ミニマム情報戦記

ブログタイトルは思い付きでちょいちょい変わります。 でもここら辺でタイトル固定かなぁ。。。 銃&ミリタリーがメイン。 最近は軍事書籍の書評が多いみたい・・・。よいと思ったら拍手してね!それだけが心の支え・・・。

2015年02月

ハセガワ 1/48九州 J7W1 局地戦闘機 震電




 これ、昔のプラモなんだよね。だけど未だに人気があるのだ。この18試局戦震電は昭和18年に試作された局地戦闘機だよ〜っということ。これを省略すると18試局戦となるのだ。この震電は太平洋戦争末期に試作機が完成し3回くらいテスト飛行しただけで終戦となってしまったという大変珍しい戦闘機なのだ。


 要するに実戦配備はされておらず、一応空を飛ぶことは出来ましたよ〜という程度のもの。実際、性能面でも速度以外はあまり芳しくなかったようだ。ここらへんの事情は渡辺洋二『異端の空』を読むと面白いよ。詳しく書いてある。震電もすでに伝説になってしまったが、ありのままの震電がこの本には書いてある。


 んで、この震電、製作したのは九州飛行機という激レアな航空機メーカー。練習機を作っていたみたいだけど愛知の零式小型水偵なども製作していたらしい。この超マイナーな飛行機会社九州飛行機が突然作り上げた局地戦闘機がこの震電だったのだ。


 最大の特徴は何といってもこのエンテ式と言われるプロペラが後ろにある奇怪な形。航空力学的なことは分らないがこの構造にすることによって機種に機銃を集中的に配置することが可能となった。高速で機種に火力を集中できるということは局地戦闘機としては大変すぐれた設計なのだ。













 実際の震電の画像があるのはびっくりでしょ?私もびっくりした。しかしこの震電、実戦に参加することなく歴史の表舞台から消えて行ったというより上がってすらいない幻の戦闘機なのだ。実戦配備されていたら・・・。なんていう架空戦記物は山のようにあるが、想像するほど大活躍はしなかっただろうね。性能も今一つだったし、そもそも大量生産出来ないからだめー。


 とまあ、実機の話は置いておいて模型ではその斬新な設計はコレクションとしては絶対に無ければならない。値段も安価である。とりあえず買っておこう。男の義務である。



1/48九州 J7W1 局地戦闘機 震電

商品の説明
旧日本軍が終戦間際に開発した「先尾翼」の試作機を1/48スケールで再現。
(amazonより転載)


 今日は、久しぶりに何となくプラモデルの記事を書いてみたかったので書いてみた。興味があったら買ってみるのもいい。実際に活躍した紫電改や雷電等と並べてみるのも面白いかもしれない。震電を4機作って震電小隊なんて架空の世界に遊んだり。こんなことが出来るのも模型の楽しみだもんね。



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小高登貫『あゝ青春零戦隊』 書評

 また書評。今日紹介するのは小高登貫著『あゝ青春零戦隊』である。この小高登貫とは、意外と知られていないエースなのではないかと思う。坂井三郎のように本を多数執筆していたり、岩本徹三西沢広義のように多撃墜記録を持っていたり、赤松貞明のように自著こそはないがあまりの奇人ぶりで有名になった人でもない。しかし、この小高登貫という人、すごい人なのだ。


 総撃墜数はエース列伝によると12機、本書の冒頭の文章によると共同撃墜含め105機。潜水艦2隻撃沈という類い稀な記録を持つ撃墜王なのだ。昭和18年に202空隊員として実戦初参加、その後ラバウルに派遣されあのラバウル航空戦に参加、トラック島、フィリピンと転戦した後、伝説の航空隊343空、剣部隊に配属される。そこで新鋭機紫電改を駆り終戦まで戦い抜いた。詳しい経歴については別に書いたのでそちらを見てもらいたい。


 小高氏含め同期13名は202空に配属される。一旦は母艦戦闘機隊に配属が決まっていたために落胆するのだが、この202空こそは連合国軍からは「まぼろし部隊」と言われ恐れられていた202空なのだ(部隊番号がXだったから)。そこで連日の戦闘に参加する。この中で当時のチモール島の風俗についても書いてあるので面白い(エッチな方ではない)。慰問団として森光子が来たり等、知らない人には結構ビックリしちゃうエピソードなどもある。


 その後ラバウルに派遣されるのだが、おたく的に面白いのは小高氏の機体にも撃墜マークが付いていたという。岩本徹三著『零戦撃墜王』にはピンクの撃墜マークが付いていたというのは有名であるが、小高氏の機体には黄色い撃墜マークが付いていたようである。部隊によってマークを統一していたのか否か等考えると面白い。撃墜マークは当然、公認されたものではないが、現地部隊では戦意高揚のために書いていたのだろう。



 本書で興味深いのはフィリピン時代に「かたき討ち作戦」と称される作戦に参加したことだろう。小高氏は命令により何も知らずに「わが軍の重要人物を捕まえているはずだ。早く戻せ」というようなことを書いたビラを撒き、その後、銃爆撃をしていることだろう。当時は意味も解らずやっていたが、戦後、古賀峯一長官が遭難した「海軍乙事件」であったことを知る。近代史研究の上でも価値のある記述だ。


 小高氏はそのフィリピンで特攻隊に志願するが、小高氏はみんな心から志願したという。これも当時の搭乗員個々人によって意見が異なっている。これらを比べてみるのも面白い。さらに世間では特攻隊の第一号は関行男大尉の敷島隊であることになっているが、実は4日前に最初の特攻隊が出撃していることなども興味深い。


 戦後はオートバイの売上日本一になったりと何でも一生懸命やる性格だったようだ。現在(2015年)生きていれば92歳となるはずであるが、残念ながら1992年3月に他界している。内容はかなり面白いのでおすすめだ。



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マルシン モデルガン M9 ドルフィン

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 今日は、久々のモデルガンの記事だ。今日は、私が前々から気になっていたモデルガン、ドルフィン。このマルシンのベレッタ自体は前々から気になっていたというよりすでに90年代前半に発売されて以来、ずっと気になっていたのだ。ではどうして買わなかったのかというと、私はすでに当時先行して発売されていたMGCのモデルガンベレッタM9を買ってしまったからだからだ。


 んで、遅れてマルシンのモデルガンが登場したんだったと思う。ほとんど僅差だったかなぁ。その結果、マルシン製ベレッタを私が手にすることはなくなってしまったのだった。しかしまあ、歴史の皮肉というか、皮肉でも何でもないんだけどMGCはすでにこの世に無く、マルシンのベレッタのみが現在販売されている。


 しかもマルシンはベレッタM92Fだけでなく、バリエーション展開もしているのだ。その中で私が一番興味があるのが今日紹介するベレッタM9ドルフィンなのだ。


 このドルフィンとは、言わずと知れたベレッタのフルオートモデル。しかしベレッタというのは元々スライドが弱い。これは見れば分るようにガバメントやシグ、グロック等のスライドはエジェクションポートの穴が空いているのみなのに対してベレッタは上がバックリと空いてしまっている。これで強度があるはずもない。強度よりデザインを優先してしまったのかな?・・・と思ってしまうくらいの大胆な設計だった。


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 私はメッキにはちょっとうるさいのだ。もちろんオタクとしてのうるささなので専門的な知識は一切ない。これについては断言できる!このメッキにうるさい私が好きなのがこのマルシンのメッキなのだ。この画像を見てもらいたい。ホント綺麗でしょ?これがマルシンのメッキ技術なのだ。

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 マルシンというと今ではすっかりと面白トイガンメーカーという印象を持たれてしまっているが(私の中では)、マルシンといえばモデルガンメーカーの老舗。やはり技術はすごいのだ。この画像なんて完全にトリガーガード内側のパーティングラインまで取っ手しまっている。


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 この画像なんてもう金属の造形美って言っても良いくらいだ。これだから私はマルシンのメッキが好きなのだ。まあ、外観のことだけ書いても仕方ないので今度は作動についてみてみよう。作動についてはyoutubeに動画がいっぱいあったのでこれを観てみよう。













 やはりこの迫力はどんなに良く出来たガスブロにも出せない。ホントに火薬を使っていることで初めて出る迫力だよね。動画で観るとこの迫力が良く伝わってくる。作動は個体差がなく全体的にかなり良いらしい。さすがに何十年もモデルガンを作っているだけのことはありそうだ。



マルシン【モデルガン】 モデルガン完成 US M9 ドルフィン シルバーABS U.S.N.9mmM9
商品の説明
特異な形状のスライドを持つM9ドルフィン。 ●シルバーABS完成品は、眩いシルバー色メッキを施しました。 ■使用火薬:7mmプラグファイアーキャップ火薬(別売り) ■装弾数:15発 ■全長:217mm ■重量:630g ■付属品:発火カートリッジ5発、火薬用ローダー、Oリング、レンチ、説明書 ※モデルガンですのでBB弾等の発射は出来ません
(amazonより転載)


 現在でもモデルガンを作っている数少ない会社の一つであり、パーツや消耗品類もかなり豊富に手に入る希少なメーカーの一つである。その上、本体が安価であることもありがたい。カートも15発で3000円と良識的な値段設定だ。モデルガンではカートは1発200円前後というのは普通だからね。10000円もあれば十分なカートをそろえることが出来る。スペアマガジン2本とカート50発。男の基本スタイルだ。



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日本海軍航空隊 撃墜王 菊池哲生

 艦隊戦闘機隊の名物男、「オール先任搭乗員」こと菊池哲生である。総撃墜数は20機以上であったといわれる操練39期のベテランパイロットであった。岩本徹三、坂井三郎と同じ大正5年生まれでかなり広い「車幅」の体型であったようだ。今回はこの「オール先任搭乗員」について書いてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正5年岩手県に生まれ、昭和9年海軍に入団、当初整備兵になったが、13年1月39期操練を卒業、戦闘機操縦者に転じた。翌年5月14空に配属され、南支戦線に出動したが、空戦の機会はなく、14年4月霞ケ浦空の教員に帰り、谷田部空を経て、16年9月1飛曹に進級して赤城乗組を命じられ、ハワイ作戦に参加したが、母艦上空の哨戒にとどまった。ついで17年4月インド洋作戦に参加5日のコロンボ攻撃では、指揮官板谷少佐の2番機として迎撃してきた英空軍の戦闘機と激烈な空戦を交え、初空戦ながら単機で敵5機(うち不確実2)を撃墜した。

 さらに6月のミッドウェー作戦に出動、白根大尉の2番機として第1次攻撃隊制空隊に加わり、ミ島上空の空戦で4機(うち不確実2)を撃墜して帰投後、母艦上空の直営任務に当たり、来襲してきた米攻撃隊と交戦、協同で敵3機を葬った。母艦赤城が沈没したため飛龍に収容されたが、飛龍も午後の空襲で炎上、艦内に閉じ込められたが、結局脱出して救助され本土へ帰還後、翔鶴乗組に転じた。

 8月ガ島攻防戦の開始により、南東方面へ出動、第2次ソロモン海戦参加後、8月末から1週間ブカ島に派遣され、数次のガ島進攻に出撃した。
11月上飛曹に進級、築城空の教員に移ったが18年9月再び母艦勤務に復帰、龍鳳、飛鷹、隼鷹を転々し、この間12月末から1週間カビエン基地へ派遣されたが、19年1月25日にはラバウルへ進出、2月19日引きあげるまで連日の迎撃戦に健闘した。

 3月652空付(龍鳳)に転じ、6月「あ」号作戦に出撃、19日第2次攻撃隊制空隊の小隊長として敵空母群攻撃に向かったが、敵を発見しえず、グアム島に着陸直前、敵戦闘機に攻撃され、身をもって艦爆隊をかばった零戦隊は不利な態勢から反撃しつつ次々と撃墜され、悲壮な最期を遂げた。

 菊池上飛曹も敵2機を撃墜後、力つきて自爆した。菊池は体重20数貫、機体に乗り込む時は整備兵の手助けが必要な肥満体の持ち主であったが、空中の操作はきわめて軽快で、その巧妙な空戦技術には定評があった。性格は豪快、母艦戦闘機隊下士官の「ぬし」を自認し、熱心にその教育に当たり、准士官(飛曹長)昇進の内示があっても辞退し続けた名物男であった。公認記録は赤城時代の12機(うち協同及び不確実7)しか残っていないが、総計では20機前後に達するものと推定される。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 経歴は上記の通りである。経歴のほとんどを母艦戦闘機隊員として過ごした搭乗員であった。残念ながらマリアナ沖海戦で戦死してしまったが、相当有名だったようだ。本人には当然自著は無いが、本田稔氏が練習生時代にこの菊池上飛曹の指導を受けており、本田氏の経験を書いた井上和彦『最後のゼロファイター』にその時の印象が詳しく書いてある。


 菊池上飛曹は有名な鬼教官であり、その名は霞ヶ浦にまで轟いていたという。教育方針は基本は教えるがあとは自分流の操縦を編み出せというものであった。この教育を受けた本田稔練習生は、後に17機を撃墜するエースとなる。


 因みに冒頭に書いた「オール先任搭乗員」とは何かというと、この菊池上飛曹、士官への昇進を拒み続けたという変わり物だったのだ。理由は白浜芳次郎『最後の零戦』にこうある。日本海軍は下士官が強い。強い下士官を育てるためには下士官でいる方がいい。士官となってしまっては距離が遠くなり兵達の指導をすることができない。そして「俺は准太郎になるほどの馬鹿じゃない」という。


 この「准太郎」とは准士官の事で海軍航空隊では飛曹長の階級が相当する。因みに下士官から士官になった者は「○○特務少尉」などのように階級の前に「特務」という呼称が付く。海軍では准士官、特務士官を通称「特准」と呼ぶ。この特准に関して、海軍のトップエース岩本徹三は「士官にもできない、下士官にもできないことをするのが我々特准なんだ。頑張ろうぜ」と特准に誇りを持っており(角田和男『修羅の翼』)、様々な考え方があって面白い。


