ミニマム情報戦記

ブログタイトルは思い付きでちょいちょい変わります。 でもここら辺でタイトル固定かなぁ。。。 銃&ミリタリーがメイン。 最近は軍事書籍の書評が多いみたい・・・。よいと思ったら拍手してね!それだけが心の支え・・・。

2015年01月

日本海軍航空隊 撃墜王 伊藤 清

 伊藤清は大正10年生まれ、3空で活躍した多撃墜のエースである。撃墜数は23機に及ぶ。しかし私にとっては未知のエースであった。台南空の搭乗員達は坂井氏の著書で有名であったが、同時期に航空撃滅戦を行った3空には戦中の記録を公表した人が少なかったというのが理由なのかもしれない。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年新潟県に生まれ、開戦直前の昭和16年11月12期飛練を卒業し、直ちに3空へ配備され太平洋戦争を迎えたが、当時の3空は大多数が飛行時間1000時間以上のベテランぞろいで、緒戦期には空戦出場の機会がなく、17年4月4日ポート・ダーウィン攻撃の初陣で1機を撃墜し、その後8月まで数次のダーウィン攻撃に参加して目ざましく成長した。

 9月、相生大尉の指揮する3空主力が南東方面へ一時転用されたのに伴ってラバウルへ進出し、11月上旬南西方面に復帰するまで、ガ島、ニューギニアの激烈な航空戦に参加した。

 南西方面に復帰すると、18年早春から11月まで、アラフラ海の防空とダーウィン進攻作戦に当たり、満2年の連続した戦場生活で、参加した空戦30回、撃墜破30機(撃墜17、撃破13)に達し、特別表彰を受けた。内地帰還後は、大分空筑波空の教官をつとめ、終戦を迎えた。戦後、加藤を改姓した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)
 

 しかし1999年、神立尚紀のインタビューによって伊藤氏の活躍が世間に知られることとなった。その他搭乗員達へのインタビューをまとめたのが『零戦最後の証言』である。それはそうと神立氏の功績により伊藤清の詳細を知ることができた。その内容も踏まえつつエース伊藤についてみてみたい。まずはエース列伝の記事から。


 伊藤清は1939年6月1日機関兵として横須賀海兵団に入団。約1年半勤務したのち、1940年11月、丙飛二期として土浦海軍航空隊に入隊する。ここで航空兵としての道を歩み始める。その後、大分空で戦闘機専修教育を受け、1941年11月3空に配属される。エース列伝にもあるように3空は当時、ベテラン搭乗員がキラ星のようにおり、中々出撃させてもらえなかった。


 初撃墜は1941年4月4日ということになっているが、伊藤によるとそれ以前に輸送機を撃墜したのが初撃墜だという。ポートダーウィン攻撃には6回参加したという。1942年9月〜11月までラバウルに派遣される。その後、再び南西方面に戻った。数次のポートダーウィン攻撃で、北アフリカ戦線でドイツ空軍に恐れられたイギリス空軍の有名なエース、コールドウェル少佐(28.5機撃墜)率いるスピッツファイア隊と激突する。伊藤はこのスピッツファイア隊の印象をこう語っている。


 「ま、弱かったですね。」


 1943年11月、伊藤は本土に戻り教員配置に付く。その時、約二年間の戦地勤務での戦果を表彰されている。そこには撃墜破32機となっており、内訳は撃墜23機、地上撃破9機である。エース列伝に撃墜17機とあるのは誤りであるそうだ。


 その後は本土で教員配置に付き終戦を迎える。総撃墜数23機であった。戦後は婿養子となり姓が加藤と代わった。2012年7月4日死去。因みに『全機爆装して即時待機せよ』を上梓している加藤清氏は、全くの別人である。



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日本海軍航空隊 撃墜王 上平啓州

 大正9年生まれ、甲種予科練1期を修了、中国戦線を経験した搭乗員である。同期には前田英夫(13機撃墜)、松田二郎(9機撃墜)がいる。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正9年横浜市に生まれ、横浜2中を卒業して、昭和12年9月創設された甲飛1期予科練に応募して合格、14年6月卒業して大分空、大村空、横空を経て、15年8月12空に配属され、漢口基地に進出した。16年3月14日の成都攻撃で羽切1空曹の2番機として勇躍出撃し、一挙に4機(うち不確実1)を撃墜した。

 16年10月台南空に転じ、開戦当日のルソン島攻撃で1機を撃墜したのを始めとして、比島、蘭印航空戦を転戦したが、17年4月新設の6空に移り、ミッドウェー進駐予定部隊に加わり空母隼鷹に搭乗してアリューシャン作戦に参加した。

 7月大分空に移ったが、翌年4月飛曹長に進級、10月381空に転属してボルネオ、セレベス地区の防空に当り、B−24迎撃戦では3号爆弾を活用して戦果を上げ、とくに19年9月5日のメナド迎撃戦では、単機でP−38を2機、B−24を5機(うち不確実2)撃墜する偉功をあげた。のちに負傷して本土へ帰還し、特攻隊の教官で終戦を迎えた。

 5尺7寸、18貫の大男で、甲飛を代表する名手であった。昭和35年海上保安庁のヘリコプターを操縦中、函館で墜死した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


身長5尺7寸というからメートル法でいうと170僉8什澆任麓禊廓悗高いくらいだが当時としてはかなり大柄だっただろう。上平は中国戦線で初陣を経験した後、台南空に配属され、太平洋戦争開戦を迎える。その後、新設の6空に配属される。

 教員配置の後に局地戦闘機部隊の381空に配属、防空戦に活躍する。珍しくラバウル航空戦を経験していないエースだ。台南空に配属はされていたが、ラバウル進出前に6空(のちの204空)に引き抜かれる。6空がラバウルに進出する直前に教員配置となり、その後381空に転属するという見方によっては面白い経歴である。

 ただ、ラバウル航空戦に参加しなかったから楽だったという訳ではない。381空は油田地帯の防衛が任務であったため戦闘は激烈であっただろうと想像できる。特攻隊の教員として終戦を迎えた。



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日本海軍航空隊 撃墜王 増山正男

 大正10年生まれ、操練49期を修了したエースである。太平洋戦争を生き抜いたが、あまり雑誌等に寄稿していないためか謎の多い搭乗員である。同期には小町 定(18機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、本多敏秋(9機撃墜)等がいる。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正10年長崎県に生まれ、昭和15年6月49期操練を卒業、佐世保空、14空を経て開戦当初から3空に属し、12月8日のルソン島攻撃を手始めに、比島、蘭印を転戦後、チモール島に前進して、18年4月、航空技術廠実験部のテスト・パイロットで帰国するまで、ポートダーウィン進攻作戦に従事した。

この間、17年9月から11月まで榊原喜代二少佐、相生高秀大尉の指揮下にラバウルへ分遣され、数次のガダルカナル島航空戦にも加入した。総飛行時間1540時間、撃墜機数17機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 増山正男の経歴については入手できる資料はエース列伝位である。そこから増山正男の経歴を推測してみた。あくまでも推測なので間違いはあるかもしれない。

 1939年11月49期操縦練習生修了。1940年6月大分空で延長教育を受ける。1940年1月、佐世保空に配属。ここでも訓練に明け暮れたものと推測される。訓練は大村空と佐世保空で行われたようだ。小町定は大村空で訓練を受け、増山正男は国分武一と共に佐世保空で戦闘機専修教育を受けたと推測される。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 但し、佐世保空も大村基地を使用しているので、どちらも訓練場所は大村基地である。1940年10月14空に配属された。この時点で14空は北部仏印ハノイに拠点を置き援蒋ルート遮断を目的とした昆明攻撃を行っていた。

 1941年9月14空解隊と共に3空配属され、太平洋戦争開戦時は比島・蘭印航空撃滅戦に参加。チモール島に展開してポートダーウィン攻撃に参加した。1942年9月〜11月までラバウル派遣。1943年4月本土帰還。航空技術廠実験部のテストパイロットとなる。



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日本海軍航空隊 撃墜王 本田稔

 本田稔は、2015年現在、御存命の数少ないエースの一人だ。本田稔は大正12年生まれ、甲飛5期出身である。同期のエースとしては高橋茂(10機撃墜)、鈴木博(8機撃墜)がいる。1942年1月飛練卒業というから太平洋戦争開戦後の戦中派エースということになる。まずはエース列伝をみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正12年熊本県に生まれ、開戦後の17年1月甲5期飛練を卒業して22航戦司令部付戦闘機隊に配属されたが、南方作戦はすでに終わり、空戦の機会はなかった。

