荻谷信男
(画像はwikipediaより転載)

 

 荻谷信男は48期操縦練習生出身で生涯に撃墜した敵機は24機と言われている。当時、海軍航空隊内部でも坂井三郎岩本徹三という名は知れ渡っていたという。しかし、逆に荻谷は当時ほとんど部内でも知られることがなかった搭乗員であったようだ。それは初空戦が1943年暮れというかなり遅い時期だったことも理由であろう。初空戦後は、円熟の技量で戦果を挙げたが、残念ながら1944年2月には未帰還となってしまった。

 

萩谷信男の経歴

 

 1918年茨城県生まれ。1938年海軍に入隊。1940年1月48期操練を卒業。千歳空に配属されルオット島で開戦を迎えた。その後281空に異動。北千島に進出する。1943年11月281空派遣隊としてラバウルに進出、204空所属となる。1944年1月末253空に異動。2月13日未帰還となる。

 荻谷は1918年生まれ、操練48期を修了した後、千歳航空隊に配属される。荻谷が配属された千歳航空隊には後にトップエースとなる西澤廣義、ラバウルの撃墜王福本繁夫等が配属されていたが千歳航空隊はこんなもんじゃない。さらに輪島由雄(11機撃墜)、阿武富太(10機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、山本留蔵(11機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、吉野 俐(15機撃墜)、渡辺秀夫(16機撃墜)、志賀正美(15機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、長野喜一(18機撃墜)等が配属されているという何だかんだで凄い部隊なのである。

 千歳航空隊はマーシャル諸島の防空任務ののち一部の隊員は、トラック島、ラバウルに展開し、後に搭乗員は台南空に編入され熾烈なラバウル航空戦に加わることになる。のち201空と呼称される千歳空本隊も1943年7月にはラバウル方面へ進出するが、荻谷は北千島に展開する281空に配属されることとなった。当時、この281空には熟練搭乗員の岩本徹三が在籍している。

 北千島で岩本達と鮭の捕獲をしたりして盛り上がっていたが、281空にも、とうとうラバウル進出の命が下る。1943年11月、春田虎二郎中尉以下、岩本徹三、萩谷信男等16機がラバウルに進出。荻谷達281空搭乗員は204空、253空と異動し連日の航空戦を戦い抜いた。その間、13日間に18機撃墜という海軍最高密度の撃墜記録を挙げる。

 日本海軍では採用されていないが、欧米では5機以上撃墜したパイロットはエースと呼ばれる。たった5機である。逆に言えば5機を撃墜することが非常に難しいということである。ほとんどのパイロットは5機も撃墜できない。それを荻谷は2週間弱で18機撃墜したのである。これがどれだけすごいことなのかは分かって頂けると思う。

 萩谷は海軍に入るのが遅く、開戦後も平穏な地域に配属されることが多く、初空戦が25歳という珍しい搭乗員である。しかしそれまでの訓練は伊達ではなかった。突然熾烈なラバウル航空戦に参加し、わずか3ヶ月の間に24機を撃墜するという記録を残した名パイロットであった。

 

 

萩谷信男関連書籍

 

岩本徹三『零戦撃墜王』

岩本徹三 著
光人社NF文庫 2004/8/1
 

 戦記に詳しい人には有名な海軍のトップエース岩本徹三少尉の本。岩本徹三氏は日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ第一線で戦い続けた稀有なパイロット。総撃墜数は216機で内、ラバウル航空戦で142機を撃墜したと自称していた 岩本徹三氏は戦後10年を待たずして敗血症により他界してしまう。岩本氏は戦中から日記を付けており、その日記を基に戦後執筆したのが本書だ。萩谷信男と同部隊に所属した熟練パイロット。本書中に萩谷の顔写真が出ている。

 

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