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杉野計雄
(画像はwikipediaより転載)


 杉野計雄飛曹長は山口県生まれで、丙飛3期を卒業、基本的に母艦戦闘機隊員として活躍した戦闘機搭乗員である。495回の戦闘で32機を撃墜したといわれる。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 杉野飛曹長は大正10年山口県に生まれる。昭和14年海軍に入隊。昭和15年駆逐艦黒潮艤装員、完成後乗組、昭和16年丙種予科練3期生となる。昭和17年3月、六空に配属される。ミッドウェー海戦に参加したのち7月空母大鷹乗組。10月大村空教員配置。11月佐伯空。昭和18年4月空母翔鶴乗組。8月トラック進出。10月ラバウル進出。12月253空編入。昭和19年2月大分空教員。4月筑波空。8月634空所属にて台湾沖航空戦、比島航空戦に参加する。その後は本土にて教員配置兼特攻隊員として終戦を迎える。


 杉野飛曹長は1997年に自伝『撃墜王の素顔』を上梓する。その時の私はちょうど撃墜王の記録を読み漁っていたころでどストライクだった。この本を店頭で見かけた時の感激は今でも忘れない。何が感激だったかというと杉野飛曹長がまだ生きていたということだ。当時はまだインターネットも今ほどの情報量もなく、撃墜王の名前などはほとんど出て来なかった。岩本徹三ですら2~3件ヒットという時代であった。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 そんな時代だったので戦争を生き抜いた撃墜王の生死については書物からの情報しかなかった。当時の私はまだエース列伝が付されている『日本海軍戦闘機隊』を入手しておらず、『日本海軍戦闘機隊』を元にした中途半端な撃墜王ランキングによって32機撃墜の杉野飛曹長の存在は知っていた。そこに自伝が登場したのである。この感激、恐らく誰も分らないと思う。


 因みに『日本海軍戦闘機隊』は、後に神保町の文華堂で入手した。1984年当時2500円の本がプレミアが付き、何と2800円となっていた。物価を考えると値段は下がっている。感激も何も要するに世間で撃墜王で盛り上がっているのは私だけだった。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318






撃墜王の素顔―海軍戦闘機隊エースの回想 (光人社NF文庫)


 今回、記事を書くということで『撃墜王の素顔』を読み直してみたが、私の印象ではラバウルの撃墜王であったが、杉野飛曹長は意外にも母艦経験が多かった。ろ号作戦でラバウルに進出したのち昭和18年12月に253空に転属になる。岩本徹三、小町定、福本繁夫等、この時期には様々な部隊から253空に搭乗員が配属されていたようである。


 昭和19年2月に杉野飛曹長は岩本、小町等253空の主力と共にラバウルを後にしトラック防空に活躍する。因みに72機撃墜と言われるエース福本繁夫はラバウルに残留した。その後、寄せ集め零戦を指揮し戦ったようである。


 この時に初めて同期の谷水竹雄飛曹長と別々の部隊に異動になる。実は、杉野飛曹長は予科練で初めて飛行機に登場した時、谷水飛曹長と同じ教員のペアになって以来、この時までずっと同じ部隊に配属され続けたのだ。海軍航空隊とは非常に転属が多いところだった。この中で予科練から同じ部隊に居続けたというのは滅多にないことであった。


 お互いに気も合ったようで、著書の中でも「私達はピーナッツのようだ」(二人で一つという意か)と語り合ったという。その親友であり戦友であり同じ部隊に異動し続けた谷水飛曹長とも内地到着後は別々の任地に行くことになった。谷水飛曹長は台南空での教員であった。


 杉野飛曹長は、大分で教員配置に就くが、その後、またもや艦隊戦闘機隊隊員として実戦に参加、本土で教員配置で終戦を迎える。総飛行時間1994時間。戦後は職を転々としたのち海上自衛隊に入隊、佐官で退官する。1999年8月死去。

2015年1月12日初稿。
2019年6月13日加筆修正。


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