 菊池上飛曹の最後は白浜飛曹長が伝え聞いたところによると、菊池上飛曹は空戦の末、敵機2機を撃墜したものの燃料切れとなり降下中に敵機に撃墜されたという(白浜芳次郎『最後の零戦』)。壮烈な最後であった。



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神立尚紀 大島隆之『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』 書評



 今日は書評。最近書評が多いねぇー。これは私の気分だから仕方が無いのだ。今日紹介するのは珍しく最近発売された本、2013年末にテレビ放映されたものを本にしたもののようだ。どっちが先かは分からない。本書は零戦を中心に初登場の日中戦争から太平洋戦争終戦までを概ね時系列で追ったものだ。


 取材を始めたのは2007年というからその当時はまだ零戦の関係者も多かっただろう。撃墜王では角田和男氏、田中国義氏、大原亮治氏、原田要氏などがインタビューに答えている。これは「零戦の会」の協力があって初めて可能になったものだろう。


 著者はNHKディレクターの大島隆之氏と零戦の会会長の神立尚紀氏である。神立氏の著書はよく読ませて頂いているがここに大島隆之氏が共著者として加わるとまた違った視点になるのが面白い。


 「(零戦は)まあ風船玉みたいな飛行機だなと思ったですね。こんなので戦争させたのかと思って。」(本田稔氏)

 「もう本当の消耗品じゃよ、パイロットは。参謀連中はのんきなことを言って、今じゃのう高々と恩給もらって、下の者は戦争させられて。ソロモンは墓場じゃったとよ。」(一木利之)


 本田氏、一木氏共に生き残りのベテラン搭乗員である。本書の特徴は証言を重視しており、とかく戦争を美化しないことだろう。戦争末期になり特攻隊が編成される部分になるとその特徴がさらに明確になる。その後、玉音放送、終戦となる訳だが、私が特に面白いと感じたのは、玉音放送を聴いた隊員達を見た者の証言である。


 「そのときのみんなの表情がね、頬がゆるんでピクピクしてるんですよ。それを出さないように我慢している姿がね。戦争に負けて理屈では悔しいんだけど、死なずにすんだという喜びがどんどん湧いてくる。みんな悔しいふりはしていますよ。デマ宣伝にだまされるな!そうだそうだ!戦闘続行!なんて言いながら、頬がゆるんでいる。体がよじれるような喜びが内から湧いてくる。戦争に負けたこととこれとは、とりあえず別ですよ」


 もちろんこれは証言者の杉田貞雄氏の見た光景であって、全ての隊員がこのような状態ではなかったかもしれない。しかしこの言葉に戦争のリアルを見てしまうのだ。この言葉を収録できたことだけで本書には価値があると思う。



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日本海軍航空隊 撃墜王 川戸正治郎

 恐らく海軍のエースの中では最も訓練不足の状態で戦闘に参加した搭乗員であろう。川戸氏は多分、御健在。大正15年生まれで2015年現在89歳となられているはずである。丙飛12期といえば太平洋戦争中のパイロット大量育成の真っ最中のクラスだ。恐らく訓練は相当なやっつけだったと推定される。今日は、不満足な訓練を受けた上でいきなり実戦に投入されたにも関わらずエースとなった川戸上飛曹について書いてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 体当たり3回、被撃墜2回、落下傘降下4回という希な記録を持つ勇者として著名である。
 大正15年京都府の農家に生まれ、昭和17年5月舞鶴海兵団に入り、丙12期予科練、28期飛練を経て、18年7月卒業、9月末輸送機で40数名の補充員とともにトラックへ送られ、零戦を受領して、10月10日ラバウルで激戦中の253空に赴任した。

 時に若干18歳になったばかりの1等飛行兵で、飛行時間も300時間を少し超えた程度にすぎず、幹部から「お前のような子供に戦争ができるだろうか」と笑われたが、たちまち向こうみずの敢闘精神を発揮してラバウル戦闘機隊に勇名を馳せた。最初の体当たりは、11月2日のラバウル迎撃戦で、B−25編隊と正面から撃ち合って発火した1機の下方に離脱をはかって衝突、落下傘降下着水して救助されたが、微傷も負わなかった。

 第2回目は11日の迎撃戦で、湾内の味方艦艇を攻撃中の敵艦爆を撃墜した直後に、後方から敵戦闘機に奇襲され、被弾炎上、高度150mから落下傘降下着水した救助されたが、火傷と左脚負傷で約1か月空戦を休んだ。ついで12月17日P−39と正面反航で撃ち合ってかわしきれず衝突、相手機の操縦士とともに落下傘降下着水して高速艇に救助されたが、負傷を介せず、翌日の空戦には出撃している。

 その後B−24の尾翼体当たりを計画、機会をねらっていたが、19年2月6日ラバウル上空で決行、落下傘降下に成功し6ヵ所に負傷したが、着水救助された。2月20日在ラバウルの戦闘機隊はほとんど全機トラックへ後退したが、川戸上等飛行兵は少数の僚機とともに残留、廃材を組み立てた零戦により、ゲリラ的な迎撃戦、グリーン島、アドミラルティの偵察、攻撃等に活躍、この間253空の解隊により、7月以降105航空基地隊付となった。

 20年3月9日夕方、川戸2飛曹は複座零戦(清水2飛曹同乗)に搭乗してB−25追撃に出たまま行方不明となり、戦死と認定されたが、実際は敵駆逐艦を発見、攻撃中に対空砲火で被弾、海中に突入、重傷を負って海岸にたどりつき、ジャングルで一人生活中、豪州軍捕虜となり、12月レイテ収容所から帰還した。総撃墜数18機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 上記の体当たりの内、昭和19年2月6日のB-24への体当たりに関しては、岩本徹三の記録に「何中隊の何番機か、味方の一機は、あまり急角度で攻撃をかけたので、そのまま敵機の主翼にぶつかり、瞬時に空中分解してジャングルの中に散っていった。」(岩本徹三『零戦撃墜王』)との記載があり、日付が異なっているが梅本氏はこの「味方の一機」を川戸機と推測している(梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』3)。



 それはそれとして、今回は何と、川戸上飛曹のインタビューがyoutubeに上がっているのを発見したのだ。早速、その超貴重な映像、観てみよう。





 略歴はエース列伝にある通りである。川戸上飛曹はいわゆる「川戸問題」で戦史ファンには有名だと思う。この「川戸問題」とは何かというと、アメリカ海兵隊の撃墜28機のエース、ボイントンを撃墜したのは川戸上飛曹か否かということで日米双方の関係者、研究者の間で大騒ぎとなった論争であった。


 細かいことは秦郁彦『第二次大戦航空史話』〈下〉に詳しいがここでは触れない。この川戸上飛曹、秦氏の本によるとアメリカではかなりネガティブな印象を持たれているようだ。因みに神立氏のブログでもこの問題と思われる問題に触れているが、どうも予科練の後輩の一人がネガティブな情報を広めたもののようだ(写真家・ノンフィクション作家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ)。


 因みに秦氏の本にある元零戦搭乗員が川戸上飛曹の悪口(?)を言っていたというのもその後輩の一人の仕業だという。この川戸上飛曹、誤解を受けやすい性格であるが、元ベテランパイロット曰く、腕は良く、男の中の男だそうだ。


 余談になるが、この川戸上飛曹が撃墜したとされるボイントンも『海兵隊コルセア空戦記』という自伝を上梓している。零戦隊と戦った側の記録として価値がある。ボイントン大佐は撃墜され日本軍の捕虜となるが、その時の日本人を「戦場から遠くなるほど攻撃的」というように観察している。


 川戸上飛曹は上記の通り捕虜となり戦後は無事に帰国することができた。戦後は太平洋無着陸横断を成し遂げる等、面白い人生である。川戸氏の自著としては『体当たり空戦記』(異常なプレミアが付いているから買っちゃダメ)、「零戦ラバウルに在り」『太平洋戦争ドキュメンタリー』〈第3巻〉炎の翼 (1968年)「私が経験した”真昼の決闘”」『伝承 零戦』〈第2巻〉等がある。総撃墜数は18機とエース列伝にはあるが、本人によると19機のようだ。



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梅本弘『海軍零戦隊撃墜戦記』1〜3 書評






 今日は私が零戦パイロットオタクから一時期手を引いていた時に「しれーっ」と発売されていたのが本書。まあ、「しれーっ」ととは私の勝手な印象なのだが。これ、私が昔やろうとしていたことなんだよね。戦闘行動報告書を調べて撃墜数を知る。さらに彼我の戦闘報告書を調べて実際の空戦を再現すること。


 なぜやらなかったのかというとこれは大変な労力が必要なのだ。私がやろうとしていた当時、1995年前後は、まだインターネットはほとんど普及しておらず、戦闘行動報告書を調べるには防衛庁の戦史編纂室?に行かなければならなかったのだ。ということでこの計画は私の完全な妄想で終わってしまって月日は流れ・・・。


 ふとネットを見てみると(現在、もう電脳社会になっている)、すごい労力をかけやった人がいる。それが著者梅本弘氏だった。本書にも書いてあるが彼我の戦闘報告書を調べるのはもちろん(当然、外国のものは外国語)、日本を含めた参加国の人が書いた戦記を読破した挙句に執筆したのが本書なのだ。労力はハンパじゃない。


 その結果、彼我の戦闘の実態が「ある程度」判明した。「ある程度」とは彼我の報告書を突き合わせても分らないことも多いのだ。今では良く知られていることだが、日米双方ともに戦果を過大評価している。結構、衝撃的だったのは私の憧れのヒーロー、岩本徹三のラバウル航空戦での戦闘行動報告書に記載されている撃墜数は何と20機であった。


 その20機すらも過大に報告された戦果である可能性は否めない。岩本徹三は自著でラバウル航空戦での自身の撃墜数を142機と主張しているが実際は・・・。日中戦争での撃墜14機というのも異論があるようだし、実際のスコアは多くて30〜40機程度だろうなぁ、等と思ってしまうのだ。


 これに対して15機撃墜のエース仲道渉の撃墜戦果はほとんどの場合、相手国の報告書で確認できるという。仲道渉は丙飛4期出身で当時はまだ若年搭乗員であった。必ずしもベテランの撃墜戦果が確実で若手の戦果が誤認であるとは言えないということも本書から分るのだ。


 値段的にちょっと勇気がいるが戦史が好きな人だったら絶対に勝っておくべきだろう。いずれ絶版になるだろうから・・・。


アマゾン紹介文
出版社からのコメント
 「海軍の搭乗員たちは魔法にかかってたんですね。零戦は無敵であるっていう。 中略 梅本さんがドキドキしながら零戦の撃墜戦果を1機1機調べて、死神の勘定書みたいなことをして、結果が損害151機対205機で。

 なんとか勝っていたことが照明できてホッとしたって書いてるけど、でも実際、零戦はよく戦ってたんだなってことがわかりましたね」 (巻末 宮崎駿(映画監督)×梅本弘 対談より)

内容(「BOOK」データベースより)
 南太平洋、ソロモンの空戦では数多くの零戦が失われた。しかし海軍零戦隊は損害の数倍もの撃墜戦果を報告している。だが交戦した米海軍、海兵隊、陸軍、オーストラリア空軍、ニュージーランド空軍、蘭印空軍も同様に自分たちの損害よりはるかに多い戦果を報告している。

 本書では、この矛盾する両者の戦果と損害の記録をひとつひとつすべて照合。誤認戦果報告によって膨れ上がっていた零戦の虚像の勝利を限界まで削り込み、真実の撃墜戦果を見つけ出した。
(amazonより転載)


カスタマーレビュー
 これはすごい。1943年前半期における零戦隊と連合軍航空部隊との戦いを克明に記載した著作である。
本書の凄い所は、両陣営の戦果と損失を実際の数値から割り出している所。戦史をかじった人には自明であるが、両軍が発表する「撃墜戦果」は実際の戦果から大きく乖離している場合が多い。
(もりつち)

 多くの場合は実際の戦果よりも誇大になりがちで、5〜10倍というのも珍しくない。これが所謂「零戦無敵神話」の原因なのであるが、本書では可能な限り両軍の「損害」報告に基づいた「正しいと思われる」数値で戦果を割り出している。
(もりつち)

 昔の戦記ものなどでは、無敵ゼロ戦として子供心にすごい戦闘機が日本にあったんだと教えられました。しかし、本当の戦果がいろいろなデータから明らかになった時、日本にしても連合軍にしてもトータルとして過大な戦果を互いに戦時中にしていたことをこの本により白日のもとになった。やはりそうだったのかと納得する自分が一抹の寂しさを感じてしまう本です。
(ノーカスタム)

 手間のかかる調査だったことが想像できる労作です。
日本では、いままでないテーマでそういう意味でも価値があると思います。
しかし、最大の欠点は文章が読みにくいところです。
(ウリの山)


 難を上げれば、ボリュームの割に値段が高いこと。文字数が少ないので2時間ほどで読み終えることができる。その割に約3000円というのは割高感がある。
いずれにしても資料性の高い作品なので、値段の事には目を瞑り、続編に期待したい。
(もりつち)

 ラバウルで岩本徹三さんは自著?で200機以上の撃墜を主張しています。204空とか253空の記録が20機程度しかないということにショックを受けてしまいました。でも、それはそれとして、岩本飛曹長の話が色褪せる訳でもなく、また、戦後裁判で2機撃墜(実際は0?)を勝ち取ったボイントン氏の話が色褪せるわけでもない。冷静なデータ照合がこの本の良さだと思います。また、零戦は52型が最高という結論に一人満足しています。
(ノーカスタム)



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神立尚紀『零戦の20世紀』 書評



 今日はマニアックな本の書評。神立尚紀『零戦の20世紀』。本書は1997年、私が零戦のパイロットおたく最盛期に出版された本だ。零戦のパイロットにインタビューをしてくれたことと私以外にも零戦のパイロット好きがいたということに感激したという思い出がある。


