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 今日はあまり著名ではないエース、中谷芳市を紹介したい。生まれたのは大正10年というから太平洋戦争ではかなりの若手搭乗員と言っていい。出身は予科練丙飛2期である。丙飛とは操縦練習生の名称が変更されたもの。苛烈なラバウル航空戦を生き抜いた強者であり、終戦まで戦い抜いた数少ないパイロットだ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正10年長崎県の農家に生まれ、自転車屋の店員から海軍に入団、整備兵から転じて昭和16年11月丙2期飛練を卒業、直ちに千歳空へ配属されて、開戦時は内南洋防空にあたっていた。17年2月1日、米機動部隊の来襲時、ルオットから離陸して艦爆1機を撃墜したのが初陣であった。8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に加入した。
12月201空に復帰してマーシャル群島防空にあたったが、翌年は春内地へ引きあげ、7月再びブインに進出、連日の激戦に活躍して生き残った。この間P−38の2機編隊を追いつめて空中衝突させたエピソードを残している。12月331空に転じてサバンに転進し、19年3月202空、ついで221空に転じて本土へ帰り、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。目立たないが着実、周到な性格で、撃墜機数は16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 太平洋戦争開戦時には千歳空に在隊していた。この千歳空には後のトップエース西沢広義も在籍しているなどのちのエースが何故か異常に多い部隊であった。中谷は西沢が台南空に異動した後も千歳空に残ったようでちょうど負傷した坂井三郎と入れ違いになる形で台南空に配属された。


 その後は局地戦闘機部隊331空、202空などを経て教員配置で終戦を迎えたようだ。総撃墜数は16機。



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