4月、鹿屋空戦闘機隊(のち253空と改称)に転じ、南西方面の各基地を転々したのち9月ラバウル(のちカビエン)に進出し、翌年5月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加した。19年4月戦闘407飛行隊に転じ、10月比島へ進出、帰国後343空戦闘407飛行隊付に移り、本土防空戦闘で活躍し、終戦を迎えた。現在はMU−2のテスト・パイロットである。撃墜機数17機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 本田稔少尉は1939年9月甲種5期生として予科練に入隊。1941年4月谷田部空で操縦訓練を受ける。この時本田を担当した教官はオール先任搭乗員と言われた菊池哲生上飛曹(20機以上撃墜)であった。その後、大分空で戦闘機専修の教育を受ける。そして22航戦司令部付戦闘機隊に配属される。


 エース列伝にはこの間空戦の機会は無かったとしているが、本田稔著『飛行機野郎』によるとこの時に初撃墜を果たしている。その後、1942年4月、253空に配属され、9月にはラバウル航空戦に参加する。その後1943年5月までラバウル航空戦を戦い抜いた。その間、13機を撃墜したという。


 本土に帰還し、横空でテストパイロット。1943年春、大分空の教員配となる。1944年4月361空戦闘407飛行隊付となり隊長林喜重大尉の下、鹿児島基地で部隊の錬成を行った。その後、戦闘407飛行隊は221空に所属することとなり、捷号作戦の後、343空に編入される。


 その後343空として本土防空戦に活躍するのだが、本田少尉はかなり厳く二番機が務まる者がいなかったようだ。その本田少尉の二番機を務めたのがトッカン兵曹こと小高登貫(12機撃墜、共同撃墜105機とも)であった。小高はラバウルで数多くの実戦を経験しており、本田少尉の二番機を見事にこなしたようだ(小高登貫『あゝ青春零戦隊』)。



1/32 川西 N1K2-J 局地戦闘機 紫電改“後期型" (08236)


 本田少尉も小高のことは評価しており、後年インタビューで小高に触れ、

「彼とはラバウルで一緒でした。大変元気のある男で、操縦の腕前も素晴らしかったですね。とにかく私の列機を務めるのは難しかったはずですが、彼はよくやってくれました。とにかく私は正面攻撃をやるからついてくるのが難しかったんですよ・・・」(井上和彦『最後のゼロファイター 本田稔海軍少尉』

 と語っている。本田少尉自身も自分の列機につくことは難しいと理解していたようだ。その後、本田、小高共に343空で終戦を迎える。本田は戦後も飛行機に乗り続け総飛行時間は9800時間に達したという。最後に本田少尉のインタビューがNHKで無料公開されいるので是非観て欲しい。

NHK戦争証言アーカイブス



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日本海軍航空隊 撃墜王 斎藤三朗

 母艦戦闘機隊のエースとして著名である。大正6年生まれ。操練44期を修了した。初陣は中国戦線であった。その後1940年1月赤城乗組、1942年11月瑞鶴乗組、い号作戦、ろ号作戦共に参加する。さらに瑞鶴戦闘機隊としてラバウル航空戦に参加する。その後、各航空隊を転々としたのち252空に配属され、比島に進出。撃墜され不時着、救助されたのち本土に帰還した。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正6年山形県に生まれ、昭和9年海軍に入団、艦隊勤務についたが、14年1月44期操練を卒業して大分空、大村空で錬成教育を受けたのち、10月12空に配属され、漢口に進出したが、まもなく南支の圍州島基地に移り、相生大尉の分隊に属して12月30日および翌年1月10日の桂林攻撃に参加したのが初空戦であった。

 15年1月赤城乗組に転じ、ついで大分空、徳島空、築城空を経て、17年11月上飛曹進級と同時に瑞鶴乗組となり、18年1月末ガダルカナル島撤収作戦のためラバウルに進出した。2月1日瑞鶴戦闘機隊は、基地戦闘機隊と共に艦爆隊を直衛してツラギ沖の敵艦船を攻撃したが、この時の空戦でF4Fを共同撃墜して初戦果を飾った。

2月4日、7日も撤退船団の直衛に出撃して、それぞれ2機を撃墜した。ついで4月の「い」号作戦にも出動し、ガ島沖、オロ湾、モレスビー、ミルン湾攻撃に参加した。その後瑞鶴は本土へ一時帰投したが、7月トラック島に前進し、「ロ」号作戦のため11月1日飛行機隊をラバウルに派遣した。

 斎藤飛曹長は小隊長として2日、4日、8日、11日の迎撃戦および2日、3日のトロキナ岬攻撃に加わり、この間にP−38、F4U、B−25など8機(うち共同1)を撃墜した。こうして1週間の激戦で瑞鶴艦戦隊は7割以上の搭乗員を失い、13日トラックへ帰還したが、26日7機でルオット島に転進、12月3日タロア島に移動して防空任務につき、5日ルオットに帰投時、来襲した米艦載機と空戦、4機を撃墜したが、指揮官大山少尉以下4機を喪失した。

 翌日、中攻でトラックに引きあげ、徳島空に転任したが、7月戦闘317飛行隊付に転じ、茂原の252空に編入されたが、10月13日捷号作戦参加のため、笠ノ原、沖縄、台湾経由で比島に進出、24日の総攻撃に出撃したが、ルソン東方洋上で、米戦闘機と空戦、1機撃墜後被弾してラモン湾岸に不時着負傷した。

 そして陸軍警備隊に救助され、本土へ帰還したが、再起できないままに終戦を迎えた。飛行時間2118時間、撃墜機数は航空記録に確実18、共同および不確実6が記録されている。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)



 斎藤三朗が修了した操練44期には吉田綱素(14機撃墜)、金丸健男(12機撃墜)、山中忠男(9機撃墜)、矢野 茂(8機撃墜)等がいる。戦闘機専修者は17名でその内13名が戦死した。


 戦後は自身の経験を雑誌に度々寄稿している。「零戦白刃録」『太平洋戦争ドキュメンタリー 零戦虎徹』4巻がもっとも有名である。その他では「瑞鶴戦闘機隊」「台湾・比島沖」『艦隊航空隊』況稙編、「南溟の空に消えた瑞鶴零戦隊」『伝承零戦』第1巻等がある。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 総撃墜数は単独18機、共同6機である。艦隊戦闘機隊での経験が長いベテラン搭乗員であった。



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日本海軍航空隊 撃墜王 大木芳男

 大正5年生まれ、岩本、坂井等と同年兵である。海兵団入団後はすぐに搭乗員とはならなかったようで操練37期を修了した後、戦闘機搭乗員となった。日中戦争にも参加し、1940年9月13日の零戦初空戦にも参加した。そこで4機を撃墜したのが初陣である。その後、台南空に配属されラバウル航空戦を戦った。台南空は再編成のため本土に帰還し、再進出の際も台南空隊員として参加している。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正5年茨城県に生まれ、昭和8年機関兵として海軍に入団したが、のち整備へ異に転じ、12年7月37期操練を卒業して戦闘機操縦者となった。

15年7月横空から12空に転じ、9月13日の零戦隊の重慶空襲で、4機を撃墜したのが初陣であった。17年7月台南空に配属され、11月までニューギニア、ソロモン航空戦に参加したが、11月に本土へ引きあげ、翌年5月、251空のラバウル再進出でソロモンの戦場に復帰したが、6月16日ルッセル島上空の空戦で戦死した。総撃墜機数は17機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 大木芳男の出身期である操練37期は5名の戦闘機専修者がおり、その内大木を含め4名が戦死している。大木と共に零戦初空戦に参加し、唯一太平洋戦争を戦い抜いた三上一禧も37期の出身である。余談ではあるが、この三上氏、戦後は岩手県陸前高田で教材販売会社を経営されていたようだ。


 2011年3月11日の東日本大震災で被災したが何と、2015年1月現在、御健在である。強運の持ち主である。それはそうと大木芳男、台南空時代には8機撃墜のエース、大野竹好中尉(海兵68期)と親しかったようで二人でウイスキーを飲みながら星座について語り合った様子が大野竹好の遺稿にある。1943年6月16日に大木芳男がルッセル島上空で戦死した際、大野はかなりのショックを受けたようだ。




1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 その大野もまた2週間後、レンドバ攻撃で戦死する。大野から見た大木芳男は「勇敢なること鬼神のごとく、温和なること菩薩のごとく、機敏なること隼のごとく、私のもっともよき話し相手であった」(大野竹好「碑銘よ白き積乱雲の峰をかざれ」『私はラバウルの撃墜王だった』)という。


 撃墜数はエース列伝では17機となっているが、ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』では18機となっている。



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日本海軍航空隊 撃墜王 松場秋夫

 岩本、坂井等、著名な撃墜王の先輩にあたるエースである。操練26期を修了した。1936年11月、空母加賀乗組。この当時の加賀はすでに単層甲板に改装されたあとだった。その後支那事変が勃発。太平洋戦争では各飛行隊を転戦したのち、343空に配属される。そこで終戦を迎える。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正3年三重県に生まれ、昭和10年3月26期操練を卒業、終戦まで飛行生活10年をこえ、心技ともに円熟した老練操縦者であった。