 本書が上梓されたのは今から20年近く前で、現在では鬼籍に入ってしまっている方々のインタビューも収録した非常に貴重なものである。本書でインタビューに答えている方は、青木與氏、生田乃木次氏、鈴木實氏、進藤三郎氏、羽切松雄氏、原田要氏、角田和男氏、岩井勉氏、小町定氏、大原亮治氏である。さらにあとがきに代えてを志賀淑雄氏が執筆している。


 これらの内、現在(2015年)でも御健在なのは原田要氏、大原亮治氏のみとなってしまった。羽切氏は本書が上梓される前に他界されており、恐らく最後のインタビューだろう。本書でインタビューを受けている方々について簡単に触れておこう。まず、青木與氏は操練9期、中島飛行機でテストパイロットをやっていたベテラン中のベテラン、生田氏は日本で初めて敵機を撃墜したパイロット、鈴木、進藤、志賀氏は言わずと知れた戦闘機隊の名指揮官、その他は名だたるエース達である。


 内容は神立氏の人柄なのだろうか、青木氏が裏口入隊であったことやテストパイロット時代に工場長に「お前は働いているのか遊んでいるのかどっちだ」と言われ、「どっちかわからんほど楽しくやってりゃいいじゃないか」と答え、半田工場に飛ばされたことや、生田氏が当時アイドルだった森光子からラブレターをもらった等、かなり面白いエピソードを語っている。


 もうすでに絶版になって久しいが内容は面白く貴重なものだ。本ブログでも参考にしているエース列伝とは異なった撃墜数を本人が語っている(たぶん)こと等、興味がある方は絶対に購入することをお勧めする。2015年2月現在だと中古品が送料を含めて本書の定価程度の値段で販売されている。



零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡 (スコラスペシャル―ミリタリーシリーズ (40))



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日本海軍エース一覧表

日本海軍戦闘機隊のエースとは

氏名撃墜数出身期命日著書等
岩本徹三216機操練34期1955年05月20日『零戦撃墜王』
西沢広義87機乙7期1944年10月26日『最強撃墜王』
福本繁夫72機乙7期1945年12月**日
杉田庄一70機丙3期1945年04月15日
坂井三郎64機操練38期2000年09月22日『大空のサムライ』
奥村武雄54機操練42期1943年09月22日
大原亮治48機丙4期
太田敏夫34機操練46期1942年10月21日
杉野計雄32機丙3期1999年08月**日
石井静夫29機操練50期1943年10月24日
武藤金義28機操練32期1945年07月24日
赤松貞明27機操練17期1980年02月22日
笹井醇一27機海兵67期1942年08月26日
菅野 直25機海兵70期1945年08月01日
荻谷信男24機操練48期1944年02月13日
伊藤 清23機丙2期2012年07月04日
岩井 勉22機乙6期2004年04月17日
日高義巳20機操練48期1943年06月07日
菊池哲生20機操練39期1944年06月19日
宮運 一20機甲4期1942年07月20日
杉尾茂雄20機乙5期
丹 幸久20機甲4期1942年04月07日
長野喜一19機操練56期1944年11月06日
岡野 博19機操練54期
羽藤一志19機乙9期1942年09月13日
川戸正治郎18機丙12期
谷水竹雄18機丙3期2008年03月12日
小町 定18機操練49期2012年07月15日
斎藤三朗18機操練44期
松場秋夫18機操練26期
中瀬正幸18機乙5期1942年02月09日
増山正男17機操練49期
大木芳男17機操練37期1943年06月16日
田中国義17機操練31期2011年05月25日
本田 稔17機甲5期
上平啓州17機甲1期
加藤邦逵16機丙10期
中谷芳市16機丙2期
渡辺秀夫16機丙2期2002年06月03日
甲木清美16機操練56期
松永英徳16機
志賀正美16機操練50期
中島文吉16機操練33期1943年10月06日
高塚寅一16機操練22期1942年09月13日
石原 進16機甲3期
宮野善次郎16機海兵65期1943年06月16日
中仮屋国盛16機乙8期
渋川 茂15機丙6期
仲道 渉15機丙4期
岡部健二15機操練38期
南 義美15機操練30期1944年11月25日
羽切松雄15機操練28期1997年01月15日
周防元成15機海兵62期
田中民穂15機乙11期
吉野 俐15機乙5期1942年06月09日
小八重幸太郎15機丙7期
尾関行治14機操練32期1944年10月15日
山崎市郎平14機操練54期1943年07月04日
谷口正夫14機操練51期
吉田綱素14機操練44期1942年08月07日
高橋健一14機乙13期
遠藤桝秋14機乙9期1943年06月07日
柴垣 博13機丙12期1944年01月22日
宮崎 勇13機丙2期2012年04月10日
大森茂高13機操練33期1942年10月26日
松村百人13機操練29期1944年10月25日
近藤政市13機操練27期2007年05月12日
山本 旭13機操練24期1944年11月24日
半田亘理13機操練19期
古賀清登13機操練16期1938年09月16日
黒岩利男13機操練13期1944年08月26日
酒井 等13機甲9期
前田英夫13機甲1期1944年02月17日
山下佐平13機乙5期1943年02月09日
角田和男13機乙5期2013年02月14日
宮崎儀太郎13機乙4期1942年06月01日
小泉藤一13機乙2期1944年01月27日
清水 清12機丙7期1944年01月26日
吉村啓作12機操練56期1942年10月25日
金丸健男12機操練44期
樫村寛一12機操練24期1943年03月06日
磯崎千利12機操練19期
佐々木原正夫12機甲4期2005年**月**日
山口定夫12機海兵67期1944年07月04日
小高登貫12機丙10期
市岡又夫11機丙12期1944年04月19日
関谷喜芳11機丙2期1944年06月24日
山本留蔵11機丙2期1944年06月24日
河西春男11機操練56期1942年05月02日
白浜芳次郎11機操練56期
山本一郎11機操練50期1944年06月19日
国分武一11機操練49期1942年09月02日
小平好直11機操練43期
安井孝三郎11機操練40期1944年06月19日
日高初男11機操練24期
輪島由雄11機操練18期1944年02月23日
山下小四郎11機操練17期1944年03月30日
福田澄夫11機海兵69期1944年10月24日
藤田怡与蔵11機海兵66期2006年12月01日
堀 光雄11機乙10期
大石芳男11機乙9期1945年05月04日
橋口嘉郎10機操練42期1944年10月25日
原田敏堯10機操練41期
北畑三郎10機操練21期1943年01月23日
吉田勝義10機甲6期
小林保平10機海兵67期1944年10月25日
重松康弘10機海兵66期1944年07月08日
上原定夫10機乙9期
石井 勇10機丙10期1945年05月11日
服部一夫10機丙10期1944年03月30日
黒沢清一10機丙3期1943年08月06日
阪野高雄10機操練53期1943年10月07日
阿武富太10機操練47期
田中二郎10機操練39期1942年12月10日
笠井智一10機甲10期
高橋 茂10機甲5期
長浜芳和10機甲2期1943年09月06日
相生高秀10機海兵59期
柴山積善10機乙13期
田中信策10機乙12期1944年09月12日
阿部健市10機乙9期
杉山輝雄10機乙7期1944年02月04日
坂野隆雄10機丙3期1944年06月24日
森 貢9機操練14期
吉沢徳重9機丙7期1945年01月09日
石田貞吾9機丙6期1945年04月16日
中村佳雄9機丙3期2012年**月**日
神田佐治9機丙2期1943年06月16日
本多敏秋9機操練49期1942年05月13日
山中忠男9機操練44期
森鳰英雄9機操練41期
原田 要9機操練35期
末田利行9機操練32期1943年10月06日
岡本重造9機操練31期1942年10月11日
鈴木清延9機操練28期1942年10月26日
福井義男9機操練26期
小田喜一9機操練18期1944年12月10日
望月 勇9機操練9期1944年02月06日
白川俊久9機甲6期1943年09月22日
松木 進9機甲4期1942年09月13日
和泉秀雄9機甲3期1942年04月30日
松田二郎9機甲1期
白根斐夫9機海兵64期1944年11月24日
東山市郎9機乙2期1944年07月08日
中沢政一8機丙4期1943年07月16日
工藤重敏8機操練53期
矢野 茂8機操練44期1942年04月17日
真柄侾一8機操練28期1942年09月13日
佐藤仁志8機操練26期1943年11月11日
小野 了8機操練23期
江馬友一8機操練22期1944年10月29日
重見勝馬8機操練20期1943年02月04日
後藤庫一8機甲6期1943年09月09日
鈴木 博8機甲5期1944年10月13日
岩城芳雄8機甲2期1942年08月24日
大野竹好8機海兵68期1943年06月30日
飯塚雅夫8機海兵66期1944年10月15日
兼子 正8機海兵60期1942年11月14日
南郷茂章8機海兵55期1938年07月18日
高岩 薫8機乙13期1944年02月10日
森浦東洋男8機乙9期1942年10月25日
村中一夫8機乙6期
徳地良尚8機乙6期1944年06月19日
遠藤幸男8機乙1期1945年01月14日
中川健二8機海兵67期1944年11月03日
柳谷謙治8機丙3期
虎熊 正7機操練20期1943年04月16日
蝶野仁郎7機操練15期1941年02月21日
菅原正夫7機乙15期
工藤 修7機乙2期1942年03月03日
中納勝次郎7機操練37期1945年05月04日
鴛淵 孝6機海兵68期1945年07月24日
横山 保6機海兵59期
倉本十三6機乙15期
宮部員規6機乙2期1943年11月03日
米川正吉6機操練56期
佐々木芳包6機甲1期1942年09月26日
志賀淑雄(四元)6機海兵62期2005年02月25日
黒鳥四郎6機
林 作次6機
中 芳光5機丙4期
島川正明5機操練53期
徳重宣男5機操練42期1942年08月17日
河村一郎5機操練41期
加藤勝衛5機甲9期1945年04月16日
香取頴男5機海兵70期
石川清治5機操練48期
柿本円次5機操練47期1942年08月27日
満田昌弘5機甲11期
辻野上豊光5機甲5期1943年07月01日
有田義助5機甲3期1942年05月01日
竹中義彦5機甲1期1944年06月19日
森岡 寛5機海兵70期
林 喜重5機海兵69期1945年04月21日



 以上は日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝日本海軍航空隊のエース1937‐1945 (オスプレイ・ミリタリー・シリーズ―世界の戦闘機エース)を元に加筆。



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日本海軍航空隊 撃墜王 渡辺秀夫

 自著は無いが有名な撃墜王であり、戦中派エースの代表的な存在である。総撃墜数はエース列伝によると16機、本人によると共同撃墜含め48機だそうだ(『零戦最後の証言 2』)。手記等の寄稿もあまり見られない。現在私が確認できるのは「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉『零戦最後の証言 2』のインタビューくらいであろうか。まずは渡辺秀夫飛曹長の経歴を簡単にみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正9年福島県の農家に生まれ、昭和12年海軍に入団、開戦直前の16年11月丙2期飛練を卒業、翌年3月千歳空に配属され内南洋の防空任務についたが、18年3月204空に転じ、ラバウル、ブインに進出、激烈なソロモンの空戦に参加した。

6月16日宮野飛行隊長が戦死したのちは、士官、准士官パイロットがほとんどいない状態になったので、弱冠23才の渡辺上飛曹が中隊長代理、ときには大隊長代理として204空戦闘隊を指揮した。

 8月26日午後、戦爆連合のブイン来襲を単機で迎撃して、B−24を1機撃墜した後グラマンF4F1機を撃墜した瞬間、後方より被弾右眼球貫通、前頭骨折の重傷を負ったが、海面直上で立て直し、やっと着陸したのち失神、そのまま入院した。

 この奮戦に対し、ラバウル海軍病院で草鹿南東方面艦隊長官から「武功抜群」と記された軍刀を授与された。その後本土へ送還されたが、終戦まで再起できないままに終わった。撃墜数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 渡辺氏は丙種予科練2期。多くの撃墜王が排出したのと同時に多くが戦場で散って行ったクラスである。同期には宮崎勇等がいる。渡辺飛曹長は多くの撃墜王がそうであるようにラバウルに派遣された。そこで連日の空戦に参加することとなる。8月26日の空戦では負傷し、意識を失いながらも不屈の闘志をもって基地上空まで帰投した。この壮烈な戦闘と不屈の闘志に対し南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は”武功抜群”と墨書した軍刀一振を授与し、その栄誉をたたえられた。ここら辺の経過は「殊勲の零戦/ブイン上空迎撃記」『伝承 零戦』〈第2巻〉に詳しい。負傷後はさすがに戦闘機での出撃はなかったようだ。空輸部隊に配属されるがそこでも操縦桿を握ることはなく終戦を迎えた。戦後は村役場、市役所で定年まで勤め上げた。


 『零戦最後の証言 2』のインタビューにおいて戦争中のことをこのように語っている。

「海軍は自分が好きで行ったところですから、居心地はいいと思っていました。悪い思い出はないですね。昔の上官の恨み節や悪口ばかり言う人がいますが、私はそんなにいやな人間にはぶつからなかったし、ああいう人間にはなりたくないと思います。」
(『零戦最後の証言 2』より一部転載)

 と語っている。私の推測であるが、この「ああいう人間」とは坂井三郎氏のことを指しているのだろう。この記事を読んだ読者の多くは恐らくこの渡辺氏の意見を支持し坂井氏に対しては批判的になると思う。しかし悪口を言わない人、恨みを持たない人は見ていて気持ちがいいが同時に本来修正されなければならない問題点を見えなくしてしまうことがある。


 渡辺氏のような見方をする人がいるのと同時に坂井氏のように当時の軍隊内部の問題点を指摘するというのも重要なことだ。因みに渡辺氏に関しては『日本陸海軍航空英雄列伝』にも記事があるので詳しく知りたい方はこちらを見てみるのもいいと思う。

