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 伊藤清は大正10年生まれ、3空で活躍した多撃墜のエースである。撃墜数は23機に及ぶ。しかし私にとっては未知のエースであった。台南空の搭乗員達は坂井氏の著書で有名であったが、同時期に航空撃滅戦を行った3空には戦中の記録を公表した人が少なかったというのが理由なのかもしれない。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年新潟県に生まれ、開戦直前の昭和16年11月12期飛練を卒業し、直ちに3空へ配備され太平洋戦争を迎えたが、当時の3空は大多数が飛行時間1000時間以上のベテランぞろいで、緒戦期には空戦出場の機会がなく、17年4月4日ポート・ダーウィン攻撃の初陣で1機を撃墜し、その後8月まで数次のダーウィン攻撃に参加して目ざましく成長した。

 9月、相生大尉の指揮する3空主力が南東方面へ一時転用されたのに伴ってラバウルへ進出し、11月上旬南西方面に復帰するまで、ガ島、ニューギニアの激烈な航空戦に参加した。

 南西方面に復帰すると、18年早春から11月まで、アラフラ海の防空とダーウィン進攻作戦に当たり、満2年の連続した戦場生活で、参加した空戦30回、撃墜破30機(撃墜17、撃破13)に達し、特別表彰を受けた。内地帰還後は、大分空筑波空の教官をつとめ、終戦を迎えた。戦後、加藤を改姓した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)
 

 しかし1999年、神立尚紀のインタビューによって伊藤氏の活躍が世間に知られることとなった。その他搭乗員達へのインタビューをまとめたのが『零戦最後の証言』である。それはそうと神立氏の功績により伊藤清の詳細を知ることができた。その内容も踏まえつつエース伊藤についてみてみたい。まずはエース列伝の記事から。


 伊藤清は1939年6月1日機関兵として横須賀海兵団に入団。約1年半勤務したのち、1940年11月、丙飛二期として土浦海軍航空隊に入隊する。ここで航空兵としての道を歩み始める。その後、大分空で戦闘機専修教育を受け、1941年11月3空に配属される。エース列伝にもあるように3空は当時、ベテラン搭乗員がキラ星のようにおり、中々出撃させてもらえなかった。


 初撃墜は1941年4月4日ということになっているが、伊藤によるとそれ以前に輸送機を撃墜したのが初撃墜だという。ポートダーウィン攻撃には6回参加したという。1942年9月〜11月までラバウルに派遣される。その後、再び南西方面に戻った。数次のポートダーウィン攻撃で、北アフリカ戦線でドイツ空軍に恐れられたイギリス空軍の有名なエース、コールドウェル少佐(28.5機撃墜)率いるスピッツファイア隊と激突する。伊藤はこのスピッツファイア隊の印象をこう語っている。


 「ま、弱かったですね。」


 1943年11月、伊藤は本土に戻り教員配置に付く。その時、約二年間の戦地勤務での戦果を表彰されている。そこには撃墜破32機となっており、内訳は撃墜23機、地上撃破9機である。エース列伝に撃墜17機とあるのは誤りであるそうだ。


 その後は本土で教員配置に付き終戦を迎える。総撃墜数23機であった。戦後は婿養子となり姓が加藤と代わった。2012年7月4日死去。因みに『全機爆装して即時待機せよ』を上梓している加藤清氏は、全くの別人である。



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