小町定
(画像はwikipediaより転載)

 

 今日、紹介するのは日本海軍航空隊撃墜王小町定である。小町氏は1920年生まれ、操縦練習生49期を修了後、空母翔鶴に配属される。日中戦争には参加しておらず、初陣は真珠湾攻撃であった。基本的に母艦搭乗員は特に優秀な隊員が配属されるという。初の実戦配置が航空母艦であったというのは練習生時代の評価が高かったのだろう。

 

小町定の経歴

 

 小町定は、大正9年石川県に生まれる。昭和13年呉海兵団に入団。半年間訓練を受けたのち戦艦扶桑に配属された。操練49期に採用され霞ヶ浦空、百里ヶ原、昭和15年1月大分空、昭和15年6月大村空配属、昭和15年10月、空母赤城、昭和16年5月空母翔鶴乗組。インド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。

 昭和17年11月大村航空隊教員。昭和18年11月204空に転属、ラバウル航空戦に参加する。昭和18年12月253空に異動する。昭和19年2月253空と共にトラック島に後退。昭和19年6月、253空隊員として「あ」号作戦参加。トラック島から病院船氷川丸で内地に帰還する。昭和19年峰山空教員、昭和20年6月横空。

 

真珠湾攻撃・その後

 小町定は操縦練習生終了後、大村空を経て、当時の新鋭空母翔鶴乗組となる。その後翔鶴戦闘機隊隊員として真珠湾攻撃では機動部隊の上空直掩に参加した。真珠湾攻撃時の上空直掩任務には撃墜216機と言われる岩本徹三、50機撃墜の岡部健二、15〜16機撃墜の原田要、12機撃墜の佐々木原正夫等、何故か後の撃墜王が多数配置されている。

 熟練者を優先的に上空直掩に充てたという話もあるが、小町、佐々木原はこの当時、実戦未経験でありこの説は当たっていないと思う。その後、小町は珊瑚海海戦、南太平洋海戦に参加、小町は俗に損害担当艦といわれた翔鶴乗組だっただけに特に戦闘は辛酸を極めた。小町は翔鶴損傷のため空母瑞鶴に着艦したが乗機が被弾していたため海中に投棄された。

 1942年11月に翔鶴戦闘機隊を離れ、大村航空隊での教員となる。ここには坂井三郎(64機撃墜)、磯崎千利(12機撃墜)、南義美(15機撃墜)、中仮屋国盛(16機)、島川正明(8機)、本田敏秋(5機)等、多数の撃墜王達が教員として配属されていた。

 1943年11月、ラバウルに展開する204空付を命ぜられ、翌12月253空付となる。ここで激烈な航空戦を経験した後、1944年2月、小町を含む253空はトラック島に後退した。1944年6月、「あ」号作戦の一環としてサイパン島攻撃に出撃、グアム島に着陸寸前に米艦載機の奇襲を受け撃墜される。

 数日後、一式陸攻でグアムを脱出、トラック島から病院船氷川丸で日本本土に帰還する。1945年7~8月(恐らく8月)、3月に新設された峯山航空隊教員付となる。そこで美保、三重航空隊で基礎教育を修了した甲飛13期学生の中練教程を行う。1945年6月横須賀航空隊付となり終戦を迎える。戦後は戦犯として逮捕されるという噂から東京に行き、材木商となり、建設業に事業を拡大、都内の貸しビルのオーナーとなった。2012年7月15日老衰により逝去。総撃墜数は同僚によると40機以上と言われるが本人は20機程度だと語る。

 余談であるが、エース列伝には激しい性格の荒武者パイロットとなっているが、小町は教員時代、体罰を一切行わず教え子達からの信頼は絶大なだったようで、当時、小町が所属していた航空隊に教え子達が配属された時も小町の隊に入りたいと教え子同士で喧嘩になったことすらあるという。

 

小町定関係書籍

 

川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』

川崎浹 著
トランスビュー 2003/8/15

 18機撃墜と言われている小町定氏へのインタビュー本であるが、単独インタビュー形式で小町氏の戦中戦後の経験が描かれている。著者の川崎氏は、小町氏の経験を上手に引き出すことに成功している。生前の小町氏にインタビューを元にした川崎氏の著書。当時の搭乗員の気持ちや作戦に参加した際の貴重な記録が満載。この手の本はあまり人気がないのである時に買っておいた方がいい。もちろん私は発売された直後に購入した。

 

神立尚紀『零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡』

 海軍搭乗員の取材に定評のある神立尚紀氏インタビューによる本。小町定へのインタビューもある。内容は主に戦争中の話だ。『日本海軍戦闘機隊』『日本海軍航空隊のエース』にはない人間小町定がここにいる。

 

神立尚紀『証言 零戦 生存率二割の戦場を生き抜いた男たち』

 神立尚紀氏による海軍戦闘機搭乗員へのインタビュー集。小町定へのインタビューは主に戦後について語っている。元軍人は民間で通用する職歴も技術もなく苦労する。騙されたりしながら真心を大切にしてビルオーナーにまでなる。戦後、海軍戦闘機搭乗員の集まりである「零戦搭乗員会」が結成されるが事務所は小町定所有のビルに設置された。

 

まとめ

 

 小町定は太平洋戦争初期から終戦まで戦い抜いた熟練搭乗員だ。小町の出身である操練40期台は太平洋戦争初戦から「新米」として実戦に投入され他のクラス以上の死亡率を記録した。小町は当時の海軍航空隊のエリートである母艦搭乗員から始まり激戦のラバウル、海軍航空の殿堂と言われる横須賀航空隊で終戦を迎える。

 強面の見掛けと異なり、心が優しく部下に対して暴力を振るうこともなかった。故に部下には慕われ列機の位置の取り合いも起こった。戦後、神立氏のインタビューに対しても「ツンデレ」の部分を見せている。このインタビューを読むと小町定がどうして人望を集めたのかが分かる。

 

 

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