 

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日本海軍航空隊 撃墜王 加藤邦逵

 今日紹介するのは加藤邦逵。大正12年生まれというから太平洋戦争開戦時には18歳と相当若いのだ。この加藤邦逵で面白いのは撃墜スコア16機という多撃墜者でありながらラバウル航空戦を経験していないことだろう。同期で撃墜王となったのは撃墜12機、または共同撃墜105機と言われる小高登貫、石井勇、服部一夫等がいるが多くはラバウル航空戦で撃墜数を伸ばした。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
川戸正治郎に次いで海軍戦闘隊最年少のエースである。大正12年愛知県に生まれ、18年1月丙10期飛練を卒業し、大村空を経て5月海南島の254空へ配属された。未経験ではあったが射撃の名手で大村空時代に佐鎮管内で優勝したことがあった。初陣は同年夏で、飛行服なしに飛び上がって、来襲したP−38を撃墜した。

 18年末から西南支那を根拠とする米空軍の B−24、B−25、P−38、P−40混成編隊が、広東、香港、海南島へ頻繁に来襲するようになり、加藤飛行兵長は果敢な迎撃戦闘で254空のトップエースの座を占め、19年秋210空に転じ内地へ帰還するまでに、計9機を撃墜した。

 その後、明治基地にあって本土防空にあたり、とくに20年2月16日米機動部隊の本土初空襲では、浜松上空において単機で敵艦爆の10機編隊に突入し、3機を撃墜した。ついで国分基地に進出、数次の沖縄特攻作戦援護に参加した。飛行時間882時間、撃墜機数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 加藤邦逵は丙種予科練を修了すると大村空、そして254空へ配属された。ここで254空について簡単にみてみよう。

第254航空隊
 昭和18年10月1日に新偏され、同時に海南警備府に所属、海南島三亜に進出して、海南島およびホンコン地区の防空および南支方面の海上交通路保護に当たることとなった。定数は艦戦24、艦攻4、輸送機1機で、司令には堀九郎大佐、飛行隊長には予備学生(早大卒)の水上機出身者松原勇大尉、先任分隊長には海兵69期の前田博中尉がそれぞれ任命されたが、練成を兼ねた部隊でもあり、熟練者は少なく、20歳前後で飛練課程終了直後の若年搭乗員が主力を占めた
(日本海軍戦闘機隊―戦歴と航空隊史話より一部転載)

 254空とは零戦好きでもあまり知られていない航空隊であるが三亜、香港というから現在でいうシーレーン防衛のための部隊だったようだ。これは航空隊の航空機定数を見ても艦攻4となっていることからも分る。防空だけでなく対潜防衛も重視された部隊なのだろう。


 新米であり当時でいう「若(ジャク)」であった加藤邦逵は一年程で9機を撃墜するというビックリ戦果を挙げてしまった。その後、本土防空戦でまた7機を撃墜して総撃墜数16機という記録を残し終戦を迎える。2015年現在、御存命であるかどうかは不明であるが、御健在であれば92歳である。



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柳田邦男ほか『零戦よもやま物語』 書評



 今日は書評。今日紹介するのは柳田邦男ほか『零戦よもやま物語』だ。この本には零戦搭乗員だけでなく、零戦にかかわった人々、例えば整備員、陸軍軍人として地上から零戦を見ていた等々が零戦の思い出を書いたものである。総勢125人が書いたというが私は数を数えていないので分らないが一人当たりの文章はかなり短い。


 この本の中で注目なのが零戦の設計者、堀越二郎や著名な撃墜王坂井三郎等、現在では故人となられた方々の寄稿であろう。因みにこういう歴史関係の本を読む時に大切なのはこの本が出版された年代なのだ。この本の初出は1982年。ということは1982年現在の話なのだろうかと思うとそうではない。


 あとがきにもあるが、この本は雑誌『丸』で1970年2月号から連載された「零戦とわたし」という小学生の作文のタイトルのような連載を中心に編集された本なのだ。つまりはこの本の中にある「去年、○○氏が他界された」等の記載も1981年ではないということだ。1970年位〜1982年までのいつかの去年ということになる。


 時代背景から考えると1970年〜1982年というと戦争が終わって25年〜37年となる。戦争中の高級指揮官が終戦時50歳としても75歳〜87歳とかなりの高齢になる。この人達の記録を残しておきたかったというのが本書が1982年に出版された理由なのかもしれない。


 それはともかく本書の特色を書こう。本書で私が注目したのは前述の堀越二郎の寄稿以外に数多くの撃墜王が寄稿していることだ。零戦のパイロットおたくとしてはこの本は重要だ。特に18機撃墜のエース増山正男氏は本書以外に寄稿等をされているのをみたことがない。


 私が知る限り唯一の寄稿文である。さらに撃墜マークで有名な谷水竹雄氏もあまり雑誌等に寄稿しないが本書には寄稿されている。逆に著作のある坂井三郎氏や島川正明氏などは著作を直接読んだ方がいいかもしれない。


 ただ、この本に寄稿しているほとんどの方は現在(2015年)は他界されている。もう二度と作ることが出来ない本である。当時、零戦と共に生きた人々の生の記録であり貴重である。



零戦よもやま物語―零戦アラカルト

アマゾン紹介文
いまもなお人々の心に“不死鳥”のごとく飛びつづける名機零戦。設計主任の堀越二郎から零戦撃墜王坂井三郎まで、総勢百二十五人の零戦関係者が不世出の傑作機への熱き思いを綴った異色のイラストエッセイ。戦争の時代を超えて半世紀、風化することなき日本人の歴史の記念碑―「零戦の素顔」に触れる名機物語。
(amazonより転載)



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日本海軍航空隊 撃墜王 中島文吉

 あまり有名なパイロットではないが16機撃墜したエースである。日本海軍ではパイロットになるための最短コースを歩んだ場合、最も若くて17歳でパイロットとなることができるようだ(誕生日の関係でもっと早い人もいるかも)。今日紹介する中島上飛曹もそんな最若年で搭乗員となったものの一人だ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正7年富山県に生まれ、警察官給仕から海軍に入団し、昭和11年9月33期操練を卒業して、17才で3等航空兵の最若年戦闘機操縦者となった。直ちに鹿屋空へ配属され、支那事変勃発とともに台湾へ進出し、防空任務にあたった。

 13年3月13空に、7月15空に転じたが、空戦の好機はえられなかった。16年9月3空に配属され、開戦とともに比島、蘭印を転戦、17年11月252空に転じてラバウルに進出し、翌年2月マーシャル群島に転進するまで3ヶ月にわたり、東部ニューギニア、ガダルカナル島航空戦に参加した。

 18年10月6日、米機動部隊が大挙ウェーク島に来襲したので、増援のため陸攻7機を同数の零戦(指揮官 塚本裕造大尉)が直衛してマロエラップから発進したが、ウェーク島付近まで飛んだ時、敵戦闘機群に奇襲された。乱戦の末5機は着陸したが、中島上飛曹をふくむ2機は行方不明となり、戦死と認定された。撃墜機数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 中島上飛曹は操縦練習生33期の出身である。33期と言われてもピンと来ないかもしれないが、太平洋戦争前に十分な訓練を受け、太平洋戦争開戦時にはベテランだったクラスである。同じ操練出身の撃墜王岩本徹三が操練34期、坂井三郎が38期というからこの中島上飛曹は出身期でいえば両氏の先輩にあたる。


 しかし岩本、坂井が大正5年生まれなのに対してこの中島上飛曹は大正7年生まれ。2歳若いのだ。上記のように戦闘機搭乗員になったのは若干17歳というからすごい。開戦時に配属された部隊はあの赤松貞明などのエースを輩出した3空であった。この部隊は若手でも飛行時間が1000時間を超えていたという強烈な部隊であった。


 その後、252空に転じ、ラバウル航空戦に参加した。昭和18年10月ウェーク島上空で行方不明となる。252空の隊長、菅波政治大尉の戦死時には2番機を務め、単機、戦果の確認をしようとする菅波隊長に随伴しようとしたが菅波隊長に強く制止され断念したという。その中島上飛曹も10月6日、児島飛曹長の二番機としてウェーク島上空でF6Fと空戦、行方不明となり戦死と認定された。この空戦については宮崎勇『還って来た紫電改』に詳しい。



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日本海軍航空隊 撃墜王 宮野善治郎

 有名といえば有名。無名といえば無名とったところか。零戦のパイロットに多少でも興味がある人にとっては超有名だけど世間ではあまり知られていない搭乗員だろう。今回紹介する撃墜王は宮野善治郎大尉。撃墜王には珍しく海軍兵学校出身の士官だ。今日は宮野善治郎大尉についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正6年大阪府に生まれ、昭和13年65期生として海兵を卒業、15年4月32期飛行学生教程を終わって、翌年12空に配属され、支那戦線に出動したが、空戦の機会はなく、16年10月大尉に進級して3空分隊長となり、12月8日開戦当日のルソン島進攻で初撃墜を記録した。

 ついで比島、蘭印を転戦したが、17年4月ミッドウェー進駐予定の6空分隊長に転じ、6月空母隼鷹に便乗して、ダッチハーバー攻撃に参加、帰還すると間もなくラバウルに進出、204空分隊長ついで飛行隊長として常に陣頭に立ち、1年近く奮戦した。

 人柄、技術ともに卓越した戦闘機隊指揮官として上下の信望を集める一方、日本海軍で初めての4機編隊採用、戦闘爆撃機用法の開発などの新機軸を開いた。18年6月16日ガダルカナル島ルンガ沖の船団攻撃にあたり、重鈍な艦爆隊を攻撃離脱後、収容する危険な任務を提案してみずからその任にあたり、敵戦闘機との乱戦中、行方不明となった。

 戦死後、全軍布告、2階級進級の栄誉を受け、海軍中佐に進級した。単独撃墜16機、部隊撃墜228機といわれている。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 度々書いているように零戦のエースには下士官が圧倒的に多い。80〜90%は下士官搭乗員ではないだろうか。これに対して欧米ではエースのほとんどは士官であるのだ。この違いは何かというとそもそもパイロットは士官という国もあれば、実戦で武勲を挙げることによって昇進するという場合もある。これに対して日本は士官でも下士官でもパイロットの道が開けており、日本の場合は多くが下士官パイロットであった。

 
 実戦では士官は指揮官として戦闘全般を指揮し、下士官兵はその指示に従って戦うというのが基本スタイルだった。そのため実際に敵機を撃墜するのは下士官兵パイロットが圧倒的に多くなるのだ。だからといって士官パイロットの腕が悪い訳ではない。要するに役割が違うのだ。


 この海軍航空隊の中で多撃墜スコアを持つこの宮野大尉というのは珍しい存在である。士官パイロットではあるが、海兵65期で日中戦争にも参加している。太平洋戦争開戦時にはベテラン士官であった。この海兵○○期というのは海軍兵学校卒業年次である。海軍の搭乗員をみる場合は基本的に67期が開戦直前(昭和16年10月とか)に実戦部隊に配属されたクラスということを覚えておくと戦記物を読む際は参考になると思う。


 当然、海軍兵学校の一期は一年なので、単純計算だと65期というのは67期の2年前に実戦部隊に配属されたことになる。宮野大尉の場合は昭和15年に初めて実戦部隊に配属されたようだ。日中戦争では空戦の機会はなかったものの、戦闘の空気には十分慣れたであろう。太平洋戦争開戦時には押しも押されぬ指揮官となっていたのだろう。


 この宮野大尉もまたラバウル航空戦に参加してその若い命を散らすことになる。私が読んだ戦記物には宮野大尉は度々登場するが本当に部下から愛されていたのが分る。本当に人望のある人物だったのだろう。


2015年2月22日追加

 エース列伝に記載されている宮野善治郎大尉の誕生日は大正6年生まれとなっているが、大正4年12月29日の誤り(写真家・ノンフィクション作家「神立尚紀(こうだち・なおき)」のブログ)。



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坂井スマート道子『父、坂井三郎』書評




 今日は珍しく書評をしてみようと思う。今日紹介するのは多分、日本で一番有名な撃墜王、坂井三郎の著書・・・ではなく、坂井三郎の子、坂井スマート道子氏の著書『父、坂井三郎』である。64機撃墜した海軍航空隊の撃墜王、大空のサムライとして有名な坂井氏の普段の生活、ものの考え方などがよく分る本である。


 まず、冒頭で坂井三郎氏が一番批判されている撃墜数について述べる。坂井氏は撃墜数64機となっているが自称したことは一度も無く、これは出版社が創作した数字であるとのこと。そして坂井氏との思い出が描かれる。坂井氏はアメリカ人に対して

「お前、アメリカ人は楽しいぞ」

「話が早くて、簡単なんだ。話していて気持ちがいい」

というようにアメリカ人とは波長が合ったようだ。アメリカ人も坂井氏の著書を読んで今までは血も涙もない存在だと思っていた零戦パイロットが自分達と同じ人間なのだということが分ったという。さらに本書では坂井氏がティベッツ大佐(エノラゲイ機長)と対話した際のエピソードも記している。坂井氏はティベッツ大佐に対して命令であれば自分も投下していたと語り、論理的にティベッツ大佐に対する日本人の批判が間違いであると語ったという。


 このくだりは本書に詳細にしるしてあり、引用したかったがあまりにも長かったために断念した。ただし戦争当事者同士のやりとりとしては貴重な記録だと思う。さらに本書では坂井三郎氏の哲学、子供への教育などが語られる。これは坂井氏の子供であるスマート道子氏でなければ書けないものだろう。外に出たときは前後左右上下を確認するなど、坂井氏独自の考えが面白い。


