01_零戦22型
(画像はwikipediaより転載)

 

 乙飛5期といえば太平洋戦争で中核となった予科練のクラスだ。中瀬正幸(18機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、角田和男(13機撃墜)等、多くのエースを輩出したクラスだ。その分、消耗も激しかった。乙飛5期戦闘機専修17名中、太平洋戦争を生き抜いたのはわずか4名に過ぎなかった。その内エースとして知られているのが2名、一人は2013年2月14日に亡くなった心優しきエース、角田和男、そしてもう一人が杉尾茂雄だ。

 

杉尾茂雄の経歴

 

 宮崎県に生まれ。1934年6月5期予科練に入隊。1937年8月3日予科練を繰り上げ卒業。杉尾以下43名が霞ヶ浦空に入隊、九三式中練で訓練を受ける。1938年3月飛練課程を終了。その後佐伯空で延長教育を受ける。同年9月16日大村空に転勤する。1939年9月12空に配属。その後、本土に帰還、角田和男『修羅の翼』によると1939年暮れには、教員として百里空に配属されている。1940年2月には12空に配属されていたようである(角田和男『修羅の翼』P84)。

 1941年4月、再度12空配属。10月3空配属で太平洋戦争を迎える。海戦後は3空隊員として航空撃滅戦に参加。さらに1942年4〜8月まで、チモール島より数次のダーウィン攻撃に参加した。9月から11月までラバウルに分遣される。1943年4月内地帰還。同年、海口空に転属。5月神ノ池空配属。9月201空。1945年5月には筑波空に転属して終戦を迎えた。

 年齢は不明であるが、予科練の応募資格は年齢14歳以上20歳未満であるから、最年少で入隊したとして大正9年生まれである。19歳で入隊ということはほとんどなかったようなので大正7年〜大正9年位の生まれであろう。さらに最年少もまた少ななったようである。乙飛7期の西沢広義、杉山輝夫が共に大正9年生まれであり、乙飛5期の撃墜王が全て大正7年生まれであるということから杉尾も大正7年生まれの可能性が高い。21歳で中国戦線に配属、23歳で太平洋戦争開戦といった感じであろうか。

 予科練の訓練は厳しく、杉尾の在籍した5期は200名の入隊者中、死亡者8名、免役者28名、他兵科に回った者17名、次期への編入者8名の合計62名の脱落者を出した。杉尾はこの過酷な訓練を無事に修了。霞ヶ浦空で飛練課程、佐伯空を経て実戦部隊である大村空に配属された。その後、12空付きで日中戦争に参加するが、日中戦争では空戦は未経験であったようだ。太平洋戦争では3空に所属した。3空とは横山保が飛行隊長を務めた部隊で海軍航空隊で唯一の「無敗部隊」と言われている。

 開戦時は台湾にあり、初戦期の航空撃滅戦は3空と坂井三郎等が所属する台南空で行われた。比島・蘭印航空撃滅戦終了後、台南空がラバウルに移動したのに対し、3空はチモール島クーパン基地に展開、一部部隊をもってアラフラ海防衛、オーストラリアポートダーウィン空襲を行った。杉尾はこのポートダーウィン空襲で活躍しつつも、1942年9月〜11月には一時的にラバウル方面に派遣され、ラバウル航空戦に参加した。

 1942年9月といえば米軍がガダルカナル上陸を行った翌月であり、米軍を撃退するために南東方面に兵力を集中させたのだろう。この時期の台南空には笹井中尉は8月に戦死、坂井一飛曹は負傷により内地療養であったが、西沢広義、太田敏夫といった『大空のサムライ』に登場する搭乗員達がまだ活躍していた(太田は10月に戦死する)。派遣終了後、杉尾は再びポートダーウィン攻撃に復帰した。

 その後、1943年4月に本土に帰還したとあるが、教員配置であろう。その後、海口空を経て1944年9月には201空に配属される。この201空はこの時期、特攻隊をかなり出した部隊であり、その時の状況は当時、201空に配属されていた同期の角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。

 その後、1945年5月には教員配置となったようで筑波空教官として終戦を迎えた。撃墜数は20機以上となっている。秦郁彦著『日本海軍戦闘機隊』にも地味とあるように、あまり他の搭乗員の手記にも登場しない。経歴をみると撃墜の多くはポートダーウィン攻撃、ラバウル派遣時に挙げたものであろう。