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 本田稔は、2015年現在、御存命の数少ないエースの一人だ。本田稔は大正12年生まれ、甲飛5期出身である。同期のエースとしては高橋茂(10機撃墜)、鈴木博(8機撃墜)がいる。1942年1月飛練卒業というから太平洋戦争開戦後の戦中派エースということになる。まずはエース列伝をみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正12年熊本県に生まれ、開戦後の17年1月甲5期飛練を卒業して22航戦司令部付戦闘機隊に配属されたが、南方作戦はすでに終わり、空戦の機会はなかった。

4月、鹿屋空戦闘機隊(のち253空と改称)に転じ、南西方面の各基地を転々したのち9月ラバウル(のちカビエン)に進出し、翌年5月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加した。19年4月戦闘407飛行隊に転じ、10月比島へ進出、帰国後343空戦闘407飛行隊付に移り、本土防空戦闘で活躍し、終戦を迎えた。現在はMU−2のテスト・パイロットである。撃墜機数17機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 本田稔少尉は1939年9月甲種5期生として予科練に入隊。1941年4月谷田部空で操縦訓練を受ける。この時本田を担当した教官はオール先任搭乗員と言われた菊池哲生上飛曹(20機以上撃墜)であった。その後、大分空で戦闘機専修の教育を受ける。そして22航戦司令部付戦闘機隊に配属される。


 エース列伝にはこの間空戦の機会は無かったとしているが、本田稔著『飛行機野郎』によるとこの時に初撃墜を果たしている。その後、1942年4月、253空に配属され、9月にはラバウル航空戦に参加する。その後1943年5月までラバウル航空戦を戦い抜いた。その間、13機を撃墜したという。


 本土に帰還し、横空でテストパイロット。1943年春、大分空の教員配となる。1944年4月361空戦闘407飛行隊付となり隊長林喜重大尉の下、鹿児島基地で部隊の錬成を行った。その後、戦闘407飛行隊は221空に所属することとなり、捷号作戦の後、343空に編入される。


 その後343空として本土防空戦に活躍するのだが、本田少尉はかなり厳く二番機が務まる者がいなかったようだ。その本田少尉の二番機を務めたのがトッカン兵曹こと小高登貫(12機撃墜、共同撃墜105機とも)であった。小高はラバウルで数多くの実戦を経験しており、本田少尉の二番機を見事にこなしたようだ(小高登貫『あゝ青春零戦隊』)。



1/32 川西 N1K2-J 局地戦闘機 紫電改“後期型" (08236)


 本田少尉も小高のことは評価しており、後年インタビューで小高に触れ、

「彼とはラバウルで一緒でした。大変元気のある男で、操縦の腕前も素晴らしかったですね。とにかく私の列機を務めるのは難しかったはずですが、彼はよくやってくれました。とにかく私は正面攻撃をやるからついてくるのが難しかったんですよ・・・」(井上和彦『最後のゼロファイター 本田稔海軍少尉』

 と語っている。本田少尉自身も自分の列機につくことは難しいと理解していたようだ。その後、本田、小高共に343空で終戦を迎える。本田は戦後も飛行機に乗り続け総飛行時間は9800時間に達したという。最後に本田少尉のインタビューがNHKで無料公開されいるので是非観て欲しい。

NHK戦争証言アーカイブス



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