 本書の中で特に注目したいのは、「おわりに」でスマート道子氏が坂井氏の批判ともとれる内容が記述されている、神立尚紀『祖父たちの零戦』に言及していることだろう。零戦搭乗員でもっとも有名になってしまった坂井氏への評価が相対的に見られるのが面白い。本書は上記『祖父たちの零戦』と併せて読むのが面白いと思う。どちらの本も事実を極力客観的に記載しているのでこの2冊を読むと坂井氏の輪郭の一部が浮き彫りになると思う。その姿をどうとるかというのは読者次第であろう。私は魅力的な人物だと思った。


アマゾン紹介文
2012年、13回忌を迎える伝説の零戦パイロットが実の娘に授けた日本人の心とサムライの覚悟。今こそ生きる「坂井三郎の武士道」。
著者について
坂井スマート道子
元零戦パイロット、世界的ベストセラー『大空のサムライ』の著者、坂井三郎の実子。米国テキサス州サンアントニオ市のトリニティー大学芸術学部卒。留学中に知り合ったアメリカ人、テレンス・スマート氏と結婚、アメリカ陸軍士官となった夫について1987年、渡米。アメリカで多数行われた坂井三郎の講演に通訳として同行。二児の母となり、現在は4歳の孫がいる。米国ハワイ州在住。
(amazonより転載)



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日本海軍航空隊 撃墜王 甲木清実

 今日、紹介するのは海軍航空隊のエースの中でも異色のエース、甲木清実飛曹長である。何が異色かというと、通常、海軍の撃墜王が登場する機体というのは大体、九六戦、零戦、紫電改等の陸上機なのであるが、この甲木飛曹長、何と水上機でエースになったのだ。

 そして甲木飛曹長は水上機でも零式観測機から二式水戦、強風から陸上機転換訓練を受け陸上戦闘機搭乗員として終戦を迎えた。さらに零式観測機でB17を単独撃墜、強風での初戦果等、異色の戦果を挙げた搭乗員でもある。今日はこの甲木飛曹長についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 甲木飛曹長は大正8年4月10日、福岡県生まれ昭和13年6月佐世保海兵団入団。昭和16年5月第54期操縦練習生を卒業、二座水上機の操縦員として鹿島、館山、博多航空隊勤務の後、水上機母艦千歳乗組となり開戦を迎えた。



1/700 ウォーターライン スーパーディテールシリーズ 日本海軍水上機母艦 千歳 SD



 昭和17年1月にオランダ軍第17観測飛行隊の飛行艇を撃墜して初戦果を挙げた。9月R方面部隊に編入されショートランド島に進出した。10月4日、輸送船団上空哨戒中来襲した第17爆撃隊所属B17Eの主翼を自身の零観の主翼で切断、ついで尾翼を切断して撃墜した。内地帰還後、横須賀航空隊にて水上戦闘機転換訓練を受ける。452空付となり北千島占守島に進出、防空任務にあたる。


 基地凍結により潜水艦で脱出、横須賀航空隊で水上戦闘機強風の錬成訓練の後、934空に着任する。昭和19年1月、B24を撃墜して強風での初戦果を挙げる。その後、零戦への転換教育を受け、381空に転じた。バリクパパン油田防空戦を始め迎撃戦を戦った。



1/72 二式水上戦闘機&強風 第934航空隊 コンボ(2機セット)



 昭和20年、本土に帰還、大村航空隊、332空、352空に所属、終戦まで防空任務についた。航空功科表には実戦適と記され、果敢な闘志と卓越した空戦技術を併せ持つ名手だった。総撃墜数16機、その内7機が水上機によるものだった。(以上『日本陸海軍航空英雄列伝』『日本海軍航空隊のエース』参照)



1/32 三菱 J2M5 局地戦闘機 雷電 33型



 以上が甲木飛曹長の経歴である。搭乗した航空機は零式観測機、二式水戦、強風、零戦、雷電と多彩だ。甲木飛曹長の経歴で特徴的なのはほとんどの撃墜スコアが大型機であるということだろう。ジェロニモの愛称で呼ばれた闘志あふれる搭乗員であった。



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ドイツ 陸上巡洋艦 P1000ラーテ

Comparison_of_Landkreuzer_P_1000_Ratte,_Maus_and_Tiger_tanks ネット徘徊中に発見してあまりにもビビったので記事にしてしまった。実際には作られなかった兵器だけど、まるでガンダムのビックトレーみたいなものが現実に計画されていたようだ。この時代の兵器は本当に試行錯誤の歴史だね。今日紹介するのは実際には作られなかった計画上の兵器、ビックトレー・・・じゃなくて、ドイツ陸上巡洋艦P1000ラーテだ。これはwikipediaに記事があったのでまずはwikipediaをみてみよう。(画像はwikipediaより転載)

性能※計画値
全長=39.00 m(※砲身先端まで)
車体長= 35.00 m
全幅= 14.00 m
全高= 11.00 m
最低地上高= 2 m
重量= 1000トン
装甲= 360 - 150 mm
武装
主武装= 2x 280 mm 54.5 SK C/34
副武装= 1x 128 mm KwK 44 L/55
 8x 20 mm Flak38
 2x 15 mm MG 151/15
機関= 8x ダイムラー・ベンツ MB501 20気筒 船舶用ディーゼルエンジン
もしくは 2x MAN V12Z32/44 24気筒 船舶用ディーゼルエンジン  
機関出力= 16,000 or 17,000 hp (13,000 kW)
速度= 40 km/h
航続距離= 約120キロメートル (75 mi)
乗員= 20名以上、最大で40名程度
(wikipediaより転載)

概要
 ラーテ(独:Ratte)は、第二次世界大戦中にドイツで計画された超巨大戦車、Landkreuzer P1000(陸上巡洋艦 P1000)に与えられた秘匿名称である。

 ドイツの開発・製造した超重戦車としては重量188 t のマウスや140 tのE-100が知られているが、ラーテの規模はこれらの超重戦車をはるかに凌ぐ、重量約1,000トン、全長35m、全幅14m、高さ11mという桁違いのもので、「陸上戦艦」の異名を持ち、シャルンホルスト級戦艦の主砲塔である28cm 3連装砲から中砲を廃止した2連装砲塔を搭載する予定であった。
(wikipediaより一部転載)
 さらに詳しい情報を知りたい方はこちら(wikipedia)


 計画上はだけど全長はともかく重量1000トンってどうよ。明らかに非現実的ではないでしょうか?wikipediaの記事には橋が通れないというようなことが書いてあったが、そもそも通れる場所の方が少ないような気がする。100トン級の戦車を日本で試作した際に100トンですら田んぼ等のぬかるみが突破できなかった訳なので、1000トンともなれば地の底まで沈んでしまうだろう。


 どうも戦艦の主砲をそのまま搭載する予定だったようなのでその反動に耐えるためにも重量が必要だったのだろう。しかしねぇ・・・。計画段階まで行ったというのが驚異的でもある。普通、思考実験で失敗が分るようなものだと思うんだけど・・・。それはそうと私がそもそも何でこのビックリドッキリメカに気が付いたかというとこれなんですよ。↓↓↓



1/144 陸上巡洋艦 P1000 ラーテ(プロトタイプ)とVIII号超重戦車 マウス

商品の説明
 タコムからドイツのペーパープラン陸上巡洋艦ラーテと2台が試作されたマウスのセット(ラーテx1とマウスx2)が発売となります!砲塔旋回、砲身上下可動です。エッチングパーツ付です。マーキングはラーテ3種とマウス2種となります。ラーテの全長を39メートルとすると1/144でもなんと約27cm(マウス約7cmの3倍以上)となります!

 1/144だからこそ再現可能となったキットです。ラーテは28cm砲を連装、副砲として12.8cm砲x1、機関砲を装備、車体上面装甲は180mmから350mmとして計画された1,000トンの陸上巡洋艦といえるものでした。しかし計画は1944年に中止されました。1/144のラーテ1個 とマウス2個のプラキットが入っています。
(amazonより転載)


 因みにラーテの上空を援護しているのはUFO!空飛ぶ円盤な訳で、この絵のインパクトに完全に打ちのめされてしまった・・・。前方にいる小型戦車は実際に二両製造された超重戦車マウス。これはアメリカ軍のM1戦車の2倍の重量がある戦車だ。絵がすごすぎ・・・(汗)因みに何でUFOが飛んでいるのか知りたい方はこちらを読んでみましょう(買うの勿体ないので図書館で借りた方がいい)。それでは。



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日本海軍航空隊 撃墜王 高塚寅一

 今日紹介するのは高塚寅一、操縦練習生出身の搭乗員で太平洋戦争開戦時には既に熟練搭乗員であった。生まれたのは大正3年と意外に若い。著名なエースである坂井三郎氏、岩本徹三氏、原田要氏などが大正5年生まれであることから考えると、太平洋戦争での著名なエースより若干若いだけだが操練22期ということから大先輩の古株搭乗員という印象が強い。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正3年静岡県に生まれ、昭和8年11月22期操練を卒業した老練操縦者で、支那事変では15年9月13日12空零戦隊の重慶攻撃に参加して3機を撃墜した。
16年10月飛曹長に進級して除隊したが、直ちに招集され、台南空に配属されて16年6月ラバウルに進出、地味ながら老練な空戦技術をもって戦果を重ねた。しかし9月13日ガダルカナル島上空の空戦で行方不明となり、戦死と認定された。総撃墜機数16機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 太平洋戦争で活躍したクラスは操縦練習生では30期台40期台がベテランとして君臨していた。高塚氏はそのベテランクラスよりもはるかに上の22期だったので年齢が高かったような印象を受けるのだろうか。まあ、どうでもいいといえばどうでもいい話ではあるが。


 太平洋戦争では台南空に所属し、ラバウルに進出したが昭和18年の正月を迎えることは無かった。その間に記録されている撃墜数は16機とかなり多い。



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日本海軍航空隊 撃墜王 中谷芳市

 今日はあまり著名ではないエース、中谷芳市を紹介したい。生まれたのは大正10年というから太平洋戦争ではかなりの若手搭乗員と言っていい。出身は予科練丙飛2期である。丙飛とは操縦練習生の名称が変更されたもの。苛烈なラバウル航空戦を生き抜いた強者であり、終戦まで戦い抜いた数少ないパイロットだ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正10年長崎県の農家に生まれ、自転車屋の店員から海軍に入団、整備兵から転じて昭和16年11月丙2期飛練を卒業、直ちに千歳空へ配属されて、開戦時は内南洋防空にあたっていた。17年2月1日、米機動部隊の来襲時、ルオットから離陸して艦爆1機を撃墜したのが初陣であった。8月補充員としてラバウルの台南空に派遣され、10月末までソロモン航空戦に加入した。
12月201空に復帰してマーシャル群島防空にあたったが、翌年は春内地へ引きあげ、7月再びブインに進出、連日の激戦に活躍して生き残った。この間P−38の2機編隊を追いつめて空中衝突させたエピソードを残している。12月331空に転じてサバンに転進し、19年3月202空、ついで221空に転じて本土へ帰り、筑波空、谷田部空の教員として終戦を迎えた。目立たないが着実、周到な性格で、撃墜機数は16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 太平洋戦争開戦時には千歳空に在隊していた。この千歳空には後のトップエース西沢広義も在籍しているなどのちのエースが何故か異常に多い部隊であった。中谷は西沢が台南空に異動した後も千歳空に残ったようでちょうど負傷した坂井三郎と入れ違いになる形で台南空に配属された。


 その後は局地戦闘機部隊331空、202空などを経て教員配置で終戦を迎えたようだ。総撃墜数は16機。



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ハイキャパマッチカスタム レビューまとめ

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 以前から私が気になっているハンドガンを今日は特集してみようと思う。そう、それはタイトルにもあるハイキャパマッチカスタムである。あの名銃、東京マルイ製ハイキャパ5.1のカスタムモデル。これがどうしても気になって仕方が無い。ということで今日はハイキャパマッチカスタムを特集してみたいと思う。youtubeで検索してみると意外とあるのだ。まずは動画を観てみよう。





 作動に関しては特に書くこともない。ハイキャパといえばシューティングマッチで使用されるカスタムガンのベースとして最も使用されているモデルだ。東京マルイ製だけに外観はともかく命中精度、作動等は折り紙付の代物だ。既にタイムプルーフされているといっていいモデルなので性能ではあらゆる面で合格だ。


 しかし問題は外観があまりにもダサいことなのだ。刻印の袋文字はオモチャっぽさ全開だし、全体的に見た目も安っぽい。いくら性能が良くてもこれじゃあねぇ・・・と外観にこだわる私は思ったのだった。んで、いつものようにネットで検索していたところ、ん、


マッチカスタム??


 という謎のカスタムを発見してしまったのだ。これはどうも3年位前に東京マルイが販売したハイキャパのカスタムモデルのようだ。たぶん人気が無かったのだろう製造中止になってしまったようだ。この銃のデザインが私にはどストライクだった訳でいろいろ調べてみたのだ。





 まず、発売されたのは2011年のようだ。製品の特長としてはその名の通り、シューティングマッチ用にカスタムされたもので、主な改良点は、スライドが軽量化されていること、アンビセイフティ、ロングスライドストップ、集光フロントサイト等である。値段はハイキャパより少し高い程度でこの装備はかなりお買い得だと思う。


 集光サイト、セイフティ、スライドストップだけでも別パーツで購入したらそれぞれ3000円以上はするものだ。マガジンにもバンパーが付き、いかにもマッチカスタムという感じになっている。特に白眉なのはスライドでリアサイトをプラスチックで作ってしまう程の徹底的な軽量化が図られている。





 しかし全体の重量は普通のハイキャパよりも増加しており、射撃時の安定性に寄与しているといえる。長所としては以上のものだが、どうも欠点もまた数点あるようだ。


 欠点の最大のものとしてはスライドが軽量化され過ぎてしまった結果、強度が足りずにスライド先端部分のガスポート部分からパックリと折れてしまうことがあるらしい。さらにスライド裏面に通常装着されているノッチプレートがマッチカスタムでは削られているというのも軽量化の結果、強度が弱くなってしまったのだろう。






 問題は基本的にスライドのみであるが、このスライドの欠陥は大きい。想像ではあるが、この欠陥でマルイも製造を止めてしまったのだろう。しかしだ、要するに


問題はスライドだけでしょ?


