01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 伊藤清は大正10年生まれ、3空で活躍した多撃墜のエースである。撃墜数は23機に及ぶ。しかし私にとっては未知のエースであった。台南空の搭乗員達は坂井氏の著書で有名であったが、同時期に航空撃滅戦を行った3空には戦中の記録を公表した人が少なかったというのが理由なのかもしれない。

 

伊藤 清飛曹長の経歴

 

概要

 大正10年新潟県生まれ。昭和14年6月1日機関兵として横須賀海兵団に入団。昭和15年11月丙飛二期に採用され霞ヶ浦航空隊入隊。大分空で戦闘機専修教育を受け、昭和16年11月12期飛練を修了し3空に配属される。比島航空撃滅戦に参加したのち、ポートダーウィン攻撃に参加する。昭和17年9〜11月までラバウル派遣。その後再びポートダーウィン攻撃に参加する。昭和18年11月、2年にも及ぶ戦地生活を終え本土に帰還し、大分空、筑波空で教員配置に就き終戦を迎える。2012年7月4日死去。

 

丙飛二期の同期達

 伊藤清飛曹長は丙飛二期、同期には宮崎勇、渡辺秀夫、中谷芳市等、太平洋戦争で活躍した搭乗員が多い。戦中派とまでは言えないが太平洋戦争が初陣であったクラスだ。そのため日中戦争で実戦経験を経たクラスと異なり多くの戦死者を出した。

 伊藤飛曹長は自ら本や手記を出すことはなかったが、神立尚紀『零戦最後の証言』によって活躍が世間に知られることとなった。伊藤氏は丙飛二期を修了すると第3航空隊に配属された。これは台湾の高雄にある航空隊で太平洋戦争開戦後、台南航空隊と並んで航空撃滅戦で活躍する部隊である。

 

3空配属とポートダーウィン攻撃

 特に3空は搭乗員の練度が高く、202空と改称されたのち解隊するまで無敗であった稀有な航空隊であった。このため中々搭乗員割に入ることが出来なかったという。秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』によると初撃墜は昭和17年4月4日ということになっているが、伊藤によるとそれ以前に輸送機を撃墜したのが初撃墜だという。

 その後、6度のポートダーウィン攻撃に参加し、昭和17年9月〜11月まで米軍のガダルカナル上陸に対応するため3空派遣隊としてラバウルに進出する。その後、再び南西方面に戻り、数次のポートダーウィン攻撃で、北アフリカ戦線でドイツ空軍に恐れられたイギリス空軍の有名なエース、コールドウェル少佐(28.5機撃墜)率いるスピッツファイア隊と激突する。伊藤はこのスピッツファイア隊の印象をこう語っている。

 

「ま、弱かったですね。」

 

内地帰還から終戦

 昭和18年11月、伊藤は本土に戻り教員配置に付く。その時、約二年間の戦地勤務での戦果を表彰されている。そこには撃墜破32機となっており、内訳は撃墜23機、地上撃破9機である。秦郁彦編『日本海軍戦闘機隊』には撃墜17機とあるが、それは誤りである。

 その後は本土で教員配置に付き終戦を迎える。総撃墜数23機であった。戦後は婿養子となり姓が加藤と代わった。2012年7月4日死去。因みに『全機爆装して即時待機せよ』を上梓している加藤清氏は、全くの別人である。

 

伊藤 清飛曹長関係書籍

 

零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像

神立尚紀 著
光人社; 新装版 (2010/12/18)

 加藤(伊藤)清氏のインタビューあり。撃墜数が17機ではなく23機であることの証拠となる賞状の写真もある。インタビューの内容は圧巻。

 

日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝

伊沢 保穂 秦郁彦 著
酣燈社 改訂増補版 (1975)

 1975年初版の海軍のパイロット好きには必携の本。撃墜王、エースの一覧表、主要搭乗員の経歴、さらには航空隊史、航空戦史まで網羅している。2000年代に再販されているが、その際にエース列伝と航空隊史・航空戦史が分冊となってしまった。古くてもいいから1冊で読みたいという方にはこちらがおススメ。伊藤飛曹長に関しても略歴が紹介されている。

 

まとめ

 

 伊藤飛曹長の経歴の多くは3空であり、他のパイロットと異なり転勤が少なかった。しかし3空派遣隊として激烈なラバウル航空戦に参加、その後もポートダーウィン攻撃で多くの戦果を挙げたのち本土に帰還。2年近く教員配置を送るという少し変わった経歴の持ち主だった。