01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 岡野博は1921年生まれ、操練54期を修了した。日中戦争は経験していないが太平洋戦争開戦時には十分な訓練を受けての参加である。太平洋戦争を戦い抜いたのち、343空で終戦を迎えたという円熟の搭乗員であった。

 

岡野博の経歴

 

概要

 1921年茨城県生まれる。1938年6月横須賀海兵団に入団。1941年5月54期操練卒業。横空配属。9月千歳空に配属で太平洋戦争開戦を迎える。1942年4月1空に転属。5月下旬、一時的にラバウルに展開中の台南空に派遣される。11月1空復帰。1942年12月201空に転属。マーシャル防空。1943年3月本土に帰還。松島基地で練成したのち、7月201空ブイン基地に前進、11月331空に転属。1944年3月、331空から202空戦闘603飛行隊に異動。ビアク作戦に参加。9月大村空。343空戦闘701飛行隊に配属されて終戦を迎えた。

 

横須賀航空隊

 岡野は1921年生まれ、操練54期を修了した。同期には山崎市郎平(14機撃墜)がいる。この54期には戦闘機専修者が21名おり、内、終戦まで生き残ったのはわずか2名であった。岡野の経歴で面白いのは操練修了後、4か月ほどではあるが、横須賀航空隊に配属されたことだ。横空とは新型機の試験を受け持つ審査部を持つ海軍航空隊の殿堂であり、終戦まで練度を維持し続けた部隊である。当時新米パイロットであった岡野がなぜ横空に配属されたのかは気になるところだ。そして太平洋戦争開戦時には西沢広義、福本繁夫等が所属していた千歳空に所属していた。

 

ラバウル航空戦に参加

 西澤等千歳空の一部部隊は1月にラバウルに進出するが、岡野等千歳空主力は引き続きルオット島で哨戒、訓練の日々を過ごした。1942年4月、戦闘機隊が再設置された1空に異動となる。5月には1空増援部隊としてラバウルに展開する台南空に派遣される。台南空には1月に千歳空から派遣された西澤廣義等が所属しており、再び同じ部隊として行動をするようになった。11月、戦力を消耗しつくした台南空が本土に帰還するのと同時に岡野は752空と改称された1空に復帰するが、12月には201空と改称された千歳空に再び異動してマーシャル諸島防衛に当たる。1943年3月、201空は本土に帰還する。

 

二度目のラバウル航空戦

 岡野も201空隊員として約1年半振りに内地に帰還した。数ヶ月の錬成を終えた後、7月には201空は南東方面のブイン基地に進出することとなる。ブイン基地とはラバウル基地よりもさらに最前線に位置する基地である。岡野としては二度目のラバウル航空戦であったが、戦争初期のラバウルよりも遥かに激烈な戦闘が繰り広げられていた。5ヶ月間に及ぶラバウル航空戦に生き残った岡野は、11月、南西方面に展開する331空に配属されたのち、1944年3月には同じ南西方面に展開する、機体にXナンバーを持つ「まぼろし部隊」202空に配属される。

 

内地帰還。紫電改部隊、そして終戦

 1944年9月内地帰還。大村空での教員配置の後、源田実大佐率いる精鋭部隊、343空戦闘701飛行隊に配属される。この戦闘701飛行隊とは自身も撃墜王である鴛淵孝大尉(撃墜6機)が隊長を務める部隊である。後に日中戦争以来のベテラン搭乗員松場秋夫(18機撃墜)、中村佳雄(9機撃墜)等も配属される。この343空で終戦を迎え、戦後は民間航空機のパイロットとなった。

 

まとめ

 

 横須賀航空隊とは海軍航空の殿堂と呼ばれた部隊で終戦まで高い練度を維持した部隊だ。その部隊に新隊員で派遣されたのだから相当期待されていたのだろう。その後、搭乗員の墓場と呼ばれるラバウルに派遣され生還するが、岡野は再度派遣される。その「地獄の航空戦」も生き抜き有名な「剣部隊」343空で終戦を迎える。著名な部隊を転々とした華々しい経歴であるが、多くの死線をくぐり抜けてきた実力派である。