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 この大原亮治氏は丙飛4期出身。丙飛4期とは太平洋戦争開戦後に卒業したクラスだ。つまり卒業後、いきなり練度の高い米軍航空隊と戦わなければならないという非常に厳しい状況に置かれていた。ただ、この丙飛4期はまだ初戦期であったせいか後半に比べればまともな訓練を受けていたようだ。この丙飛4期には他にも70機を撃墜したといわれる杉田庄一がいる。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年2月25日宮城県生まれ。昭和15年6月一般航空兵として横須賀海兵団に入団。昭和16年2月丙種予科練を受験し合格する。昭和16年5月、丙飛4期として土浦空に入隊。昭和17年7月21期飛練卒業。大分空で戦闘機専修延長教育。卒業と同時に6空へ配属される。10月7日204空本隊としてラバウル進出。10月12日初出撃をする。10月13日ブイン飛行場に進出。10月19日初空戦を体験する。昭和18年10月内地に帰還。11月横空に勤務し終戦を迎える。



 大原氏は、大正10年宮城県生まれ、昭和15年6月海軍に入隊。昭和16年2月丙種予科練4期生として土浦航空隊に入隊した。昭和17年7月21期飛練課程を修了し、さらに戦闘機操縦者として大分航空隊に配属。その後いきなり第六航空隊に配属された。第六航空隊とは後の204空のことでのちにラバウル航空戦の中核となる部隊である。


 昭和17年10月に激戦地のラバウル、それも悪いことに最前線のブーゲンビル島ブイン基地に六空は進出する。10月19日、大原氏は初空戦を体験する。大原氏は空戦に入る前に増槽を落とすのを忘れてしまう。その後、数々の戦闘をくぐり抜けて大原氏は204空の中核として成長しながら激烈なラバウル航空戦を生き抜いた。昭和18年10月内地に移動になった頃には当初の六空搭乗員は大原氏、大正谷宗市、坂野隆雄の3名しかいなかったという。


 昭和18年11月、204空生存者3名は、ともに海軍航空隊の殿堂、横須賀航空隊に配属される。1年に亘り激戦地のラバウルで生き抜いてきた彼らには当然海軍の殿堂に所属する権利はあるということだ。その後終戦まで横須賀航空隊所属となる。


 これが大原氏の経歴であるが、大原氏の経歴で面白いのは転属が一回しかなかったことだ。海軍は転属が多い。例えば岩本徹三は12空、瑞鶴戦闘機隊、281空、201空、204空、253空、252空、203空と転属し、その間に教員配置もこなしている。これをみれば大原氏の転属一回というのが特異なのが分るというものであろう。


 下に挙げたのは大原氏のインタビュー、雑誌『丸』に寄稿した記事を収録した本である。大原氏は自伝こそ書いてはいないがインタビュー等は受けてくれるようで私としてはありがたい限りである。何せ歴史上の人物がインタビューに答えてくれるのだから。



零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡 (スコラスペシャル―ミリタリーシリーズ (40))


零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌 (光人社NF文庫 679)


零戦、かく戦えり!


 上記の3冊は私も全部持っているが絶対に買いだ。航空史家が書いた零戦のパイロットの本はたくさんあるが、本人の話は迫力が全然違う。いつかこういったインタビューも出来なくなるので早いうちに読んでおこう。こんなすごい人達と同時代に生きていることに感動するかもしれない。いや、私は感動した。


 せっかく〆たところでなんだけど、私は1990年代中盤に一番撃墜王に憧れていたのだ。この頃はまだ坂井三郎やら羽切松雄、杉野計雄、谷水竹雄、宮崎勇、小町定等の著名な撃墜王達が健在であった。それどころか台南空司令斎藤正久大佐すらもまだ健在だったのだ。しかし彼らも皆鬼籍に入ってしまった。憧れの人達が亡くなっていくのは本当に寂しかった。

2015年1月5日初稿。
2019年6月12日加筆修正。


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