 ということになる訳だ。スライド以外には特に欠点は見当たらない。スライドさえ交換してしまえば集光サイト、ロングスライドストップ、アンビセイフティ等が標準装備されている訳なので、最高のカスタムが完成するということになるんじゃないの??等と妄想しているのであった。





 ただ、問題はモデルは2011年と若干古いということだろう。既に4年前のモデルだ。私は常にガスガンは最新ロッドを購入した方がいいと思っている派(ロッドが新しくなるごとに改良されている場合がある)なのでこの4年をどう見るかが問題だろう。



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二式水上戦闘機&強風 第934航空隊 コンボ(2機セット)

 いいねー。このコンボセットってお買い得感があるよ。今日紹介するのは二式水上戦闘機と強風という水上戦闘機コンビ。以前の記事で強風は特集しているので、特に今日は二式水上戦闘機について書いてみたいと思う。この水上戦闘機とは『紅の豚』等に登場するのでメジャーな存在かと思いきや世界的には水上戦闘機を量産したのは日本だけである。そして量産された水上戦闘機とは世界で二式水戦と強風だけである。


 強風は水上戦闘機として当初から開発されたのに対して二式水戦はあくまでも強風が実戦配備されるまでのつなぎであった。しかし結局は強風が実戦に配備された頃には水上戦闘機が活躍できるような状態ではなくなっており、水上戦闘機として最も活躍したのは二式水戦ということになってしまったのだ。


性能
全長:10.24m
全幅:12.50 m
全高:4.305 m
主翼面積: 22.438m2
プロペラ: 住友・ハミルトン 3翅定速プロペラ
自重: 1,922 kg
全備重量: 2,460 kg
最大離陸重量: kg
動力: 栄12型空冷複列星型14気筒エンジン ×1 基
出力: 940HP
最大速度: 437 km/h(4,300m)
巡航速度: 400 km/h
着水速度: 111 km/h
航続距離:1,150 km
実用上昇限度:10,500 m
上昇率: 6分49秒 / 5,000m
固定武装:九七式七粍七固定機銃 ×2丁(機首)、九九式一号二〇ミリ機銃 ×2丁(主翼)
爆装:60kg爆弾×2個
(wikipediaより転載)

概要
 日中戦争で九五式水上偵察機等の水上観測機が搭載機銃で敵機を撃墜するなどの意外な活躍をしたことから、1939年(昭和14年)に日本海軍は本格的な水上戦闘機の開発を決定し、15試水上戦闘機(後の「強風」)が試作されることになった。

 しかし開発が難航したため、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦による南方侵攻作戦に新型水上戦闘機は間に合わないことが明白になってきた。そこで、短期間で高性能の水上戦闘機を製作するために、当時高性能が話題となっていた零式艦上戦闘機11型をベースに水上戦闘機化することを計画し、1941年(昭和16年)に中島に対して試作を命じた。

 零戦を開発した三菱重工業に対して改造を命じなかったのは、三菱が零戦や一式陸上攻撃機などの生産に手一杯だったことと、中島の方が小型水上機の生産に関して経験豊富だったためであった。
中島では緊急試作を開始し、約11ヶ月後の同年12月8日(奇しくも太平洋戦争勃発の日と同じになった)には試作1号機を初飛行させた。テストの結果は良好で、1942年(昭和17年)7月6日に二式水上戦闘機として制式採用された。
(wikipediaより一部転載)
 さらに詳しい情報を知りたい方はこちら(wikipedia)


 二式水戦は零戦にフロートを付けただけであったが、オリジナルの零戦の性能が良かったために水上戦闘機としては高い性能を持つに至った。但し、高いと言ってもあくまでも水上戦闘機として、である。速力はフロートを装着したためにオリジナルの零戦より100km遅くなった。これは敵戦闘機と空戦が出来るレベルではなく、あくまでも大型機迎撃用として使用されたようである。


 有名なのはショートランド島に展開した水上機部隊R方面部隊であろう。水上戦闘機でのエースとしては唯一、ジェロニモこと甲木清実(撃墜16機)がいる。その他にも水上機出身のエースは存在するが水上機のみで5機以上撃墜したのは甲木清実のみのようだ。(※追加 もう一人いるらしい・・・)(※追加の追加。もっといるかも)









 この二式水戦は太平洋戦争中に327機が生産され、終戦時に24機が残存していたという。意外に多くが残ったというのが率直な印象であるが、さすがに元になった零戦でも米軍機に太刀打ち出来なくなってしまった戦争後半では二式水戦での出撃は危険すぎたのだろう。



1/72 二式水上戦闘機&強風 第934航空隊 コンボ(2機セット)


商品の説明
 インドネシア東部に位置するアンボン島付近に展開した、第934海軍航空隊所属機を再現。
本部隊はオーストラリア沿岸までのアラフラ海の索敵と対 潜哨戒を主任務とする部隊です。

 1943年2月に二式水上戦闘機による水戦隊が追加配備され、アル諸島のマイコール基地に来襲するボーファイター やB-24、B-25の邀撃を行いました。「強風」は新鋭水上戦闘機として1944年1月に配備されています。
(大日本絵画刊「南海の海鷲たち」の資料をもとに製品化しています。)
(amazonより転載)


 今回は水上戦闘機コンボセットをチョイスしてみた。かなりマイナーな機種ではあるが、それだけにメジャーにはない面白さがあると思う。



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日本海軍航空隊 撃墜王 岩本徹三

230px-Tetsuzo_Iwamoto 岩本徹三少尉は、私が撃墜王おたくになったきっかけの記念すべき人である。大言壮語型の人間で腕は超一流、日中戦争から太平洋戦争をほぼ第一線で戦い抜き終戦を迎えた。

 総撃墜数は216機と自称しているというが、実際は80機ともいう。撃墜数は不明であるが超一流のエースであることは間違いない。今日はこの岩本徹三少尉についてみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 大正5年島根県の農家に生まれ、益田農林学校卒業後、昭和9年6月呉海兵団に水兵と して入り、翌年整備兵に転じたが、11年12月第34期操縦練習生課程を卒業して、戦闘機パイロットとなった。13年2月、第12航空隊に配属され、2月25日の南昌攻撃の初陣で5機を葬ったのを手始めに、9月に本土へ帰還するまでに82回出撃して14機を撃墜し、支那事変における海軍戦闘機隊のトップエースとなった。

 太平洋戦争では空母瑞鶴に乗り組み、ハワイ、インド洋、サンゴ海各海戦に参加し、17年8月練習航空隊の教員に転じたが、18年3月新設の281空に移り、半年近くホロムシロ島で北辺の防備についた。11月派遣隊に加えられて15機の僚機と共にラバウルに進出、所属は204空、253空と移ったが、3ヵ月余の間ほとんど連日の迎撃戦に従事したが、6月本土へ帰還した。

 9月、253空の戦闘316飛行隊付となり、海軍少尉に進級、10月台湾沖航空戦に出撃して比島に進出したが、10月末本土に帰還し、20年春203空に転じて九州に前進、沖縄航空戦に参加して、終戦の日を迎えた。
第1線戦闘機操縦者としての戦歴は8年に近く、その空戦経歴の長さ、豊富さという点で他に比べうるエースは見当たらない。

 しかし太平洋戦争中の所属航空隊が、204空(1ヵ月間に不確実を含み計20機)をのぞき、個人撃墜記録を記載していないので、総撃墜数の算定は困難である。戦後病死した岩本は、未公刊の詳細な回想録で202機(うち142機はラバウルでの戦果)という驚異的数字を主張しているが、やや内輪に見て80機前後と判定するのが、妥当であろう。「虎徹」と自称し、侠客的肌合いを持った名手で、垂直降下一撃撃墜を特技とした。そのスコアは、あるいは西沢を上まわる日本のトップエースであったかも知れない。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 岩本徹三は、日中戦争、太平洋戦争を通してトップエースの一人と言われている。著書の最後に撃墜数と撃墜した機種が克明に記されており、それによると総撃墜数は、太平洋戦争で202機、日中戦争で14機となっている。しかしこの撃墜数は、編隊の戦果とする見解もあり、実際は、80機前後と推定されている(秦郁彦監修『日本海軍戦闘機隊』酣燈社 1975年)。

 しかしこの80機という数字もヘンリー境田氏が指摘するように根拠のある数字ではなく、研究者の想像に過ぎない(ヘンリー境田『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 2000年)。さらに日中戦争の14機撃墜という数字についても異論が多いようだ(神立尚紀『零戦最後の証言』光人社 1999年)。

 このような議論が出る背景には、岩本氏の性格が関係しているようである。『零戦撃墜王』巻末にある岩本幸子氏による「亡夫岩本徹三の思い出」によると、岩本氏は、性格が強く、小学校時代にすでに先生をやり込めたりしていたようである。この性格の強さは、軍隊時代にも発揮されたようで、著書中でも、ラバウルトベラ基地に着任した際に、当時の岩本にしてみれば、三階級上の大尉を殴っており、さらに戦争末期に上官から特攻隊への志願の有無を問われた時もハッキリと「否」と言ったという(角田和男『零戦特攻』朝日ソノラマ)。

 当時としては相当な勇気が言ったであろう。ただ、その分大風呂敷だったようで、太平洋戦争エースで18機の撃墜スコアを持つ小町定氏も暗に「編隊の戦果を混同しているのではないか?」というような事を言っている(川崎浹『ある零戦パイロットの軌跡』トランスビュー 2003年)。しかし言うだけのことはあり、空戦の腕は相当であったらしく、持論は、「空戦は追尾攻撃ではなく、一撃航過で撃墜する」(安部正治「私が見た二人の撃墜王」『丸12月号別冊 撃墜王と空戦』1993年)というものでドッグファイトはしないで、一撃して離脱する戦法であった。

 戦争末期に岩本徹三と同じ部隊に所属した当時予備学生だった土方敏夫氏は、岩本を「自身のライフジャケットに「天下の浪人虎徹」と書き、田舎の爺さんのような格好をしているが、向かうところ敵なしで、たいてい撃墜して帰ってくる。」と評している(土方敏夫『海軍予備学生零戦空戦記』光人社 2004年)。当時若手搭乗員であった阿部三郎氏(海兵73期)もまた、「(空戦訓練は)何回やっても歯が立たなかった」と回述している(阿部三郎『藤田隊長と太平洋戦争』霞出版 1990年)。

 岩本氏は、気が強い反面、部下達にはやさしかったようで、若手搭乗員には人気があったようだ(瀧澤謙司「世紀の奇略“渡洋零戦隊”始末」『伝承零戦』三巻 1996年 ※初出は、月刊『丸』1984年12月号)。
 このように撃墜数の真為はともかく、日中戦争から終戦まで8年間をほぼ第一線で過ごし生き残った稀有な搭乗員である。

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「紫電改のマキ」 川西 N1K2-J 局地戦闘機 紫電改



 再び「紫電改のマキ」に登場する戦闘機を特集してみた。今日は「紫電改のマキ」に登場する主役機、ガンダムでいうガンダム、「紫電改のマキ」でいう紫電改なのだ。実際の紫電改は別に記事があるのでそちらを参照してもらいたい。


 この紫電改は正式には紫電21型であり、元になったのは紫電11型である。さらに紫電の元になったのは水上戦闘機強風という面白い戦闘機なのだ。まず、水上戦闘機の必要性が海軍内部によって唱えられ製作が始まったが太平洋戦争開戦には間に合わず零戦にフロートを付けた二式水上戦闘機が太平洋で活躍した。しかし強風の開発も進められており、太平洋戦争後半に実戦配備された。


 しかし強風が登場したころには水上戦闘機が活躍出来るような状況ではなく目立った活躍をすることはなかった。ただこの強風、意外に高性能であったため陸上機にすることが出来るんじゃないかということになり開発されたのが紫電だったのだ。


 しかし元々は水上機、強引に陸上機として開発したためにかなり無理な設計になってしまった。大きな問題点としては中翼であったために脚を長くする必要があり、新しく二段階引込脚を開発したが、この二段階式引込脚が故障多発した上に陸上機に不慣れな川西飛行機が製作したためか不具合が相次ぎ、性能も期待したほどではなかった。しかし零戦よりは高性能であり、戦局もひっ迫していることから生産しながら改良していくこととして紫電11型を正式採用した。


 この紫電11型を徹底的に改良したのが名機紫電21型、通称紫電改である。大きな特徴は紫電では中翼だったものを低翼に修正したことだろうか。紫電11型で装備されたエンジン、自動空戦フラップは継承された。思いの他高性能であり、海軍の期待を一身に集めた。







 この高性能に目を付けたのが真珠湾攻撃時の航空参謀であった源田実であり、自らが司令となり、この最新鋭機紫電改を集中運用した部隊を作り上げた。これが伝説の航空隊、343空、剣部隊である。よく剣部隊は生き残りのエースで編成された部隊と言われるが実際は基幹搭乗員にベテランを集めたという程度のものだったようだ。しかしエースである武藤金義(撃墜28機)松場秋夫(撃墜18機)、本田稔(撃墜17機)、坂井三郎(撃墜64機)、菅野直(撃墜25機)、ラバウルの撃墜王小高登貫(撃墜12機)等、多くのエースが配属された。









 この紫電改が半世紀以上過ぎてウサギのマークも凛々しく女子高生の愛機として復活したのだ。これは買わなきゃね。



1/48 「紫電改のマキ」 川西 N1K2-J 局地戦闘機 紫電改


 今日は「紫電改のマキ」に登場する戦闘機、紫電改を特集してみた。実際の紫電改もさることながらコミック版の紫電改もまたよいのだ。こういうコミックに登場することで旧海軍の戦闘機が注目されるのは嬉しい限りだ。『ガールズ&パンツァー』のようにヒットしてほしいなぁ。



