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 大正6年生まれで中国戦線以来の撃墜王である。中国戦線で13機を撃墜した。これは岩本徹三の14機に次いで多い。戦後は多くの雑誌等に寄稿しているため田中氏の名前を目にすることは多い。今日はこのエース田中国義についてみてみよう。まずはエース列伝から。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
支那事変有数の撃墜王として知られている。
大正6年佐賀県に生まれ、昭和9年海軍に入団、11年3月31期操練を卒業して大村空に配属されたが、支那事変の勃発により12年10月13空に転じ、上海に進出した。初空戦は樫村機の生還した12月9日の南昌攻撃時で、全弾を消費してカーチス・ホークとコルセア各1機を撃墜した。

 当時、戦闘機隊では、飛行機よりも搭乗員の数がはるかに多く、なかなか空戦の機会を得られなかったが、最若年の田中1空兵は戦運に恵まれ、最も多い6回の空戦に出撃して計12機を撃墜し、7月大村空に帰還した。その後、龍驤、鈴鹿空、鹿屋空を経て、16年10月1飛曹に進級して台南空に配属され、太平洋戦争に入った。

 12月8日のルソン島第1撃では、新郷飛行隊長の2番機として参加、P−40を1機共同で撃墜した。ついで蘭印に転戦んしたが、B−17攻撃に特技を示した。すなわち、17年1月24日午前バリクパパン上陸の船団上空を哨戒中、来襲したB−17の7機編隊を攻撃、被弾負傷したが、ひるまず数撃を加え、撃墜したB−17が列機と衝突して折り重なって墜落するのを確認した。

 また2月8日にはジャワ海上空で新郷大尉の指揮する零戦9機に加わって、東行するB−17(隊長ダフレーン少佐)の9機編隊を発見、左右に分かれて挟撃しつつ、3機ずつ順次に正面攻撃を加え、隊長機を含む2機を撃墜した。17年4月大分空教員に転じ、帰国したが、心臓弁膜症で戦場に出られず、筑波空、霞ヶ浦空の教官を経て終戦を迎えた。撃墜機数は17機(公認)
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 1937年10月、田中国義は13空付を命ぜられ初めての戦地へ行く。そこには黒岩利夫(13機撃墜)、赤松貞明(27機撃墜)等の古強者が多く、一緒に赴任した武藤金義、岩本徹三等は食卓番であったそうだ。岩本徹三の『零戦撃墜王』にも、

 「私たち三名、松村(百人?)、田中(国義)、それに私はおかん番である」(注はブログ著者)
 「商売繁盛の料理屋のコックよろしくいそがしい。酒も豊富だが、出ていくスピードも早い。」

 と食卓番時代のことを記している。それはそうと、田中は日中戦争で撃墜王となったのち、台南航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に活躍した。白眉なのはこの戦いにおいて難攻不落と言われるB17を2機同時撃墜したことであろう。その後も共同でB17を撃墜している。B17を大量に撃墜した田中は戦後、「B17撃墜に特技を発揮した」等、B17の撃墜が得意だったようなことを戦記物に書かれたことについて、


「あんなもの、得意なはずないですよ」


 と語っている。1942年教員配置についたが、心臓が悪かったためその後戦場へは出られなかった。撃墜数は17機とされているが、『零戦最後の証言』では個人撃墜14機、共同含め20数機としている。戦後は坂井三郎氏の紹介で会社経営を営む。2011年5月25日死去。雑誌『丸』等の寄稿に応じていたようで私が調べた限り、寄稿文には以下のものがある。


「特三物語」『零戦、かく戦えり!』文春ネスコ 2004年
『零戦最後の証言』光人社 1999年
「台南空のサムライ比島に突入せよ!」『伝承 零戦』第一巻 光人社 1996年
「私はこうして”空の要塞”を撃墜した」『伝承 零戦』第三巻 光人社 1996年
「初空戦など」『海軍戦闘機隊史』零戦搭乗員会編 原書房 1987年 
「空の要塞を叩き落とした零戦の闘魂」『丸』エキストラ版29巻 潮書房 1973年



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