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 知名度は激烈に低いが戦前派エースの最後のクラスである。総撃墜数は30機以上と言われるが記録に残っているのは16機のみである。東洋一と自称した台南空、艦爆との混成部隊である582空、ラバウル航空戦の主力204空、まぼろし部隊と称された202空と部隊を渡り歩いた。最後は呉防衛の332空に配属され終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊のパイロットとなり、事故で殉職してしまったので世間に知られることがあまりなかったが練度の高いエースであった。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年愛知県に生まれ、昭和13年10月甲飛3期生として海軍に入り、16年4月飛練課程を卒業して新編の1空付に発令され鹿屋に赴任し、7月漢口に進出したが、上空哨戒だけで空戦はなく、9月鹿屋に復帰した。10月台南空に転じ、開戦と共に比島、蘭印航空戦に参加した。

 開戦第1日の12月8日石原2飛曹は、若尾中隊長第3小隊の2番機としてクラーク基地に銃撃を加えたが、10日にはデルカルメン上空の空戦で初戦果をあげた。17年4月徳島空教員で帰国したが、18年6月582空付に転じ、南東方面に出動、まもなく204空に移り、主としてブイン、ラバウルを根拠に、激烈な航空進攻、迎撃戦に活躍した。とくに大型機撃墜を得意とし、10月18日にはラバウル上空でB−26中爆3機を11月2日には同じく3機を撃墜している。

 12月202空に転じて南西方面に移り、翌年3月トラックに移動、5月末ビアク作戦に参加後、米軍のマリアナ進攻により、ヤップへ前進、6月18日および19日サイパン沖の米艦船攻撃に出撃、とくに18日には列機とともに敵戦闘機と空戦、共同で4機を撃墜した。7月呉空に転じて本土へ帰還、8月以降呉地区防空の332空で終戦まで零戦および雷電に搭乗、B−29迎撃に当りつつ終戦を迎えた。総撃墜機数16機(公認)。戦後、航空自衛隊のジェット・パイロットになったが、事故で殉職した(3空佐)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 石原は大正10年、西暦1921年生まれである。この大正10年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(48機撃墜)、伊藤清(17機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。


 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。大正10年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は大正10年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であった。しかし石原は中国戦線では空中戦はしていない。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。その後は上記のように多くの航空隊を転々とし着々とスコアを上げていった。1943年12月、204空から多くのベテラン搭乗員が253空に移ったが、石原は202空への転属となった。この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。1944年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。


1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できる。


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