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「紫電改のマキ」 三菱 A6M2b 零式艦上戦闘機 21型

 最近、ちょっとだけ話題になっている「紫電改のマキ」から、三菱零式艦上戦闘機21型が発売されたので取り上げてみる。「紫電改のマキ」とは簡単に言うと『ガールズ&パンツァー』の戦闘機版と言ったらいいのだろうか、いやいけないと思う。ともかく女子高生が大戦時の戦闘機に乗って空中戦をやるというコミックなのだ。その中に登場する戦闘機の一つ零戦21型。まずは零戦21型のスペックについてみてみたい。


性能
機体略号 A6M2b
全幅 12.0m
全長 9.05m
全高 3.53m
翼面積 22.44m2
自重 1,754kg
正規全備重量 2,421kg
翼面荷重 107.89 kg/m2
発動機 栄一二型(離昇940hp)
最高速度 533.4km/h(288kt)
上昇力 6,000mまで7分27秒 6,000mまで7分1秒
降下制限速度 629.7km/h(340kt)
航続距離 巡航3,350km(増槽あり)/巡航2,222km(正規)
武装 翼内20mm機銃2挺(携行弾数各60発)
爆装 30kg又は60kg爆弾2発
試作機完成 1940年7月
(wikipediaより転載)

概要
 零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は第二次世界大戦期における日本海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。試作名称は十二試艦上戦闘機。連合軍側のコードネームは『ZEKE(ジーク)』。

 支那事変から太平洋戦争初期にかけて、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能を生かして、米英の戦闘機と優勢に戦い、米英のパイロットからも「ゼロファイター」と呼ばれた。太平洋戦争中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立やF4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の大量投入で劣勢となったが、後継機の開発の遅れによって、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用された。また、用途も拡大して、戦闘爆撃機や特攻機としても使われた。

 開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の約10000機。
(wikipediaより一部転載)
 さらに詳しい情報を知りたい方はこちら(wikipedia)


 まあ、簡単な特徴は上記に書いてある通り。日中戦争真っ最中の1940年に正式採用された零戦11型の改良型なのである。改良点といっても1点だけで空母搭載用に翼端が折れるようになっているだけであり、改良される前のオリジナル零戦であると言っていい。この零戦21型に対する搭乗員達の評価がまた面白い。配備された当初、古参パイロットの中には零戦が配備されても零戦を嫌って96艦戦に乗っていた人もいたようだ。ただ基本的には好評だったようで、坂井三郎氏等は零戦21型を絶賛している。


 坂井氏は主に太平洋戦争前半に活躍した搭乗員であり零戦21型に多大な愛着を持つというのも理解できる。この坂井氏の著書の影響が大きかったためか零戦21型は最高傑作であとは改悪であるという風に誤解されることもあるが、実際は人によって様々である。21型の改良型32型はもっとも改悪であると言われているが、ラバウルの撃墜王である大原亮治氏は21型よりも32型を好んで搭乗しているし、岩本徹三も瑞鶴時代に「新型機」として21型よりも32型を待望していた。


 アメリカ軍からみても21型より32型の方が脅威であったようである。それはそうと21型が零戦のご先祖様であり、バランスが優れた名機であったことに間違いはない。ここで零戦21型の実際の動画を観てみよう。









 さすがに流線型のフォルム、初期型特有のゴテゴテ感のないスリムなデザイン。確かに美しい戦闘機だと思う。ここで「紫電改のマキ」版零戦21型はまだ販売されていないので他の零戦模型を見てみよう。









 良いねー。ということで本題の「紫電改のマキ」版に戻りましょう。今までの零戦21型のプラモと違うのは基本的にデカールだけだと思うんだけど、デカールの有無は大きいと思う。何せ作れないからね。



1/48 「紫電改のマキ」 三菱 A6M2b 零式艦上戦闘機 21型


商品の説明
 秋田書店発行の月刊「チャンピオンRED」で連載されたコミック「紫電改のマキ」(著者:野上武志)に登場する機体をキット化!「零戦のみ やび」こと、甘粕みやびが搭乗する零戦21型を1/48スケールで再現。

 彼女は、石神女子高校の「学友」と「空域」を守る「石神新選組」のニ番機 を担当しています。
キットには、おまけ要素として「甘粕みやび」のキャラクターイラストをデカール化し、数種セットします。
石神女子高校 甘粕みやび 乗機。おまけデカール:甘粕みやびのキャラクターデカール数種。
(amazonより転載)


 ということで今回は趣向を変えて零戦は零戦でも架空世界の零戦である。スケールモデルも楽しいけどこの様にコミックに登場する零戦を作り上げるのもスケールモデルとは別の楽しさがある。



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技MIX 技AC409 仮空 F2A改 築城

 久しぶりの新製品情報。かなり面白い製品なので紹介してしまう。今日紹介するのは技MIXシリーズのF-2戦闘機。F-2戦闘機自体は既に発売されているんだけど、今回発売されるF-2戦闘機は違う。実在しないはずのF-2戦闘機なのである。いつもだったらF-2戦闘機のスペックを紹介するところだけど、以前に紹介しているので今回は割愛。とりあえず実機の動画を観てみよう。









 やはりカッコいいねぇー。今回発売されるF-2はこれらとは違う。背面にコンフォーマルタンクを装着した上に重武装タイプ。そう実際のF-2にはコンフォーマルタンクは装備されていないので仮空なのだ。



技MIX 技AC409 仮空 F2A改 築城


商品の説明
 F-2の仮想発展型として単座型のF-2Aを再現、新規部品の背面コンフォーマルタンクとAAQ-33ターゲッティングポッド付属。武装はAAM-5×2、AIM-120B×4、スマートラックにJDAM×8付属。
(amazonより転載)


 ということで今日は簡単な記事になってしまったけど、最後に技MIXシリーズのF-2を並べてみた。



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1/4000 SDF-1 マクロス要塞艦 “劇場版”

_SL1500_ いいものが出たねー。このブログでも散々書いているけど、私は「宇宙戦艦」好きなのですよ。その中でも子供時代マクロス派だった私はこれを発見してビビりましたよ。そう、マクロス要塞艦が発売されるのです。ということで今日はマクロスについて一発書いてみよう。


性能
重量 (慣性質量)約1800万t
全長 1,210m(要塞艦) / 312m(強攻型)
全幅 465m(要塞艦) / 496m(強攻型)
全高 335m(要塞艦) / 1,210m(強攻型)
(wikipediaより転載)

概要
 1999年7月、地球に異星人の恒星間宇宙船が飛来。地球をほぼ4分の3周し、進路上の地上に甚大な損害を与えながら、南太平洋上の南アタリア島へと墜落した。国連代表調査団が大破した船体を調査した結果、最近まで実戦使用されていた宇宙戦艦であり、元所有者は人類の5〜6倍の体格を持つ巨大異星人であることが判明。人類の知らない宇宙で大規模な戦争が行われていると推察された。

 この巨大船は元々は監察軍の戦艦であり、敵対するゼントラーディ軍との戦闘で損傷して放棄されたのち、自動フォールド航行で地球に現われたものだった。のちに人類はその正体を知るが、偶然地球に堕ちたのか、あるいは意図的に落とされたのかは定かでない。

 人類はいずれ戦火が及ぶことに備えるため、地球を一つの国家とする統合政府を樹立し、識別名ASS-1 (Alien StarShip-1) と呼ばれた墜落艦の修復・改修を進めた。ASS-1がもたらした当時の科学技術を遥かに凌駕するオーバー・テクノロジー(「マクロスのオーバー・テクノロジー(Over Technology of Macross)」すなわちOTM)は、人類の科学技術の大きな発展と飛躍に多大に寄与することとなった。

 完成予定は2005年6月であったが大幅に遅れ、統合戦争中は幾度となくOTM奪取を目論む反統合同盟の攻撃対象となった。墜落から10年後の2009年、ようやく統合宇宙軍所属艦SDF-1として完成し、MACROSS(マクロス)と命名された。晴れて統合軍のシンボルとなったが、長く世界情勢を混乱させた元凶として、必ずしも万人に祝福されたわけではなかった。完成後は南アタリア島工廠から離床しアームド級宇宙空母を接続。宇宙ドックで艤装を施され、2年後にテスト航海に旅立つ予定だった。
(wikipediaより一部転載)

概要
 1984年公開の映画『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』に登場するマクロスはいくつかのデザイン変更がなされている。これは、後年劇中作(後年作られた記念映画)であるためとの設定がなされている。
修復元となった墜落艦は、メルトランディ軍の長射程中型砲艦へと設定変更されている。

 艦内市街地が近未来的な統一デザインに刷新されている。劇場版では南アタリア島はマクロスのフォールド暴走に巻き込まれていない上に、『超時空要塞マクロス Flash Back 2012』の作中において、街頭で民間からマクロス乗員を募る広告が掲示されるシーンもあるため、長距離宇宙航海のモデルケースとして艦内に居住区画があらかじめ建設されていたものと記述する資料もある。

 コンサート会場の屋根は通常時は開放されているが、非常時に観客の安全確保のために閉じられたり、電気自動車の固定用フックが路面に設置されているなど、明らかにTV版では見受けられなかったトランスフォーメーション対策の設備が市街地各所に見受けられる。
(wikipediaより一部転載)
 さらに詳しい情報を知りたい方はこちら(wikipedia)


 マクロスはテレビ版と劇場版で設定やメカデザインが異なるので中々やっかいなことではあるが、今回発売されるマクロスは劇場版である。マクロスは最初テレビ版が放映され、人気が出たので劇場版が製作されたというよくあるパターン。当時の最高の技術を使って製作されているために現在でも通用する高いレベルの作品に仕上がっている。


 私としてはストーリーは劇場版よりテレビ版が好きなんだけど、ことメカに関しては劇場版の方が圧倒的にカッコいい。特にマクロスのデザインはテレビ版と劇場版では全然違うのだ。最大の違いは腕にあたる部分がテレビ版だとダイダロス、プロメテウスなのが劇場版だとアームド01、アームド02になっているところだろう。それ以外にも違いはいっぱいあるのだけどそれはまあいいとして実際の劇場版マクロスの動画を観てみよう。







 やっぱりカッコいいなぁ。子供の頃観たものだから心に焼き付いているよね。このマクロス艦のカッコよさを確認したところで模型の話に移ろう。模型では完成品としてWAVEとYAMATOから発売されている。YAMATO製マクロスは1/2000と1/3000があり、1/2000スケールは超高額限定品であった。1/3000スケールの物は現在でも入手可能であるがおしっこちびっちゃう程の高額商品なのである。リンクを貼っておくので値段をみてビックリして下さい。




 一応、アマゾンで買えるというのがすごい。どんな人が買うんだろう・・・。これに対してWAVE製マクロスはかなりお手頃である。定価は20000円前後であったと思う。私も購入したけど、実勢価格を見てビックリ。倍になっている。正直、この値段を出す価値は無いと思う。それはそうとこの両モデル、動画があるので観てみよう。







 やまと製は一般的日本人の経済状態からするとこの金額は有り得ない。WAVE製は値段は安いが製品の完成度と値段を考えると非常識。ということでお手頃プライスの製品の発売が待ち望まれていたのであるが(私の中では)、とうとう発売されたのがこの製品なのだ。全長30僂搬腓さも十分、変形はしないが要塞艦としてのディディールにこだわりぬいたようだ。ここで次期発売のマクロスを見てみよう。


41CB7jXU3mL

41vUus+72KL

51x6UXKREcL

41tSFV6VVQL


 みてよ、この完成度の高さ。そして30僂箸いβ膩織廛薀癲かなり作りこみ甲斐があるモデルだと思う。かなり精巧には出来ているが劇場版マクロスを完全に再現しているとは言えない。さらに作り込みが必要だ。ただベースとするにはうってつけのモデルだろう。



1/4000 SDF-1 マクロス要塞艦 “劇場版”

商品の説明
 「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」に登場した「SDF-1 マクロス」より、巡航形態である要塞型をキット化!両舷にアームド01、アームド02を結合した劇場版仕様のモデルとなります。模型全長は約300mm。
組み立て&塗装のし易さを考慮しつつ、巧みな分割により細部に渡る精密なディテールを表現。
メインブリッジの大窓はクリアー部品をセット。

 脚部ユ ニット(一般居住区)の窓部分はシャッターとクリアー部品の選択式。アームド01、アームド02は腕から分離した状態を選択する事も可能です。肩部のOT超高速電磁レールキャノン×4は可動式。
上腕は左右方向へのスイングとロール可動が可能。マーキングデカールと、統合軍マークをモチーフ とした展示用スタンドが付属します。

 パッケージイラストは天神 英貴氏が担当しています。さ・ら・に、おまけ要素として、同スケールのモンスター×2とVF-1 バルキリー(ファイター形態でノーマル×8/スーパー×8)が付属。

 ※VF-1は模型全長 約3.5mmと非常に小さいため、板状のパーツに上面のみを彫刻した状態でパーツ化しています。ナイフなどで削いで使用することが可能な仕様です。
(amazonより転載)


 ということで今日は劇場版マクロスを紹介してみました。私はマクロス好きなので非常に楽しみです。早く発売されないかなぁー。



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東京マルイ M4 MWS ほしい!