11年11月加賀乗組後翌年支那事変が勃発し、8月16日上海上空における最初の空戦で、ダグラスO−38偵察爆撃機1機を共同撃墜したのが初陣であった。同年末霞ヶ浦空に帰り、龍驤、岩国空、元山空、大分空等を経て18年11月301空戦闘601飛行隊に転じ、翌年6月末硫黄島に進出、7月3、4日の迎撃戦でF6F6機を撃墜した。

 7月紫電編成の戦闘701飛行隊に転じ、T部隊に属して台湾沖航空戦、レイテ航空戦に参加、ついで343空に転じ、本土防空戦で2回も負傷するなど、終戦まで敢闘した。撃墜数18機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 松場は操練26期を修了する。同期には福井義男(9機撃墜)、佐藤仁志(8機撃墜)等がいる。中瀬正幸(18機撃墜)、羽切松雄(13機撃墜)、東山一郎(9機撃墜)と共に敵飛行場に強行着陸した大石英男も操練26期であった。


 戦後は雑誌への寄稿等はほとんど行わなかった。『海軍戦闘機隊史』に寄稿したのがほとんど唯一の寄稿である。



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日本海軍航空隊 撃墜王 中瀬正幸

 中瀬正幸は大正7年生まれ、乙飛5期予科練を修了したのち戦闘機搭乗員となった。乙飛5期とは太平洋戦争で中堅、ベテランとして活躍するクラスであるが、中瀬が活躍したのは主に日中戦争である。総撃墜数は18機で敵飛行場に強行着陸をして指揮所を焼き払う等、すごいエピソードを持っている。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正7年徳島市に生まれ、昭和9年第五期乙飛予科練を志望して横空に入り、13年3月飛練課程を終了して3空曹に昇進した。大村空を経て、13年末14空に配属され、半年支那戦線に出動したが戦闘の機会がなく、横空に勤務中、15年7月零戦隊の戦場進出第1陣として、漢口の12空に着任した。

 10月4日成都攻撃にあたり、東山市郎空曹長、羽切1空曹、大石英男2空曹とともに太平寺飛行場に着陸、指揮所を焼き払う壮挙に加わった。16年3月14日の成都攻撃では、初空戦ながら単機よくソ連製イ−15改6機(うち不確実1)を撃墜、5月26日の南鄭攻撃でも3機を撃墜した。

 9月には3空に転じ、開戦とともに12月8日の比島第一撃を手始めに、比島、蘭印航空戦で下士官搭乗員の中核となって敢闘したが、2月9日セレベス島マカッサル付近で、敵装甲車を銃撃中に被弾して壮絶な自爆をとげた。戦死とともに全軍布告、2階級特進の栄誉を受け、飛行特務少尉に昇進した。

 温和なスポーツ万能選手で、常に率先して行動し、その空戦技術には天才的な影があったといわれる。総撃墜数18機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 同期には角田和男(13機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、杉尾茂雄(20機撃墜)がいる。この乙飛5期、戦闘機専修者17名中太平洋戦争終戦時の生存者4名という凄まじい消耗であった。中瀬は上記のエース4名と共に大村航空隊に配属される。


 エース列伝では、その後、14空に配属されたとなっているが、角田和男『零戦特攻』では吉野俐と共に12空に配属されたとなっている。その後教員配置となり、15年7月、横山大尉指揮下にて零戦と共に中国戦線に戻る。10月4日には敵飛行場に強行着陸しマッチで火をつけて回るという攻撃を敢行した。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 太平洋戦争開戦時には3空に所属し比島、蘭印航空撃滅戦に参加する。1942年2月9日、地上銃撃中に戦死する。戦死後二階級特進。太平洋戦争開戦からわずか2ヶ月であった。
  


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日本海軍航空隊 撃墜王 岡野 博

 岡野博は大正10年生まれ、操練54期を修了した。日中戦争は経験していないが太平洋戦争開戦時には十分な訓練を受けての参加である。太平洋戦争を戦い抜いたのち、343空で終戦を迎えたという円熟の搭乗員であった。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正10年茨城県に生まれ、昭和13年6月横須賀海兵団に入団したが、16年5月54期操練を卒業、横空を経て9月千歳空に配属され、開戦時は、96艦戦でマーシャル群島の防空に当っていた。17年4月1空に転属し、5月下旬、山下丈二大尉の指揮下に増援部隊の一員としてラバウルの台南空に派遣され、11月原隊へ復帰するまで約半年、南東方面の激しい航空戦に参加した。

 この間岡野3飛曹は、6月25日モレスビー上空の初戦果を皮切りに、計6機(うち不確実1)を撃墜した。17年12月201空に転属して、ひきつづきマーシャル防空に当ったが、翌年3月本土に引上げ、松島基地で練成したのち、7月201空の南東方面進出により、空母雲鷹に便乗してブイン基地に前進、11月上飛曹進級と同時に331空に転じ、南西方面へ移るまで約4ヵ月連日の空戦に健闘、スコアを重ねた。

19年3月、331空から202空戦闘603飛行隊付けに移り、ビアク作戦に参加後、9月大村空に帰り、343空戦闘701飛行隊付で終戦を迎えた。総撃墜機数19機、戦後も日本国内航空の操縦士として健在である。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 岡野は大正10年生まれ、操練54期を修了した。同期には山崎市郎平(14機撃墜)がいる。この54期には戦闘機専修者が21名おり、内、終戦まで生き残ったのはわずか2名であった。岡野の経歴で面白いのは操練修了後、横須賀航空隊に配属されたことであろう。


 横空とは新型機の試験を受け持つ審査部を持つ海軍航空隊の殿堂であり、終戦まで練度を維持し続けた部隊である。当時新米パイロットであった岡野がなぜ横空に配属されたのかは気になるところだ。そして太平洋戦争開戦時には西沢広義等、のちのエース達が何故か多かった千歳空に所属していた。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 他の隊員の多くはその後ラバウルに進出したが、岡野は戦闘機隊が再設置された1空付を命ぜられたのちラバウルに派遣される。半年に及びラバウル航空戦を経験したのち局地戦闘機部隊331空に配属されたのち、機体にXナンバーを持つ「まぼろし部隊」202空に配属される。


 1944年9月、教員配置の後、源田実大佐率いる精鋭部隊、343空戦闘701飛行隊に配属される。この戦闘701飛行隊とは自身も撃墜王である鴛淵孝大尉(撃墜6機)が隊長を務める部隊である。後に日中戦争以来のベテラン搭乗員松場秋夫(18機撃墜)、中村佳雄(9機撃墜)等も配属される。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 この343空で終戦を迎え、戦後は民間航空機のパイロットとなった。その後の消息は不明であるが、御健在であれば、2015年現在で94歳となられる。



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日本海軍航空隊 撃墜王 長野喜一

 今日、紹介するのは長野喜一、あまり知名度は高くないが太平洋戦争でもあまりいない19機を撃墜したエースである。長野は大正11年生まれ。最後の操縦練習生である56期を修了した。まずはエース列伝からみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正11年静岡県に生まれ、昭和14年6月海軍に入団、16年7月18歳で56期操練を卒業、10月千歳空に配属され、開戦時は内南洋タロア島の防空任務についていた。17年6月2空(582空)に転じ、本土へ帰還したが、8月ラバウルに進出、翌年7月まで約1年、激烈な南東方面航空戦で健闘、公認記録だけで19機(うち不確実3)を撃墜し、582空のトップエースの座を占めた。

 なお582空は、18年3月以降個人記録の記入を中止しているので、後半期の戦果は不明であるが、通算すると20数機に達しているものと推定される。とくに17年10月25日のガ島上空空戦では、二神中尉の指揮する零戦8機の1機に加わり、高度200メートルで飛行場を旋回偵察後、地上機の銃撃を開始しようとしたところをグラマンF4F編隊に上方から奇襲包囲され、死闘の末、指揮官機を含む4機を失った。

 長野1飛兵は単機奮戦して、被弾10数発を受けながら、よく4機(うち不確実1)を撃墜、生還した。遺稿の中で20歳の長野は「この日は私が再度誕生した日といっても過言ではない忘れられない日」と書き残している。

 18年7月厚木空、ついで203空戦闘304飛行隊に転じ、翌4月北千島に進出、防空任務についたが、半年後南九州に移動、10月捷号作戦の発動により、台湾沖航空戦に出撃、台湾を経て22日比島バンバン基地に進出、連日のように敵艦船攻撃援護、レイテ進攻、基地迎撃戦に当ったが、11月6日バンバン上空の米艦載機迎撃で戦死した。総撃墜機数19機(公認)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 長野が修了した操練56期とは冒頭にも書いたが最後の操練であり、次期からは予科練に統合され、丙飛2期となる。ここで予科練について説明しておこう。予科練とは海軍飛行予科練習生の略称で1930年に成立した搭乗員養成課程であった。応募資格は高等小学校卒業程度の学力を有する14歳〜20歳までのむろん男性だ。


