
(画像はwikipediaより転載)
数少ない士官の撃墜王。総撃墜数は25機とも48機とも、または65機ともいわれている。初出撃が1944年と戦争後半を戦った撃墜王である。凄まじい闘志を持っていた暴れん坊だったようで訓練で随分飛行機を破壊したようである。後に有名なエース部隊、「剣」部隊こと343空の隊長として太平洋戦争最末期を暴れまわった。
菅野直の経歴
大正10年宮城県に生まれ。昭和16年12月第70期生として海軍兵学校を卒業。昭和18年9月第38期飛行学生教程を修了した。昭和19年4月、初代343空分隊長。7月201空の戦闘306飛行隊分隊長、さらに飛行隊長。フィリピン戦では、最初の神風特攻隊の隊長に内定していたともいわれている。昭和19年12月2代目343空戦闘301飛行隊長となる。昭和20年8月1日、屋久島上空で行方不明。戦死と認定された。
実際、1944年4月が初陣というのはかなり遅い。この時期といえばラバウル航空戦は実質的には日本の敗北に終わり、最後まで戦っていた岩本徹三、小町定、小高登貫等の撃墜王を輩出した253空もトラック島に後退した時期である。戦闘は完全に守勢にまわっており、同年6月にはマリアナ沖海戦で日本軍の機動部隊は実質的に壊滅する。この時期に菅野は初空戦を経験する。
初空戦でいきなり隊長というのはかなり無茶な気がするが当時の人事が硬直化した日本海軍では仕方のないことであった。隊長も部下も困ったことだろう。しかし菅野直は元々統率力のある人間だったのだろう。その後も343空においてラバウルの撃墜王杉田庄一の尊敬を一身に受けることとなる。
菅野は戦闘中に体当たり攻撃をしかけており、ラバウルで体当たり攻撃でB17を撃墜した杉田とは性格的にも合っていたのだろう。どちらも豪放磊落な人物だったようである。この菅野、エース列伝にもあるように何度も特攻に志願したが入れられず343空の隊長として日本海軍最後の決戦部隊の指揮をとることとなる。
1945年4月、鹿屋基地において杉田が撃墜され戦死すると目に見えて落胆していたという。その菅野も太平洋戦争終結直前の8月1日、行方不明となり戦死と認定される。玉音放送のわずか2週間ちょっと前である。撃墜数については65機、または48機、はたまた25機撃墜と言われているが戦果報告と実際の戦果とは相当な開きがあることはよく知られている。ガンカメラを搭載していた米軍の場合でも戦果は実際の6〜7倍になり、日本軍に至っては10倍以上に膨らんだ例もある。
菅野は明らかに戦闘機乗り向きの人間である。それは撃墜王杉田庄一が心酔したことからも分かる。他の多撃墜搭乗員も同様であるが、特に菅野が実戦を経験した時期は日本軍が劣勢になっている時期であった。故に菅野が何十機も撃墜した可能性は低いといえる。しかし菅野は、撃墜数に関わらず優秀な戦闘機乗りであり、統率力のある隊長であったことは間違いなさそうだ。