(画像はwikipediaより転載)
撃墜19機のエースで活躍したのは半年足らずであった。乙飛9期出身であり、日中戦争は経験していない。太平洋戦争開戦時には弱冠20歳であった。
略歴
1922年愛媛県に生まれる。1941年10月乙9期飛練を卒業して、1942年2月に南洋ルオット島の千歳空に配属される。同月4空に配属、ラバウルに進出後、4月には台南空に配属される。そこから数ヶ月間、連日の戦闘に参加するも1942年9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明となった。非常に温和な性格であった。
激闘ラバウル戦線
羽藤は当初は千歳航空隊、第四航空隊、その後台南航空隊に配属された。予科練出身、終了後、千歳空、第四航空隊、台南航空隊という道は、奇しくも日本一の撃墜王といわれる西澤廣義と同じコースである。初戦果は台南空で挙げた。台南空に配属された1942年4月には未だ台南空は笹井醇一、坂井三郎が健在であり、予科練の先輩西澤、太田敏夫等、名だたる搭乗員達が在籍していた。
羽藤三飛曹は4月11日に米川正吉三飛曹と共同でドン・ブラウン軍曹操縦のP-40キティホークを共同撃墜し初戦果を記録する。以降、多くの空戦で戦果を重ね、8月7日に米軍ガダルカナル島上陸、同日の空戦で坂井一飛曹が負傷して本土に送還、同月26日には笹井醇一中尉が戦死したのちも戦い続けるが、9月13日、ガダルカナル島強行偵察の二式陸偵の護衛零戦9機の内の1機として出撃、F4Fワイルドキャット 28機と空戦状態になり撃墜された。
日本側記録では9月に戦死するまで19機を撃墜したとされている。もちろん実際の撃墜数は不明であるが、戦史研究家の調査によると判明しているだけで羽藤三飛曹の撃墜数は協同撃墜合計2.81機であるという。
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