 当時の学制が分らないと予科練の制度は理解できない。当時は義務教育として尋常小学校があった。これは現在と同じで6歳から12歳まで教育を受ける。その後、進学する者は2年間の高等小学校、若しくは5年間の中等学校に通う。予科練は高等小学校卒業程度の学力が必要であった。





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 1937年に新たに旧制中学校4年生以上の者を対象に甲種予科練制度が発足する。これによりそれまでの予科練は乙種予科練となる。さらに1940年、海軍の部内選抜である操縦練習生も予科練に統合されて丙種予科練となる。因みにこの甲乙丙というのは学歴基準の序列であり乙、丙種予科練出身者にわだかまりを残すこととなった。


 長野喜一に戻ろう。長野は最後の操練56期を修了した。同期には台南空の撃墜王吉村啓作(12機撃墜)、河西春男(11機撃墜)、さらに水上機から陸上機に転科したエース、ジェロニモこと甲木清実(16機撃墜)、艦隊戦闘機隊のエース白浜芳次郎(11機撃墜)がいる。



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 長野は操練修了後、千歳空に配属されたのち、582空に配属され、1942年8月にラバウル進出する。この582空の戦闘については同時期に582空に在籍した角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。激烈なラバウル航空戦を生き抜き、1943年7月、厚木航空隊、203空と異動し、1944年11月6日フィリピンにて戦死する。



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日本海軍航空隊 撃墜王 羽藤一志

 wikipediaにやたら詳しい記事がある。撃墜19機のエースで活躍したのは半年足らずであった。乙飛9期出身であり、日中戦争は経験していない。太平洋戦争開戦時には弱冠20歳であった。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
台南空で「ポッポ」と愛称されていた白面の温厚な若年パイロットであったが、坂井三郎の列機をつとめ、地道にスコアを重ねていった。

大正11年愛媛県に生まれ、昭和16年10月乙9期飛練を卒業して、翌年二月台南空に配属され、4月ラバウル、ついでラエに進出して、10日のモレスビー攻撃で初戦果をあげていらい、ニューギニア、ソロモンに転戦、9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明になるまでの半年足らずに、19機(公認)を撃墜した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 羽藤は当初は千歳航空隊、第四航空隊、その後台南航空隊に配属された。予科練出身、終了後、千歳空、第四航空隊、台南航空隊という道は、奇しくもトップエース西沢広義と同じコースである。初戦果は台南空であったようだ。配属された1942年2月には未だ台南空は笹井醇一、坂井三郎が健在であり、トップエースで予科練の先輩西沢、太田敏夫等、名だたるエースが在籍していた。


 4月に初戦果を記録、その後スコアを重ねる。8月7日に米軍ガダルカナル島上陸、同日の空戦で坂井一飛曹は負傷して本土に送還される。さらに同月26日には笹井醇一中尉が戦死した。そして9月13日に羽藤は戦死する。戦死の状況はwikipediaにやたら詳しく書いてある。総撃墜数19機であった。



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日本海軍航空隊 撃墜王 杉尾茂雄

 乙飛5期といえば太平洋戦争で中核となった予科練のクラスだ。中瀬正幸(18機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、角田和男(13機撃墜)という撃墜王を輩出したクラスだ。その分、消耗も激しかった。乙飛5期戦闘機専修17名中、太平洋戦争を生き抜いたのはわずか4名に過ぎなかった。その内エースとして知られているのが2名、一人は2013年2月14日に亡くなられた心優しきエース、角田和男氏、そしてもう一人が今日紹介する杉尾茂雄だ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 宮崎県に生まれ、郷土延岡市のうんだ民間飛行家後藤勇吉の活躍に刺激されて、少年時代から飛行士を熱望し、昭和9年乙5期予科練に合格、13年3月飛練課程を終了した。翌年9月12空に配属され、中支戦線に出動したが、すでに航空戦は一段落した後で、中攻隊を援護して衡陽爆撃などに出動したが、空戦の機会にあわず、1年後本土に帰還した。

 16年4月ふたたび12空に転じ、漢口基地に進出したが、戦運に恵まれず、6月22日広元攻撃の際、輸送機1機を撃墜するにとどまった。10月新編成の3空に転じ、小隊長として比島、蘭印航空戦に参加した。12月8日のルソン島攻撃ではイバ飛行場を銃撃して地上砲火で被弾し、単機で帰途につき燃料0で高雄に帰着した。

 しかし12日のバタンガス上空空戦ではフィリピン人操縦士で編成された旧式機P−26の6機編隊を包囲し、列機と協力して4機(実際には2機)を撃墜した。また17年2月3日のスラバヤ上空の空戦では、先制奇襲の利を生かして小隊の3機で9機を一挙に撃墜した。

 4月にはチモール島に前進して8月まで数次のダーウィン攻撃に参加し、米空軍のP−40を圧倒したが、9月から11月までラバウルに分遣され、ガ島上空の熾烈な空戦を体験し、中隊長代理として活躍した。南西方面に復帰後飛曹長に昇進して、ダーウィン攻撃に参加し、18年4月に2年ぶりで故国の土を踏んだ。

 しかし、半年後には、海口空に転じ、丙飛練の練成に当る一方、19年春の南寧攻撃に出撃して、在支米空軍のP−40と空戦した。翌年5月神ノ池空に移って本土へ帰還し、9月には201空、20年5月には筑波空に転じ、紫電の教官として終戦を迎えた。地味ではあるが職人肌の名手で、撃墜機数は20機以上と推定される。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 年齢は不明であるが、予科練の応募資格は年齢14歳以上20歳未満であるから、最年少で入隊したとして大正9年生まれである。19歳で入隊ということはほとんどなかったようなので大正7年〜大正9年位の生まれであろう。さらに最年少もまた少ななったようである。

 乙飛7期の西沢広義、杉山輝夫が共に大正9年生まれであり、乙飛5期の撃墜王が全て大正9年生まれであるということから杉尾も大正7年生まれとみていいだろう。21歳で中国戦線に配属、23歳で太平洋戦争開戦といった感じであろうか。



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 日中戦争では空戦は未経験であったようだ。太平洋戦争では3空に所属した。3空とは横山保が飛行隊長を務めた部隊でのちのエースを多数輩出している。開戦時は台湾にあり、初戦期の航空撃滅戦は3空と坂井三郎等が所属する台南空で行われた。比島・蘭印航空撃滅戦終了後、台南空がラバウルに移動したのに対し、3空はチモール島クーパン基地に展開、一部部隊をもってアラフラ海防衛、オーストラリアポートダーウィン空襲を行った。


 杉尾はこのポートダーウィン空襲で活躍した。1942年9月〜11月にラバウル航空戦に参加した。1942年9月といえば米軍がガダルカナル上陸を行った翌月であり、米軍を撃退するために南東方面に兵力を集中させたのだろう。この時期の台南空には笹井中尉は8月に戦死してしまったが、西沢広義、太田敏夫といった『大空のサムライ』に登場する撃墜王達がまだ活躍していた(太田は10月に戦死する)。派遣終了後、杉尾は再びポートダーウィン攻撃に復帰した。



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 その後1943年4月に本土に帰還したとあるが、教員配置であろう。その後、海口空を経て1944年9月には201空に配属される。この201空はこの時期、特攻隊をかなり出した部隊であり、その時の状況は当時、201空に配属されていた同期の角田和男の著書『零戦特攻』に詳しい。


 その後、20年5月には教員配置となったようで筑波空教官として終戦を迎えた。撃墜数は20機以上となっている。エース列伝にも地味とあるようにあまり他の搭乗員の手記にも登場しない。経歴をみると撃墜スコアの多くはポートダーウィン攻撃、ラバウル派遣時に挙げたものであろう。



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潜水艦から発進する兵器〜日本の潜水艦は何でも積める〜

300px-I-15 日本海軍の潜水艦にはいろいろなものが搭載できる。これは前回ブログを書いていて気付いたことである。では日本軍の潜水艦には具体的にどのようなものが搭載された、若しくは搭載予定だったのだろうか。今回は趣向を変えて日本軍の潜水艦搭載兵器を特集してみよう。



1/72 零式小型水偵 E14Y エッチングパーツ付


 まず最初にあげられるのは零式小型水偵。これは有名。この零式小型水偵は世界で唯一アメリカ本土を爆撃した航空機なのだ。この任務を遂行したのは有名な藤田信雄飛曹長。1942年に2回空襲をしている。因みにこの潜水艦伊25はタンカーを撃沈するついでにソビエトの潜水艦も撃沈している。なぜこんなところにソビエトの潜水艦がいたのかはよく分らないけど、この攻撃、ソビエトにバレちゃったようだ。結局、大人の事情で表沙汰にはならなかった。



