撃墜72機といわれる謎の多い撃墜王である。私が現段階で調べた結果が以下のものだ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 生年月日不明である。大正9年前後生まれ。乙種予科練7期生なので、昭和11年6月予科練7期生として海軍に入隊したと推定される(但し、昭和10年とする資料もあり)。昭和14年3月飛練課程修了。開戦前は美幌航空隊に所属していたようだ。その後千歳航空隊に転属しマーシャル諸島で開戦を迎える。


 台南航空隊に配属されラバウル航空戦に参加、同僚からは「坂井と肩を並べるベテラン」と言われていたようだ。千歳航空隊以来、どうも同期で日本海軍のトップエースの一人である西沢広義と一緒に転属していたようだ。昭和18年12月に253空に転属する。岩本徹三、小町定らと共に連日の戦闘に参加。第一中隊長岩本徹三、第二中隊長福本というような編成もあり253空の基幹搭乗員として活躍していた。川戸正治郎氏の著書『体当たり空戦記』によると福本飛曹長が新人である川戸二飛曹の危機を救ったこともあったようだ。


 昭和19年2月、岩本達253空本隊はトラック島に後退するが福本は残留。この辺の事情は不明だが、これほどのベテランが残留するというのは、病気か負傷のどちらかだろう。同時期にラバウルに残留した零戦搭乗員川戸正治郎氏の回想録によると零戦隊ラバウル撤収時の残留搭乗員はマラリアの重症患者と負傷者の7〜8名だったとあり、この中に福本飛曹長も入っていたのだろう(川戸正治郎「零戦ラバウルに在り」『炎の翼』)。


 残留した福本は、現地で製作された零戦を駆って指揮官として戦った。そして昭和19年4月25日、ラバウル108航空廠で廃機から製作された月光2機を護衛するためラバウルからトラック島に向かう。その後、潜水艦で日本に戻った(『最後のゼロファイター』)。


 日本に戻った日は不明だが、昭和20年2〜3月頃のようだ。昭和20年5月頃から首都防空のエース302空に配属された。5月25、26日の京阪地区防空戦では零夜戦を駆って敵機1機を撃墜したようである(『首都防衛三〇二空』)。その後、302空で終戦を迎えた。昭和20年12月、酒気帯び運転による自動車事故により死亡した(『最後のゼロファイター』)。撃墜72機を自称し、当時の搭乗員の記録にもほとんど登場しないが石川清治氏によれば「フクチャン」の愛称で呼ばれ、にこやかな茶目っ気たっぷりの人柄だったという。




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