太田敏夫
(画像はwikipediaより転載)

 

 坂井三郎『大空のサムライ』に登場し一躍有名になった零戦搭乗員である。太平洋戦争開戦後に初空戦を経験し、戦死する1年弱の間に34機を撃墜したといわれている。最後の空戦では連合軍の7機撃墜のエースを撃墜したのち、連合軍の6機撃墜のエースフランク・ドル―リー中尉に撃墜され戦死した。

 

太田敏夫の経歴

 

 大正8年長崎県に生まれる。高小卒後、昭和10年佐世保海兵団に入団。昭和14年9月、46期操練を卒業後、大村空、ついで谷田部空に配属される。昭和16年6月第12空に配属。日中戦争に参加する。10月台南空に異動して開戦を迎える。初期の航空撃滅戦を戦い、昭和17年4月、台南空の一員としてラバウルに進出する。初期のガダルカナル航空戦を戦ったが、10月21日空戦中に戦死した。

 中国戦線に行ったのち、太平洋戦争では台南航空隊隊員として航空撃滅戦に参加、ラバウルに進出する。そこで撃墜を重ねるが、1942年10月に戦死してしまう。この一年足らずの間に34機を撃墜したというから相当なものだったのだろう。西沢広義ですらこの間の撃墜は30機だったと記憶している。坂井が28機、笹井が27機だったと思うので太田の34機というのは相当な数であったといえる。

太田が卒業のは操練46期であるが、この期は珍しく撃墜王は太田以外には出ていない。そしてこの46期には太平洋戦争を生き残った者は一人も居なかった。太田も1942年10月21日行方不明、戦死と認定された。すでに太田が戦死する以前に46期は9名中5人がすでに戦死していた。近年、調査によって太田敏夫の最後が明らかになった。太平洋戦争の熾烈な空中戦の中で最後が判明するというのは珍しいことだ。太田が戦死した10月21日、太田はガダルカナルへの爆撃機の援護作戦に参加し、米軍機との空中戦となった。

太田はすぐに一機を撃墜したが後方に付かれたため上昇しようとした時米軍機の弾が命中し太田は不帰の人となった。因みに太田が撃墜したのはハミルトンという7機撃墜のエースで、太田を撃墜したのはフランク・C・ドルーリー中尉という6機撃墜のエースであった。太田の戦死後の翌11月、台南航空隊は戦力の再編成のため内地に帰還した。