1/72 帝国海軍特殊潜航艇・甲標的 真珠湾


 続いて、潜水艦に搭載されていた兵器その2。甲標的。これは基本的には甲標的を運ぶための母艦があるんだけど、潜水艦搭載も計画されていた。後部甲板に積載可能だったようだ。あの人間魚雷回天も潜水艦の甲板上に搭載されていた。甲標的は特攻兵器じゃないけど現実的には航空機の搭乗により運用が難しくなっていた。潜水艦に潜水艦を搭載するというのも日本以外無いんじゃないだろうか。



1/48 傑作機 No.54 1/48 愛知 M6A1 晴嵐 61054


 そして晴嵐。偵察機からさらにグレードアップして、潜水艦に攻撃機を搭載することにした。これは伊号400型潜水艦に3機、伊号13型に2機搭載することが可能であった。以前の記事にも書いたけどこれって開戦当初に必要だった戦力な訳で・・・。



1/72 WW.II 日本海軍 水陸両用戦車 特二式内火艇 カミ


 日本の潜水艦は戦車も積んでしまう。水陸両用戦車、特二式内火艇。もちろん特三式内火艇も搭載することができる。できるというより搭載するのだ。やってできないことはない。そもそも潜水艦を使うというのは隠密作戦な訳で、そこに戦車で強襲上陸というのはイマイチ具体像がイメージできないが・・・。


運貨筒


 潜水艇が積めるのであればもちろん同じ潜水艇である運貨筒も積める。この運貨筒というのは物資輸送用の潜水艇だ。潜水艦によって曳航され目的地で切り離される。それを大発等で回収するのだ。南方で使用されたようだ。


S特部隊


 正式には呉鎮守府第101特別陸戦隊というらしい。これは潜水艦等で隠密裏に上陸を行い各種の特殊任務を行うという現在のアメリカのSEALチームと同様の発想で1944年に養成が始められた海軍特殊部隊だ。このまま日本海軍が存続していればSEALのような部隊が独自に日本でも編成されていただろう。


 以上のように日本海軍の潜水艦にはさまざまなものが搭載された。または搭載されるところだった。発想自体は革新的なものも多かったが、水陸両用戦車を搭載するという基本的に意味がないものもあった。この潜水艦を戦略の拠点にするという発想が出てくる背景には日本が海洋国家であったことと、同時に日本の国力が欧米、特に同じ海洋国家であるアメリカに対して劣っていたことが挙げられるだろう。正面切って戦うには国力の違いがありすぎる。そのための「搦め手」としての潜水艦運用であったのだろう。



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日本海軍航空隊 撃墜王 荻谷信男

250px-Nobuo_Ogiya_0 この撃墜王シリーズの記事に関しては私はwikipediaの記事を引用することはほとんどない。何故なら私の部屋に撃墜王の資料が山のようにあるからだ。私からしてみるとwikipediaの記事は内容が薄いのだ。いえい!それはそうとwikipedia、記事になっている搭乗員とならない搭乗員がいる。記事を書くとき一応はチェックするんだよね。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 んで、有名な撃墜王は当然記事になっている。無名な撃墜王は記事になっていない・・・はずであるが、そうではないようだ。今日紹介する撃墜王荻谷信男はあまり有名ではないがwikipediaに記事がある。それに対して撃墜マークでおなじみのエース谷水竹雄の記事はないのだ。うーん不思議。(画像はwikipediaより転載)


概要
 戦勢不振となった18年末から戦死する19年2月まで、3ヵ月に短い空戦生活にすぎなかったので、その名は部内にすらほとんど知られずに終わったが、ラバウル上空で彼がたてた13日間に18機というペースは、ノモンハン空戦の篠原准尉をしのぐ、日本最高の高密度撃墜記録である。

 荻谷は大正7年茨城県の剣士の家系に埋まれ、湊商業学校卒業後、一時剣士を志し、3段位にまで上ったが、結局、大空の戦士の道を選んで昭和13年海軍に入隊、15年1月48期操練を卒業して千歳空戦闘機隊に属し、開戦時は内南洋防空にあたったが、空戦の機会はなく、ついで281空に転じ、北千島に進出した。

 18年11月204空に移り、熾烈なラバウル航空戦に加入した。当時すでに26歳に近かった。初撃墜は、12月16日のマーカス岬攻撃時で、翌年1月末253空に転じるまでの間に連日の空戦で、24機(公認)を撃墜した。なかでも1月20日のラバウル迎撃戦では、単機よく5機(F4U×2、SBD×2、P−38×1)を葬っている。しかし2月13日の迎撃戦で、32個の桜の撃墜マークを付した荻谷機はついに帰って来なかった。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 荻谷は大正7年生まれ、西暦でいうと1918年。操練48期を修了した後、千歳航空隊に配属される。中国戦線は経験しなかったようだ。荻谷が配属された千歳航空隊には後にトップエースとなる西沢広義、ラバウルの撃墜王福本繁夫等が配属されていたが千歳航空隊はこんなもんじゃない。


 さらに輪島由雄(11機撃墜)、阿武富太(10機撃墜)、国分武一(11機撃墜)、山本留蔵(11機撃墜)、山下佐平(13機撃墜)、吉野俐(15機撃墜)、渡辺秀夫(16機撃墜)、志賀正美(15機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、長野喜一(18機撃墜)等が配属されているという何だかんだで凄い部隊なのである。



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 千歳航空隊はマーシャル諸島の防空任務ののちトラック島、ラバウルに展開し、後に搭乗員は台南空、204空に編入され熾烈なラバウル航空戦に加わり、エースとなっていくのだが、荻谷は違う。北千島に展開する281空に配属される。この281空、何故か岩本徹三がいるのだ。


 北千島で岩本達と鮭の捕獲をしたりして盛り上がっていたが、281空にも、とうとうラバウル進出の命が下る。その後、荻谷達281空搭乗員は204空、253空と異動し連日の航空戦を戦い抜いた。その間、13日間に18機撃墜というペースは尋常じゃない。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 エースとは5機以上撃墜したパイロットに与えられる称号だ。たった5機である。逆に言えば5機を撃墜することが非常に難しいということである。ほとんどのパイロットは5機も撃墜できない。それを荻谷は2週間弱で18機撃墜したのである。これがどれだけすごいことなのかは分かって頂けると思う。



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日本海軍航空隊 撃墜王 赤松貞明

200px-Sadaaki_Akamatsu すげーよ。全くすげーよ。ん?何がすごいって。今日紹介するのは撃墜王の中の撃墜王、私の大好きな岩本徹三のさらに上を行く大先輩、赤松貞明師匠だ。んで、冒頭の「すげーよ」は何がすごいかって?それは赤松貞明の撃墜スコアでもエピソードでもない。


 wikipediaの記事の長さがすげーのだ。この赤松貞明、海軍航空隊の中でも名物男だった。むしろ珍獣的なポジションであったともいえる。豪放磊落、縦横無尽、見敵必殺、天地無用、完全無欠、焼肉定食・・・。とにかく名物男なのだ。その結果、戦後70年経た現在でも妙に人気があるパイロットなのだ。


 今日はこのエース赤松貞明についてみてみたい。まずwikipediaの写真がデカいし怖い。この人、撃墜王というだけではなく武道の達人だからね。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 明治43年高知県に測候所長を父として生まれ、海南中学校卒業後海軍を志願し、昭和3年佐世保海兵団にはいり、7年3月第17期操練を卒業した戦闘機操縦者の古豪であった。

 赤城、竜驤、加賀乗組、横須賀、大村各航空隊を経て、支那事変勃発後の12年12月13空に配属されて、中支戦線に出動したときは、27歳の1空曹先任搭乗員であった。13年2月25日の南昌攻撃で一挙に4機を撃墜するなど、13年9月に蒼竜乗組に転じるまで11機を撃墜し、勇名をはせた。

 16年4月空曹長に昇進し、太平洋戦争では3空に属して比島、蘭印を転戦、17年5月本土に帰還した。後18年7月331空に転じ、12月のカルカッタ攻撃に参加したが、まもなく本土に帰還し、厚木の302空で終戦まで雷電に搭乗して、帝都防空戦に従事した。

 戦闘機生活14年、飛行時間も6000時間を越え、奇行と豪傑ぶりで部内に有名な存在であった。スコアは自称350機であるが、実数は27機程度と判定される。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 あまりにもwikipediaの記事が長いので引用はしない。みたい人はこちらへ。赤松貞明は戦闘機隊の古豪という言葉ばぴったりだ。明治生まれで操練17期出身。太平洋戦争時の超ベテランパイロットの岩本徹三が操練34期、坂井三郎が38期、原田要が35期というからその古豪ぶりが分るというものだ。





