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 石原進は甲飛3期出身で総撃墜数は16機とも30機ともいわれている。日中戦争、太平洋戦争に参加して戦後は航空自衛隊のパイロットとなったが事故により殉職した。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年愛知県生まれ。昭和13年10月甲飛3期生として予科練に入隊。昭和15年4月飛練1期入学。昭和16年4月飛練課程を卒業。1空に配属、中国戦線に参加。昭和16年10月台南空配属。東南アジア方面の航空撃滅戦に参加する。昭和17年4月帰国。徳島空教員となる。昭和18年6月582空に配属。ラバウルに進出する。まもなく204空に異動。昭和18年12月202空に異動。昭和19年3月202空は22航戦に編入され、トラックに移動、石原は激烈な中部太平洋の戦闘をくぐり抜けていった。昭和19年7月、202空の解散により呉空に転じて本土へ帰還する。以降、終戦まで332空で終戦まで活躍した。



 石原は大正10年生まれである。この大正10年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(16機撃墜)、伊藤清(23機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。


 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。大正10年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は大正10年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であったが、石原は飛練卒業と共に4月10日に新編された第1航空隊に配属となり中国に進出した。しかし空戦の機会はなかったようで、初陣は太平洋戦争初期の航空撃滅戦である。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。台南空は4月にラバウルに進出するが、石原はここで内地帰還組となる。内地帰還後は徳島空で教員となるが、582空付に発令され、石原も1年遅れでラバウル航空戦に参加することになる。以降、204空に異動しつつもラバウル航空戦で活躍した。昭和18年12月、204空から南西方面の202空への転属となった。


 この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。以降、202空隊員として後期の中部太平洋地域での戦闘に参加した。この202空は、のちに戦闘301飛行隊と戦闘603飛行隊に別れるが、石原は301飛行隊に所属していたようだ。


 その後、昭和19年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。


1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できる。

2015年1月14日初稿。
2019年6月21日加筆修正。


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