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西澤廣義01
(画像はwikipediaより転載)

日本海軍戦闘機隊のエースとは


 西澤は、大正9年長野県に生まれる。昭和9年3月、高等小学校を卒業すると製糸工場に勤める。昭和11年6月、第7期予科練習生として海軍に入隊。昭和13年8月、霞ヶ浦空で飛行練習生、昭和14年3月〜6月まで大分航空隊で延長教育を受ける。昭和14年6月大村空配属。昭和15年12月鈴鹿航空隊に異動。そして昭和16年10月1日千歳空に配属、内南洋ルオット島で太平洋戦争開戦を迎える。


 その後、西澤は千歳空隊員としてラバウルに進出、昭和17年2月10日、第4航空隊に編入される。さらに昭和17年4月1日付の改編で台南空に編入される。ここで笹井醇一、坂井三郎、太田敏夫などと連日の航空戦に参加する。昭和17年11月、台南空の内地帰還命令で他の残存搭乗員と共に内地に帰還する。


 昭和18年5月、再建が完了した251空(台南空が改称)と共に、再びラバウルに進出。9月1日、トベラ基地の253空に異動する。同月草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後、11月1日付で大分空に異動、教官配置となる。同月飛曹長に進級。


 昭和19年3月1日、203空戦闘303飛行隊に異動、部隊と共に厚木、千歳、美幌、幌筵、茂原、鹿児島と移動する。昭和19年10月12日、戦闘303飛行隊がT部隊に編入される。鹿児島から台湾、10月24日には、比島・マバラカットに移動する。


 10月25日、神風特攻隊の直掩隊長として出動。10月26日、乗機を置いて輸送機で帰還する途上ミンドロ島カラ晩上空でF6F2機に襲撃され戦死する。公式資料に残る撃墜数は36機だが、147機、150機、120機、102機、87機とも言われる多撃墜パイロットであった。



 岩本徹三、坂井三郎、武藤金義等、のちに撃墜王と呼ばれたパイロットは大正5年生まれが結構多いが、西沢は大正9年と若干若い。予科練に入ったのは16歳であった。因みに予科練は1930年に始まった航空士官を養成するための制度である。高等小学校卒業以上が応募資格で競争率が高くかなりの難関であった。


 後に中学校4年生以上を対象として甲種予科練という制度が始まったことにより旧来の予科練は乙種予科練と呼ばれた。さらに1940年に従来の操縦練習生課程も予科練に統合され丙種となるのであるが複雑になるのでここでは割愛する。


 甲種予科練制度が始まったのは1937年なので西沢が採用された1936年は厳密にはまだ乙種予科練ではない。それはそうとこの倍率何百倍という超難関を突破した西沢は日中戦争を体験することなく太平洋戦争開戦を迎えた。当初は千歳航空隊に所属し、その後あの台南航空隊に配属された。


 西沢は台南航空隊での勤務が一番長かったようである。他の搭乗員は航空隊を転々としたのに対して西沢は移動は少なかったようだ。それでも千歳航空隊、台南航空隊、253空、203空と転属した。ここで面白いのは、西沢が253空に転属したのは18年9月で、10月には本土に帰還している。これと入れ替わるように岩本徹三が11月にラバウルに着任している。さらに西沢はその後203空戦闘303飛行隊に転属してるが西沢フィリピンで戦死後、岩本徹三もまた戦闘303飛行隊に着任している。


 西沢と岩本はお互いにライバル視していたようで、普段は寡黙で自分の手柄話をしたことがないという西沢であるが(吉田一『サムライ零戦記者』)、フィリピンで岩本と会い空戦談義となった際は饒舌だったという(角田和男『零戦特攻』)。この二人と同じ航空隊に所属し戦争を生き抜いた安倍正治氏は自身の体験の中で西沢と岩本について触れている(安倍正治「忘れざる熱血零戦隊」『私はラバウルの撃墜王だった』、同「私が見た二人の撃墜王《西沢広義と岩本徹三」》『丸12月別冊 撃墜王と空戦』)。


 西沢広義は日本の零戦搭乗員では著名である。戦死したため著書はもちろんないが、西沢広義について最も詳しく書いてあるのは下記の本である。


最強撃墜王―零戦トップエース西澤廣義の生涯

2014年12月25日初稿
2019年6月1日加筆修正。

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