 赤松中尉は日中戦争で11機を撃墜。日中戦争ではトップクラスの撃墜数だ。一番は岩本徹三の14機。著書の「わが無敵空中戦法」(『トラ・トラ・トラ』所収)では撃墜350機を主張。これは世界最高記録であるドイツ空軍のエース、エーリッヒハルトマンの352機撃墜を意識したものだと思う。赤松中尉はこの本の中で日中戦争での撃墜数を242〜243機と主張している。記録には残っていると書いているが無論記録などない。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 因みにこの赤松貞明の寄稿文を載せている『トラ・トラ・トラ』、他にも世界でただ一人アメリカを爆撃した男、藤田信雄中尉が寄稿している貴重な文章がある。アマゾンでリンクを貼ろうと思ったらやはり売ってなかった。もう絶版だし、内容が内容なだけに人気があるようだ。もしもどこかで見つけたら絶対に購入した方がいい。最悪、せどりが出来る。


 それはそうとこの赤松中尉、太平洋戦争では撃墜スコアを伸ばすのが困難だったようだ。理由は初戦は味方が多すぎ、後半は味方があまりにも少なすぎたからだという。結果、赤松中尉の太平洋戦争での撃墜数は百数十機程度しか撃墜できなかったようだ。



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 この話だけをみると赤松貞明とはただのインチキ野郎じゃねーのか?という話になるがそうではない。赤松中尉は大言壮語であるが実績も十分にある超エースなのだ。因みに坂井三郎は撃墜王になるタイプというのは有言実行型であり、時として大言壮語実行型も撃墜王に多いという。


 確かに岩本徹三は腕も立ったが口も達者だったと小町定に言われるほど大言壮語だった(実際、岩本も自身の撃墜数を216機と言っている)。坂井三郎自身も撃墜数64機を主張(記録に残っているのは28機)、『大空のサムライ』にもフィクションが多いという。しかし彼らは多撃墜エースであったことは間違いない。大言壮語している人が必ず実力が無いとは限らないのだ。



1/48三菱 J2M3 局地戦闘機 雷電 21型


 この赤松貞明中尉、太平洋戦争では3空に所属、比島、蘭印航空撃滅戦に参加した後、331空に配属、その後302空に配属された。赤松中尉の経歴の中で一番有名なのはこの302空時代であろう。不評だった局地戦闘機雷電を自在に操った。元々局地戦闘機とは対大型機用であり、戦闘機との空中戦は不向きであった。


 しかし赤松中尉はその雷電で当時、世界最高の万能戦闘機と言われたP51マスタング75機に単機で空中戦を挑み1機を撃墜したという、凄すぎて笑っちゃう位の驚異的な戦果を挙げた。この戦闘はアメリカの戦死研究者ヘンリーサカイダ氏によって調査され撃墜が事実であることを確認した。



1/32 三菱 J2M3 局地戦闘機 雷電21型 第302航空隊 08233


 戦後はアルコール依存症となり、けっこうグダグダな人生を送ったのち1980年肺炎で死去した。70歳という死ぬには少し若すぎる年齢であったが、専門家、プロフェッショナルとは人生を全てその道に賭けた人であり、全て賭けたのだからその道から外れれば何もない。真のプロフェッショナルであったともいえる。


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日本海軍航空隊 撃墜王 笹井醇一

200px-Ens_Junichi_Sasai_May1941 東洋のリヒトホーフェンいわれたというか自分が目指したというか、『大空のサムライ』を読んだ人には有名な撃墜王、笹井醇一についてみてみたい。笹井は日本海軍の撃墜王としては珍しく海軍兵学校を卒業した士官だった。最初はボンクラだったが坂井の指導の下、めきめきと技術を上げていったというのが『大空のサムライ』に書いてある笹井の姿だ。『大空のサムライ』はフィクションが多分に含まれるようなので実際はどうかは分らない。因みにリヒトホーフェンとは第一次世界大戦時のドイツの撃墜王、80機を撃墜した「レッドバロン」、リヒトホーフェン男爵のことだ。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
「ラバウルのリヒトホーヘン」と言われた海兵出身士官中のトップエースで、坂井、西沢、太田らの名手をひきいた笹井中隊の活躍は、坂井三郎の名著に生き生きと描き出されている。

大正7年、海軍造船大佐笹井賢二の長男として東京に生まれた。幼時は病弱であったが、東京府立一中進んだころから健康となり、柔道の有段者となった。昭和14年海兵第67期を卒業し、開戦直前の16年11月第35期飛行学生教程を修了して直ちに台南空へ配属され、早くも12月10日のルソン島進攻に出撃したが、エンジン不調で引き返した。

初撃墜は17年2月3日ジャワ上空の空戦で記録した。4月ラバウルに進出したころから急速に空戦技術を向上し、スコアも急増した。しかしガダルカナル航空戦の初日に片腕の坂井三郎を失って間もない8月26日、列機を指揮してガ島に進攻、グラマンF4F15機と交戦したのち未帰還となった。その最期は確認されてないが、米海兵隊のエースであるマリオン・カール大尉に撃墜されたものと推定される。

戦死直前の手紙で笹井は、撃墜54機と報告し、まもなくリヒトホーヘンの記録(82機)を破ることを予告していたが、公認記録としては27機にとどまっている。戦死後その殊勲は全軍に布告され、2階級特進の栄誉を受け、海軍少佐に任じられた。

笹井は、海兵同級生から軍鶏(しゃも)と呼ばれたように、負けず嫌いで旺盛な闘志にあふれ、率直、純情名性格の典型的な戦闘機パイロットであった。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 笹井は兵学校時代、軍鶏と呼ばれたように気の強い性格だったようだ。これは戦闘機パイロットに全体的にみられる個性のようなものだ。ただ、旺盛な闘志を持ち、気の荒い性格の人間のみが撃墜王なる訳ではない。非常に温和な性格で撃墜王となった搭乗員も多い。


 それはともかく、笹井は海軍兵学校67期。太平洋戦争の開戦前に実戦部隊に配属された新米士官であったことは間違いない。一つ上の66期は一年前に卒業し、実戦部隊にすでに配属されていたからこの一年は大きい。海兵67期以降は太平洋戦争という激しい戦闘で士官としての経験、技量を積んでいくしかなかったのである。



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 この海兵67期、68期、69期というのは太平洋戦争において現場指揮官として最前線に立った。重宝された反面、消耗も著しかった。67期でいえば、笹井醇一(54機撃墜)、山口定夫(12機撃墜)、小林保平(10機以上撃墜)、中川健二(8機撃墜)という撃墜王を輩出したが戦闘機にすすんだ23名の内、20名が戦死、死亡率87%という壮絶なものだった。


 68期、69期も同様で68期は28名中23名が戦死、死亡率82%、69期は48名中生き残ったのはわずか7名であった。死亡率85%。70期になると少し下がるがそれでも死亡率77%であり、前線指揮官として活躍した61期~72期までの海兵出身士官の死亡率は尋常ではない。
 


1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 それはそうと笹井が所属していた台南空は、西沢広義、坂井三郎、太田敏夫等々、キラ星の如くエースを輩出した部隊であり、技量は東洋一と自負するほどであったという。この面からみれば笹井は部下に恵まれていたともいえるが、本人の努力があったのは考えるまでもないだろう。結果、高い技量を持つに至ったようだ。さらに人望も優れていたようで部下には随分と慕われたらしい。


 両親への手紙では54機撃墜と報告しているが公文書に残されている撃墜数は27機であるという。どのみち笹井が実戦に参加していたのは戦闘機の性能、搭乗員の練度共に日本軍が勝っていた初戦期であり、54機は過大かもしれないが、多撃墜搭乗員であることは間違いない。



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日本海軍航空隊 撃墜王 石井静夫

 今日、紹介するエースは石井静夫。操練50期出身であった。福岡県出身で1941年4月〜1943年10月までと2年半の短期間であったが29機を撃墜した。操練50期だと大体初陣は太平洋戦争なのであるが、この石井静夫は中国戦線が初陣である。太平洋戦争開戦前までに3機を撃墜したというのだから運と才能に恵まれていたのだろう。まずは概要をみてみよう。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正9年、福島県の農家に9人兄妹の8番目として生まれ、昭和12年海軍に入隊、整備兵から操縦に転じ、15年6月50期操練を卒業、翌年4月12空に配属され、中支戦線に出動した。この時期にはめぼしい空戦はほとんどなかったが、石井3空曹は戦運に恵まれ、5月22日成都攻撃時にSB爆撃機1機を撃墜して初戦果をあげ、10月台南空に転じるまで3機のスコアに達した。

 太平洋戦争では、比島、蘭印航空戦に活躍、17年4月大村空に転じたが、9月準鷹乗組となって南東方面に出動、ソロモン、ニューギニア戦線を転戦、18年9月204空に移り、ブイン、ラバウルの熾烈な攻防戦に殊勲をたてたが、10月24日ラバウル上空の迎撃せんで戦死した。