300px-PEO_M4_Carbine_RAS_M68_CCO 今日は、いつ発売になるか分らないけど、そのうち発売されるだろう銃、東京マルイM4 MWSについて書いてみたい。私にとって久しぶりに絶対欲しいと思える銃が登場した。私は長物は中学生以来買ったことがない。その私をして欲しいと思わせるというのは大したものだ。ということで今日は東京マルイがいずれ出すであろうM4について書いてみたい。(画像はwikipediaより転載)


性能
種別 アサルトカービン
口径 5.56mm
銃身長 368.3mm
ライフリング 6条右転
使用弾薬 5.56x45mm NATO弾
装弾数 20発/30発(箱形弾倉)
作動方式 リュングマン式
回転ボルト閉鎖
全長 850.9mm
重量 2,680g(弾倉を除く)
発射速度 700-900発/分
銃口初速 905m/秒
有効射程 点目標500m 面目標600m
(wikipediaより転載)

概要
 第二次世界大戦に採用されたM1カービン、M2、M3に続いて4番目に米軍に採用されたカービン銃。カービン(Carbine)とは、本来歩兵用小銃より銃身が短い騎兵用小銃の事だが、現在では概ね「小型のライフル」を意味する。M4カービンはM16A2アサルトライフルの全長を短縮し軽量化したM16A2の直系の派生型で、M16A2とは約80%の部品互換性を持つ。

 他のアサルトカービンと同様にM4はコンパクトで、フルサイズのM16と比べて取り回しがし易いため、戦闘車両の乗員や将校らが使用することが多く、また、その可搬性のよさから身動きの取りづらい都市部における近接戦闘や特殊部隊、空挺部隊による特殊任務にも幅広く使用されている。1998年にはアメリカ陸軍でM16A2の後継に選定されており、現在ではアメリカ陸軍兵士の大半がM4を装備している。

 また、軍に残存しているM3サブマシンガン(これは主に戦車乗員の自衛用に装備されている)もM4に置き換えられる予定だという。M4は、初期のM16の小型版であり1960年代のベトナム戦争時に開発、使用されたXM177との類似点も多いが、細部が異なっている。
(wikipediaより一部転載)
 さらに詳しい情報を知りたい方はこちら(wikipedia)


 例によってまずは実銃から。周知の通りM4はM16を母体にして改良したものだ。現在、大半の部隊で装備されている米軍の主力小銃である。アメリカは国全体が新物好きなのだろう。第二次世界大戦時には各国がまだボルトアクションライフルだった時代にすでにセミオートマティック小銃を実戦に投入していた国だ。ここでアメリカ軍の小銃の変遷を簡単に説明しておこう。


 第二次世界大戦以降、M1ガーランドの次期小銃として採用されたのはM14ライフルだ。M1より威力は弱くなったものの弾倉が交換式になりフルオート機能が追加された。M14ライフルはベトナム戦争に投入されたが、ベトナム戦争は近距離での戦闘が多かったためM14ライフルの特性は発揮できず主力小銃はM16ライフルに
変更された。


 このM16ライフル、当初は問題が多かったものの高性能であった。しかし近年では銃身の長さによる取り回しの悪さが問題となり、短銃身化したカービンが主力となっている。そのM16系カービンの最終進化形がM4カービンなのである。ここで動画を観てみよう。









 ざっと実銃動画を観て頂いたがやはりM4はカッコいい。超ありきたりな結論になってしまったが、ここでガスガンの話に移ろう。ガスブロM4はWA、タニオコバ、KSCから既に発売されている。なーんだ、東京マルイが初めてじゃないんだぁ・・・と思っている方、それはその通りなのですが、各社にそれぞれ特色がある訳ですよ。


この内、現在販売されているのはWAとKSCでどちらも特色がある。WAは基本的に外観と実銃感とでも言おうかリアリティを追及しているモデルだ。外観はリアルでリコイルは現在販売されているM4の中で最強だと言われている。欠点としては命中精度が良くないということだ。これに対してKSCは全体的にバランスが取れている。M4に関するWAとKSCの特徴は会社の特徴そのままだ。KSCのM4はリニューアルされてバルブが強化されており、高い命中精度で現在入手可能な最高のモデルといえる。ここでKSCM4の動画を観てみよう。







 動画でも分るように強烈なリコイルと高い命中精度も持っている。外観もモデルガンメーカーの製品だけあって申し分ない。このKSCのM4に真っ向から戦いを挑むのが東京マルイ製のM4なのである。





 東京マルイ製M4は、東京マルイ初のガスブロ(厳密にはMP7があるが)である。電動のマルイが何故ガスブロを発売するの?・・・それはガスブロならではのリコイルと電動には出来ないリアルな内部構造を再現するためなのだ。つまりトレーニングウェポンとしても使用することが出来るということだ。


 それはそうとこのマルイ初の長物ガスブロM4の最大の特徴は何といっても表面処理に実物と同じセラコート処理を施していることだろう。そして重量その他も極力実銃に近づけているようだ。素材はアルミダイカスト製、要するにアルミ鋳造ということだ。その他、ほとんどのパーツが金属製というこだわりようだ。まあ、これは他社の製品に共通しているところなのでスルー。


 セラコート以外に特徴的なのはマガジンがアルミ製であるということだろうか。当然ガスブロのマガジンなのでガスタンクが入っているがそのガスタンクまでもアルミ製だという。気化効率が若干心配な素材である。ただ、私は実射性能に関しては東京マルイということであまり心配はしていない。逆に東京マルイ製ということでカスタムパーツが十分に販売されるだろう。一番心配なのは内部構造がディフォルメされ過ぎるのではないかということだ。


 それはともかく、外観のリアリティ、実射性能共にかなり高いレベルの製品になることは間違いない。そしてマルイ製品の特徴である豊富なカスタムパーツが入手可能ということから私が現在一番欲しい銃なのである!ということでまた情報が入ったら更新します。


 2015年11月9日追加。
 
 いよいよ11月15日に発売が決定。発表以来、実に1年半。いよいよ耐えに耐えた我々の手元に届くー。それはそれとして私が調べた結果、個別にネットショップを運営している小売店も含め、下記のショップが一番安かったよ。送料も実質無料のようだ。急いで〜!







東京マルイ M4MWS続報



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日本海軍航空隊 撃墜王 田中国義

 大正6年生まれで中国戦線以来の撃墜王である。中国戦線で13機を撃墜した。これは岩本徹三の14機に次いで多い。戦後は多くの雑誌等に寄稿しているため田中氏の名前を目にすることは多い。今日はこのエース田中国義についてみてみよう。まずはエース列伝から。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
支那事変有数の撃墜王として知られている。
大正6年佐賀県に生まれ、昭和9年海軍に入団、11年3月31期操練を卒業して大村空に配属されたが、支那事変の勃発により12年10月13空に転じ、上海に進出した。初空戦は樫村機の生還した12月9日の南昌攻撃時で、全弾を消費してカーチス・ホークとコルセア各1機を撃墜した。

 当時、戦闘機隊では、飛行機よりも搭乗員の数がはるかに多く、なかなか空戦の機会を得られなかったが、最若年の田中1空兵は戦運に恵まれ、最も多い6回の空戦に出撃して計12機を撃墜し、7月大村空に帰還した。その後、龍驤、鈴鹿空、鹿屋空を経て、16年10月1飛曹に進級して台南空に配属され、太平洋戦争に入った。

 12月8日のルソン島第1撃では、新郷飛行隊長の2番機として参加、P−40を1機共同で撃墜した。ついで蘭印に転戦んしたが、B−17攻撃に特技を示した。すなわち、17年1月24日午前バリクパパン上陸の船団上空を哨戒中、来襲したB−17の7機編隊を攻撃、被弾負傷したが、ひるまず数撃を加え、撃墜したB−17が列機と衝突して折り重なって墜落するのを確認した。

 また2月8日にはジャワ海上空で新郷大尉の指揮する零戦9機に加わって、東行するB−17(隊長ダフレーン少佐)の9機編隊を発見、左右に分かれて挟撃しつつ、3機ずつ順次に正面攻撃を加え、隊長機を含む2機を撃墜した。17年4月大分空教員に転じ、帰国したが、心臓弁膜症で戦場に出られず、筑波空、霞ヶ浦空の教官を経て終戦を迎えた。撃墜機数は17機(公認)
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 1937年10月、田中国義は13空付を命ぜられ初めての戦地へ行く。そこには黒岩利夫(13機撃墜)、赤松貞明(27機撃墜)等の古強者が多く、一緒に赴任した武藤金義、岩本徹三等は食卓番であったそうだ。岩本徹三の『零戦撃墜王』にも、

 「私たち三名、松村(百人?)、田中(国義)、それに私はおかん番である」(注はブログ著者)
 「商売繁盛の料理屋のコックよろしくいそがしい。酒も豊富だが、出ていくスピードも早い。」

 と食卓番時代のことを記している。それはそうと、田中は日中戦争で撃墜王となったのち、台南航空隊に配属され太平洋戦争開戦を迎える。比島・蘭印航空撃滅戦に活躍した。白眉なのはこの戦いにおいて難攻不落と言われるB17を2機同時撃墜したことであろう。その後も共同でB17を撃墜している。B17を大量に撃墜した田中は戦後、「B17撃墜に特技を発揮した」等、B17の撃墜が得意だったようなことを戦記物に書かれたことについて、


「あんなもの、得意なはずないですよ」


 と語っている。1942年教員配置についたが、心臓が悪かったためその後戦場へは出られなかった。撃墜数は17機とされているが、『零戦最後の証言』では個人撃墜14機、共同含め20数機としている。戦後は坂井三郎氏の紹介で会社経営を営む。2011年5月25日死去。雑誌『丸』等の寄稿に応じていたようで私が調べた限り、寄稿文には以下のものがある。


「特三物語」『零戦、かく戦えり!』文春ネスコ 2004年
『零戦最後の証言』光人社 1999年
「台南空のサムライ比島に突入せよ!」『伝承 零戦』第一巻 光人社 1996年
「私はこうして”空の要塞”を撃墜した」『伝承 零戦』第三巻 光人社 1996年
「初空戦など」『海軍戦闘機隊史』零戦搭乗員会編 原書房 1987年 
「空の要塞を叩き落とした零戦の闘魂」『丸』エキストラ版29巻 潮書房 1973年



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日本海軍航空母艦 赤城 1/700 日本海軍 戦艦 三笠 プラモデル 1/700 特シリーズNo.94 日本海軍航空母艦 飛鷹 昭和19年 プラモデル 1/3000 集める軍艦シリーズNo.1 戦艦 金剛 比叡 榛名 霧島/駆逐艦 白露型4隻 セット プラモデル 1/35アメリカ中戦車M4A1シャーマン アクセサリーパーツ付 1/35 WW.II ドイツ軍 ティーガーI 初期生産型 "ミハエル・ヴィットマン" HGBF 1/144 ガンダムアメイジングレッドウォーリア (ガンダムビルドファイターズトライ) 1/144 ハイスペックシリーズ Vol.01 F-16 ファイティングファルコン(1Box 10個入り) 1/24 MBT 陸上自衛隊10式戦車 1/700 海上自衛隊 護衛艦 DDG-173 こんごう (J60) HOBBY MASTER 1/72 航空自衛隊F-2A支援戦闘機 "スーパー改" 技MIX 技 (限定) ACL03 米空 F15E試作 技MIX 技AC205 米空 F-22 嘉手納 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.329 陸上自衛隊 10式戦車 35329 1/72 ミリタリーモデルキットNo.09陸上自衛隊 機動戦闘車(プロトタイプ) 1/35 陸上自衛隊 87式自走高射機関砲 高射教導隊 (G33) 1/72 ミリタリーモデルキットNo.SP 陸上自衛隊 73式特大型セミトレーラー"74式戦車付属" 1/700 特シリーズNo.86 日本海軍航空母艦 加賀 三段式飛行甲板仕様 1/700 日本海軍 駆逐艦 島風 最終時 1/700 日本海軍 飛行艇母艦 秋津洲 W50 1/700 日本海軍 特設巡洋艦 愛国丸 1943 1/350 艦船 No.20 1/350 日本海軍 駆逐艦 雪風 78020 1/72 WW.II 日本海軍 水陸両用戦車 特二式内火艇 カミ 海上浮航形態 (後期型フロート付き) 1944年 千島列島(塗装済み完成品) 1/700 ウォーターラインシリーズNo.556艦載機 陸上自衛隊ヘリコプタ-セット 88式鉄帽タイプ ヘルメット (フリッツ) M88 顎紐付け替え可能 自衛隊装備 サバゲー 1/35 陸上自衛隊 99式自走榴弾砲 砲弾追尾レーダー装備車 1/72 陸上自衛隊 90式戦車 第7師団 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ 陸上自衛隊74式戦車(冬期装備) 1/144 紫電改 343空 松山基地 2機セット 1/144シリーズNo.15 日本海軍 幻の超重爆撃機 富嶽 1/72 ウォーバードコレクション WB-37 晴嵐 1/144 大戦機 No.8 二式大艇 EASY MODEL 1/72 零式艦上戦闘機 52型 筑波海軍航空隊 1/72 96式艦上戦闘機 零戦艦上戦闘機五二型 零扇 USB式 卓上扇風機 川西 H8K2 二式大型飛行艇 12型 (1/72スケールプラスチックモデル) NP 5 川西 H6K5 九七式大型飛行艇 23型 (1/72スケールプラスチックモデル) NP 6 1/48 三菱F1M2零式水上観測機11型 1/48 傑作機 No.17 1/48 日本海軍 二式水上戦闘機 61017 1/48 傑作機 No.36 1/48 川西 水上戦闘機 強風11型 61036 COLT パイソン4インチ ニッケルジュピターフィニッシュ (モデルガン完成品) 東京マルイ S&W M&P9 ブローバックガスガン /対象年令18才以上 可変ホップアップ  【付属品:東京マルイ・ベアリング研磨0.2gBB(1600発) 、ガンキーホルダー】 東京マルイ FNファイブセブン ブローバックガスガン /対象年令18才以上 可変ホップアップ  【付属品:東京マルイ・ベアリング研磨0.2gBB(1600発) 、ガンキーホルダー】 東京マルイ ガスブローバック デザートイーグル.50AE クロームステンレス BBガスセット ロングレンジセット (本体+BB弾0.2g+ガス)
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