笹井醇一
(画像はwikipediaより転載)

 

 第一次世界大戦のトップエースは80機を撃墜した「レッドバロン」ことリヒトホーヘン男爵である。そのリヒトホーヘン男爵を目指し、東洋のリヒトホーヘンと言われたのが、海軍士官中最多の撃墜数を記録している男、笹井醇一中尉である。著名な撃墜王坂井三郎の著書『大空のサムライ』に登場することで有名だ。

 

笹井醇一の経歴

 

 1918年、東京生まれ。1939年海兵第67期を卒業。1941年11月第35期飛行学生教程を修了。台南空に配属され開戦を迎える。台南空隊員として蘭印航空撃滅戦に参加、4月にはラバウルに進出多くの航空戦に参加する。1942年8月26日未帰還。戦死と認定された。記録に残っている撃墜数は27機で戦死は全軍に布告され二階級特進で少佐となった。

 笹井は兵学校時代、軍鶏と呼ばれたように気の強い性格だったようだ。これは戦闘機パイロットに全体的にみられる個性のようなものだ。ただ、旺盛な闘志を持ち、気の荒い性格の人間のみが撃墜王なる訳ではない。非常に温和な性格で撃墜王となった搭乗員も多い。

 それはともかく、笹井は海軍兵学校67期。太平洋戦争の開戦前に実戦部隊に配属された新米士官であった。一つ上の66期は一年前に卒業し、実戦部隊にすでに配属されていたからこの一年は大きい。海兵67期以降は太平洋戦争という激しい戦闘で士官としての経験、技量を積んでいくしかなかったのである。

 この海兵67期、68期、69期というのは太平洋戦争において現場指揮官として最前線に立った。重宝された反面、消耗も著しかった。67期でいえば、笹井醇一(54機撃墜)、山口定夫(12機撃墜)、小林保平(10機以上撃墜)、中川健二(8機撃墜)という多くのエースを輩出したものの、戦闘機にすすんだ23名の内、20名が戦死、死亡率87%という壮絶なものだった。

 68期、69期も同様で68期は28名中23名が戦死、死亡率82%、69期は48名中生き残ったのはわずか7名であった。死亡率85%。70期になると少し下がるがそれでも死亡率77%であり、前線指揮官として活躍した61期~72期までの海兵出身士官の死亡率は尋常ではない。それはそうと笹井が所属していた台南空は、西澤廣義、坂井三郎、太田敏夫等々、キラ星の如くエースを輩出した部隊であり、技量は東洋一と自負するほどであったという。

この面からみれば笹井は部下に恵まれていたともいえるが、本人の努力があったのは考えるまでもないだろう。結果、高い技量を持つに至ったようだ。さらに人望も優れていたようで部下には随分と慕われたらしい。しかしその笹井も1942年8月26日帰らぬ人となった。笹井を撃墜したのは米海軍のエース、マリオンカール中尉であったと言われている。

 戦歴はわずか9ヶ月ほどであるが、その間の撃墜数は、記録上は27機、両親への手紙には54機、戦史研究家が連合軍の戦闘報告書と照合した結果ではラバウル時代のみで5.5機と数字は様々であるが、多撃墜パイロットであることは間違いない(戦史研究家の調査での5.5機は台南空最多である)。

 

 

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