 石井は東北出身者には珍しく出足の早い俊敏なパイロットで、とくに大型機撃墜を得意とし、18年1月ウエワク船団輸送の援護時は、来襲したB-24を単機で2機葬っている。戦死直前の1ヵ月半における活躍はとくにめざましく、17機(うち共同4機)を撃墜した。全期間を通じての石井の総撃墜数は29機(公認)に達している。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 毎回気になるのだが、このエース列伝の「公認」というのはあたかも日本海軍が個人撃墜をスコアとして認めていたニュアンスがあるが、日本海軍は個人撃墜数を評価の対象にはしていなかったようである。外国だと昇進の対象になるようだが。このエース列伝での公認というのは「公文書に記載されている撃墜数」という意味であることに留意されたい。


 因みに公文書とは主に『飛行機隊戦闘行動調書』のことで当初は個人撃墜戦果も記載していた。のちにチームワークを重視するという観点から個人撃墜数は記載されないようになったという。ただ全部隊が以後、個人撃墜数を全く記載しなくなったのかというとそれも違うようで部隊によっては記載されていたりもする。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 石井静夫は中国戦線で活躍したのち、太平洋戦争では台南航空隊に所属してフィリピン、蘭印航空撃滅戦に参加している。その後、本隊がラバウルに進出する際、新郷英城大尉以下一部搭乗員と共に本土に帰還している。大村航空隊で教員配置の後、母艦乗組を命ぜられる。この頃、空母部隊はミッドウェー海戦で主力空母赤城、加賀、飛龍、蒼龍を一挙に失い、残存空母を以て再編成を行った。


 第一航空戦隊は翔鶴、瑞鶴、第二航空戦隊は隼鷹、飛鷹、龍驤である。石井は、1942年9月第二航空戦隊所属隼鷹乗組となり、激闘の南東方面ラバウルに進出した。1943年9月、ラバウルに展開する204空に異動した。当時、251空と改称された古巣の台南航空隊が再編成ののち再びラバウルに進出していたが9月に夜戦隊に改編になった。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 夜戦隊に改編されたことにより零戦隊の搭乗員達は同じくラバウルに展開する201空、253空に転属していった。石井が204空に着任した1943年9月時点では西沢等、台南空の生き残り搭乗員達がまだラバウルにおり、石井にとって懐かしい顔ぶれが揃っていた。


 その後、10月24日ラバウル上空の迎撃戦で戦死する。総撃墜数は29機、中国戦線、母艦搭乗員を経験した貴重な搭乗員であった。



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日本海軍航空隊 撃墜王 石原 進

 知名度は激烈に低いが戦前派エースの最後のクラスである。総撃墜数は30機以上と言われるが記録に残っているのは16機のみである。東洋一と自称した台南空、艦爆との混成部隊である582空、ラバウル航空戦の主力204空、まぼろし部隊と称された202空と部隊を渡り歩いた。最後は呉防衛の332空に配属され終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊のパイロットとなり、事故で殉職してしまったので世間に知られることがあまりなかったが練度の高いエースであった。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年愛知県に生まれ、昭和13年10月甲飛3期生として海軍に入り、16年4月飛練課程を卒業して新編の1空付に発令され鹿屋に赴任し、7月漢口に進出したが、上空哨戒だけで空戦はなく、9月鹿屋に復帰した。10月台南空に転じ、開戦と共に比島、蘭印航空戦に参加した。

 開戦第1日の12月8日石原2飛曹は、若尾中隊長第3小隊の2番機としてクラーク基地に銃撃を加えたが、10日にはデルカルメン上空の空戦で初戦果をあげた。17年4月徳島空教員で帰国したが、18年6月582空付に転じ、南東方面に出動、まもなく204空に移り、主としてブイン、ラバウルを根拠に、激烈な航空進攻、迎撃戦に活躍した。とくに大型機撃墜を得意とし、10月18日にはラバウル上空でB−26中爆3機を11月2日には同じく3機を撃墜している。

 12月202空に転じて南西方面に移り、翌年3月トラックに移動、5月末ビアク作戦に参加後、米軍のマリアナ進攻により、ヤップへ前進、6月18日および19日サイパン沖の米艦船攻撃に出撃、とくに18日には列機とともに敵戦闘機と空戦、共同で4機を撃墜した。7月呉空に転じて本土へ帰還、8月以降呉地区防空の332空で終戦まで零戦および雷電に搭乗、B−29迎撃に当りつつ終戦を迎えた。総撃墜機数16機(公認)。戦後、航空自衛隊のジェット・パイロットになったが、事故で殉職した(3空佐)。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 石原は大正10年、西暦1921年生まれである。この大正10年生まれには撃墜王が多い。太平洋戦争開戦時には20歳で終戦時は25歳というパイロットとしては若干若くはあるが、時代が20歳の若者を熟練搭乗員に育て上げたといっていい。同年のエースとしては、32機撃墜の杉野計雄(32機撃墜)、島川正明(8機撃墜)、大野竹好(8機撃墜)、神田佐治(9機撃墜)、国分武一(14機撃墜)、関谷喜芳(11機撃墜)、佐々木原正夫(12機撃墜)、中谷芳市(16機撃墜)、大原亮治(48機撃墜)、伊藤清(17機撃墜)、増山正男(17機撃墜)、岡野博(19機撃墜)、白浜芳次郎(11機撃墜)、菅野直(25機撃墜)、堀光雄(10機撃墜)等、エースだらけである。


 ただ、年齢は同じでも出身によって実戦経験の長さは異なる。大正10年生まれは海兵では69期、70期、甲飛では3期、4期、乙飛では9期、10期、操練・丙飛では2期が一番多い。石原は大正10年生まれで実戦に参加したもっとも早いクラスであろう。石原以外のほとんどのエースは太平洋戦争が初めての実戦であった。しかし石原は中国戦線では空中戦はしていない。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 開戦時は台南空に所属し、航空撃滅戦を展開する。その後は上記のように多くの航空隊を転々とし着々とスコアを上げていった。1943年12月、204空から多くのベテラン搭乗員が253空に移ったが、石原は202空への転属となった。この202空とはポートダーウィン空襲を行った3空が1942年11月の改変で名称変更されたものであり、この時期に至っても高い練度を維持し解隊するまで無敗だったといわれる海軍航空隊でも稀有な航空隊であった。1944年7月、本土に戻り呉防空の局地戦闘機部隊332空に配属され、局地戦闘機雷電で以て本土防空戦に活躍した。


1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 戦後は航空自衛隊に入隊し再びパイロットとしての道を歩むが事故により殉職する。撃墜数は30機ともいわれる。公式記録では16機が確認できる。


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日本海軍航空隊 撃墜王 谷水竹雄

 谷水竹雄は何故か妙に有名な撃墜王である。丙飛三期出身、撃墜32機とも18機とも言われている海軍航空隊のエースである。著書は無く、インタビュー等もあまり受けなかったようだ。優秀者が選抜されるという母艦戦闘機隊隊員としてラバウル航空戦に参加。戦争後半のエースをキラ星の如く輩出した204空、253空に所属した撃墜王である。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 昭和17年3月に丙3期17期飛練を卒業して、4月に6空に配属された戦中派パイロットである。6月、空母春日丸乗組となり、18年2月翔鶴に転じ、11月ラバウル基地に進出、2日の迎撃戦でP−38を2機撃墜したのが初陣であった。その後もラバウルに残留して翌年3月台南空に移るまで、4ヵ月の間連日の迎撃戦で活躍した。

 台南空では教員として練成に当る一方、B−24迎撃にあたった、8月31日の夕食後、大陸からB−24十数機が台湾へ向かった、との情報が入った。戦闘指揮所で待機した谷水上飛曹は、高雄方面からの対空射撃音を聞いて零戦で発進、探照灯に照らし出されたB−24(第14航空軍・第308爆撃航空軍所属機)を前下方から攻撃し、まず左翼内側エンジンから火を吹かせた。

 さらに反転して斜め後方から下方攻撃をかけて止めを刺し、6個ほどの落下傘が飛び出すのを確認、B−24は火だるまとなって高雄付近に墜落した。そして台湾沖航空戦の防空戦闘に参加した。11月アモイ沖で船団護衛中、P−51に奇襲されて被弾炎上、落下傘降下着水したが、火傷を負って入院した。19年末本土へ帰り、終戦まで203空に属し、九州の防空戦闘および沖縄作戦に参加し、終戦を宇佐基地で迎えた。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 著書は無いが「愛機零戦で戦った千二百日」という長編の手記を雑誌『丸』に寄稿している上に当時の搭乗員の記録を読むと頻繁に登場するので零戦の撃墜王おたくとしては馴染みである。因みに谷水竹雄氏の上記の手記は『零戦搭乗員空戦記』に所収されている。ということで谷水飛曹長の経歴をみてみよう。(画像はwikipediaより転載)


