正6年大阪府に生まれ、昭和13年65期生として海兵を卒業、15年4月32期飛行学生教程を終わって、翌年12空に配属され、支那戦線に出動したが、空戦の機会はなく、16年10月大尉に進級して3空分隊長となり、12月8日開戦当日のルソン島進攻で初撃墜を記録した。

 ついで比島、蘭印を転戦したが、17年4月ミッドウェー進駐予定の6空分隊長に転じ、6月空母隼鷹に便乗して、ダッチハーバー攻撃に参加、帰還すると間もなくラバウルに進出、204空分隊長ついで飛行隊長として常に陣頭に立ち、1年近く奮戦した。

 人柄、技術ともに卓越した戦闘機隊指揮官として上下の信望を集める一方、日本海軍で初めての4機編隊採用、戦闘爆撃機用法の開発などの新機軸を開いた。18年6月16日ガダルカナル島ルンガ沖の船団攻撃にあたり、重鈍な艦爆隊を攻撃離脱後、収容する危険な任務を提案してみずからその任にあたり、敵戦闘機との乱戦中、行方不明となった。

 戦死後、全軍布告、2階級進級の栄誉を受け、海軍中佐に進級した。単独撃墜16機、部隊撃墜228機といわれている。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 度々書いているように零戦のエースには下士官が圧倒的に多い。80〜90%は下士官搭乗員ではないだろうか。これに対して欧米ではエースのほとんどは士官であるのだ。この違いは何かというとそもそもパイロットは士官という国もあれば、実戦で武勲を挙げることによって昇進するという場合もある。これに対して日本は士官でも下士官でもパイロットの道が開けており、日本の場合は多くが下士官パイロットであった。

 
 実戦では士官は指揮官として戦闘全般を指揮し、下士官兵はその指示に従って戦うというのが基本スタイルだった。そのため実際に敵機を撃墜するのは下士官兵パイロットが圧倒的に多くなるのだ。だからといって士官パイロットの腕が悪い訳ではない。要するに役割が違うのだ。


 この海軍航空隊の中で多撃墜スコアを持つこの宮野大尉というのは珍しい存在である。士官パイロットではあるが、海兵65期で日中戦争にも参加している。太平洋戦争開戦時にはベテラン士官であった。この海兵○○期というのは海軍兵学校卒業年次である。海軍の搭乗員をみる場合は基本的に67期が開戦直前(昭和16年10月とか)に実戦部隊に配属されたクラスということを覚えておくと戦記物を読む際は参考になると思う。


 当然、海軍兵学校の一期は一年なので、単純計算だと65期というのは67期の2年前に実戦部隊に配属されたことになる。宮野大尉の場合は昭和15年に初めて実戦部隊に配属されたようだ。日中戦争では空戦の機会はなかったものの、戦闘の空気には十分慣れたであろう。太平洋戦争開戦時には押しも押されぬ指揮官となっていたのだろう。


 この宮野大尉もまたラバウル航空戦に参加してその若い命を散らすことになる。私が読んだ戦記物には宮野大尉は度々登場するが本当に部下から愛されていたのが分る。本当に人望のある人物だったのだろう。


2015年2月22日追加

 エース列伝に記載されている宮野善治郎大尉の誕生日は大正6年生まれとなっているが、大正4年12月29日の誤り(写真家・ノンフィクション作家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ)。



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