01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 宮野善治郎中佐は太平洋戦争開戦後3空分隊長、204空分隊長として比島蘭印航空撃滅戦、その後のラバウル航空戦に参加して素晴らしい統率力を発揮した名指揮官である。同時に自身も16機を撃墜するという戦闘機乗りとしての腕の良さも併せ持っていた名パイロットである。

 

宮野善治郎中佐の経歴

 

略歴

 大正4年12月29日大阪府生まれ。昭和13年65期生として海兵を卒業。昭和15年4月32期飛行学生を修了。昭和16年12空配属。支那戦線に参戦したが空戦の機会はなかった。10月大尉。3空分隊長。開戦後は3空分隊長として比島蘭印航空撃滅戦に参加する。昭和17年4月6空分隊長。6月空母隼鷹に便乗してダッチハーバー攻撃に参加する。帰還後ラバウルに進出、204空分隊長、飛行隊長として活躍した。昭和18年6月16日の空戦で行方不明となり戦死と認定された。戦死後、全軍布告、2階級特進で中佐となる。

 

士官と下士官の役割の違い

 零戦のエースには下士官が圧倒的に多い。80〜90%は下士官搭乗員ではないだろうか。これに対して欧米ではエースのほとんどは士官であるのだ。この違いは何かというとそもそもパイロットは士官という国もあれば、実戦で武勲を挙げることによって昇進するという場合もある。これに対して日本は士官でも下士官でもパイロットの道が開けており、日本の場合は多くが下士官パイロットであった。    実戦では士官は指揮官として戦闘全般を指揮し、下士官兵はその指示に従って戦うというのが基本スタイルだった。そのため実際に敵機を撃墜するのは下士官兵パイロットが圧倒的に多くなるのだ。だからといって士官パイロットの腕が悪い訳ではない。要するに役割が違うのだ。

 

士官の多撃墜パイロット

 この海軍航空隊の中で多撃墜スコアを持つこの宮野中佐というのは珍しい存在である。士官パイロットではあるが、海兵65期で日中戦争にも参加している。空戦の機会こそなかったものの、太平洋戦争開戦時にはベテラン士官であった。この海兵○○期というのは海軍兵学校卒業年次である。海軍の搭乗員をみる場合は基本的に67期が開戦直前(昭和16年10月とか)に実戦部隊に配属されたクラスということを覚えておくと戦記物を読む際は参考になる。

 当然、海軍兵学校の一期は一年なので、単純計算だと65期というのは67期の2年前に実戦部隊に配属されたことになる。宮野大尉の場合は昭和15年に初めて実戦部隊に配属されたようだ。日中戦争では空戦の機会はなかったものの、戦闘の空気には十分慣れたであろう。太平洋戦争開戦時には押しも押されぬ指揮官となっていたのだろう。  この宮野中佐もまたラバウル航空戦に参加してその若い命を散らすことになる。航空戦記物には宮野大尉は度々登場するが本当に部下から愛されていたのが分る。本当に人望のある人物だったのだろう。

 

宮野善治郎大尉関係書籍

 

零戦隊長 宮野善治郎の生涯(光人社NF文庫)

神立尚紀 著
潮書房光人新社 (2016/2/19)

 宮野善治郎中佐の母校の後輩である神立尚紀氏による本。徹底した調査で宮野善治郎中佐の人生を再現している。不器用だったりと意外な一面も垣間見れる。世間に流布している宮野善治郎中佐の誕生年を大正4年と訂正している点は重要。

 

第204海軍航空隊編『ラバウル空戦記』

第204海軍航空隊 (編集)
朝日ソノラマ (1987/03)

 ラバウル航空戦初期に投入され終盤まで戦い続けたラバウル航空隊屈指の部隊「204空」生存者が編纂した戦記。本書が編集された時点ではまだ多くの生存者がおり、記憶も鮮明だったこともあり、内容はかなり詳しく書かれている。宮野善治郎中佐と若い部下達の交流も描かれている。上下関係の厳しい海軍でありながら酒の席で部下が隊長に「ため口」で話しているのが微笑ましい。本当に信頼されていたのだろう。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。宮野善治郎中佐は「エース列伝」に登場するが誕生年が大正6年となっているが4年の誤り。略歴を知るには最良の書。

 

まとめ

 

 宮野善治郎中佐は享年わずか27歳。「人望のある隊長」といっても20代の若者であることに今更ながら驚く。日中戦争で実戦の空気を感じてはいたが実戦未経験であった宮野中佐は熟練者揃いの3空分隊長を任せられる。重任であったが十分に成し遂げたのはその技量と人格によるものだろう。戦後になっても宮野中佐を慕うパイロットは多かったという。