 1942年3月に丙飛三期を修了後、同期でありのちの撃墜王杉野計雄と共に第六航空隊に配属される。のちの204空だ。ミッドウェー海戦の陽動作戦であるアリューシャン作戦に参加した後、杉野と共に教員配置ののち、杉野と共に空母大鷹に配属される。その後杉野と共に空母翔鶴に配属、15機撃墜のエース岡部少尉の小隊の二番機となる。因みに共に配属された杉野は小林保平大尉(10機以上撃墜)の二番機となる。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 その後、ろ号作戦に参加。1943年12月、杉野と共に253空に異動となる。この253空には同時期に岩本徹三、小町定、荻谷信男等のエースが配属された。ラバウル航空戦も終盤であり、もっとも激しい時期であった。谷水がいた期間は2〜3ヶ月であったが、この時期のラバウルは他の戦場の何倍もの重みがある。1944年2月、台湾の台南航空隊に異動になる。ここで丙飛訓練生時代から一緒に移動し、お互いに「ピーナッツ」と呼んだ親友杉野飛曹長と別々の航空隊に異動となる。


 台南空での教員配置ののち谷水は本土に帰還する。この頃には特設飛行隊制度に変更されており、谷水は203空戦闘308飛行隊に配属され、戦闘312飛行隊、そして伝説の飛行隊戦闘303飛行隊に配属される。因みに伝説というのは私の中だけの話だ。



1/72 零戦シリーズNo.02零戦五二丙型谷水上飛曹搭乗機 (塗装済み完成品)


 プラモデル等で有名な撃墜マークを背にした写真はこの当時のものである。この戦闘303飛行隊は343空の各飛行隊に比べれば知名度は低いが、西沢広義、岩本徹三、谷水竹雄、近藤政市等、著名なエース達が在籍した部隊である。因みに岩本と西沢は入れ替わりになっており、同時期に在籍してはいない。


 谷水は太平洋戦争を戦い抜いた。近年まで御存命だったが2008年3月12日逝去された。



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日本海軍航空隊 撃墜王 杉野計雄

Kazuo_Sugino 今日紹介するのは32機撃墜のエース杉野計雄である。杉野飛曹長は基本的には母艦戦闘機隊として活躍した人物だったようだ。丙飛同期の谷水竹雄飛曹長とは丙飛時代から1944年2月まですべての転勤が一緒だったという珍しい関係だった。著書の中でも「私達はピーナッツのようだ」(二人で一つという意か)と語り合ったという。仲も良かったようだ。まずは杉野飛曹長の経歴からみてみよう。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正10年山口県に生まれ、セメント会社職工から海軍を志願して昭和14年6月海軍に入団し、16年2月丙3期予科練に入り、17年3月17期飛練課程を終了、17年4月6空に配属された。
 ミッドウェー作戦には、占領後駐屯する予定で空母赤城に乗り組んだが、空戦の機会はなく、母艦沈没後、海中から救助され生還した。

 7月小型空母春日丸乗組みに転じ、船団護衛、飛行機輸送の任についたのち、10月大村空教員に移ったが、18年2月空母翔鶴乗組みを命じられ、トラック島に進出した。以後、分隊長小林大尉の下で空戦、戦闘爆撃法の猛訓練を受けたが、11月艦隊航空隊の進出に伴いラバウルに前進、本隊の引揚げ後も、253空に残留して19年3月内地帰還まで連日の迎撃戦に活躍した。

 初陣は11月2日の空戦で、3機を撃墜した。本土帰還後は教員として筑波空等で勤務した後、19年8月634空に転じ、台湾沖、比島航空戦に参加し、20年2月台湾に引上あげ、ついで博多空の特攻教員として終戦に至った。

 空戦歴が、18年末以降なので、あまり知られていないが、残存する航空記録で総飛行時間1994時間、戦闘飛行495回(うち空戦約100回)、撃墜32機と記録されている。戦後は海上自衛隊に勤務した。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 杉野飛曹長は1921年山口県に生まれる。1939年海軍に入隊。1940年駆逐艦黒潮艤装員、完成後乗組、1941年丙種予科練三期生となる。1942年3月、六空に配属される。ミッドウェー海戦に参加したのち1942年7月空母大鷹乗組。1942年10月大村空教員配置。1942年11月佐伯空。1943年4月空母翔鶴乗組。8月トラック進出。10月ラバウル進出。1943年12月253空編入。1944年2月大分空教員。4月筑波空。8月634空所属にて台湾沖航空戦、比島航空戦に参加する。その後は本土にて教員配置兼特攻隊員として終戦を迎える。


 杉野飛曹長は1997年に自伝『撃墜王の素顔』を上梓する。その時の私はちょうど撃墜王の記録を読み漁っていたころでどストライクだった。この本を店頭で見かけた時の感激は今でも忘れない。何が感激だったかというと杉野飛曹長がまだ生きていたということだ。当時はまだインターネットも今ほどの情報量もなく、撃墜王の名前などはほとんど出て来なかった。岩本徹三ですら2~3件ヒットという時代であった。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 そんな時代だったので戦争を生き抜いた撃墜王の生死については書物からの情報しかなかった。当時の私はまだ『日本海軍戦闘機隊付エース列伝』を入手しておらず、『日本海軍戦闘機隊付エース列伝』を元にした中途半端な撃墜王ランキングによって32機撃墜の杉野飛曹長の存在は知っていた。そこに自伝が登場したのである。この感激、恐らく誰も分らないと思う。


 因みに『日本海軍戦闘機隊付エース列伝』は、後に神保町の文華堂で入手した。1984年当時2500円の本がプレミアが付き、何と2800円となっていた。物価を考えると値段は下がっている。感激も何も要するに世間で撃墜王で盛り上がっているのは私だけだった。



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撃墜王の素顔―海軍戦闘機隊エースの回想 (光人社NF文庫)


 今回、記事を書くということで『撃墜王の素顔』を読み直してみたが、私の印象ではラバウルの撃墜王であったが、杉野飛曹長は意外にも母艦経験が多かった。ろ号作戦でラバウルに進出したのち1943年12月に253空に転属になる。岩本徹三、小町定、福本繁夫等、この時期には様々な部隊から253空に搭乗員が配属されていたようである。


 1944年2月に杉野飛曹長は岩本、小町等253空の主力と共にラバウルを後にしトラック防空に活躍する。因みに72機撃墜と言われるエース福本繁夫はラバウルに残留した。その後、寄せ集め零戦を指揮し戦ったようである。その後は大分で教員配置ののちまたもや艦隊戦闘機隊隊員として実戦に参加、本土で教員配置で終戦を迎える。戦後は職を転々としたのち海上自衛隊に入隊、佐官で退官する。1999年8月死去。


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日本海軍航空隊 撃墜王 杉田庄一

200px-Shouichi_Sugita 今日、紹介するのは、日本の撃墜王としてトップクラスに有名な人、撃墜王杉田庄一である。杉田は大正13年新潟県に生まれる。総撃墜数は70機、共同撃墜40機と言われている。これは杉田が戦死した時、全軍に発せられた布告分に記載されている数字なので公認といえば公認なのかもしれない。しかし太平洋戦争当時の混乱した戦闘の中では撃墜の確認は必ずしもできたとは言えない。欧米式に共同撃墜を1/2と計算すると撃墜数90機となるが、少し多すぎる気がする。小町氏に至っては撃墜50機、60機と撃墜したというパイロットは他人の撃墜戦果を自分の戦果に含めてしまっているという(川崎 浹『ある零戦パイロットの軌跡』)。それはそうと杉田の概略をみてみたい。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正13年新潟県の山村に生まれ、農学校を中退して昭和15年で海軍に志願し、丙3期を17年3月に卒業して、6空(204空)に配属された文字どうりの戦中派パイロットであった。

ミッドウェー海戦に出撃したが、空戦の機会はなく、17年秋最年少者の一人としてソロモン戦線に進出、ブインを根拠に翌年8月26日被弾、落下傘降下で全身火傷を負って本土へ帰還するまで、1年近い空戦に活躍した。初戦果は17年12月1日のブイン迎撃戦でB-17に単機で突進、体当たりで右翼を切断撃墜したもので、杉田独特の闘魂を示す戦果であった。

 また18年4月18日、ブイン視察に向かう山本五十六大将の登場する1式陸攻を援護した零戦6機の中に加わり、来襲した敵2機を撃墜したが、健闘およばず、山本機は撃墜された。19年3月263空に編入されて、マリアナ、カロリンを転戦し、7月には201空に転じて比島戦線で活躍、20年1月新編の343空戦闘301飛行隊に編入され、菅野大尉のしたに属して紫電改で本土防空および沖縄航空戦に活躍したが、4月15日警報のおくれから鹿屋飛行場離陸途中で上方から敵戦闘機に奇襲され、機もろとも炎上して戦死した。

 昭和20年春、坂井少尉と共に多数撃墜者として表彰されたが、戦死と友に全軍布告、2階級特進の栄を受けた。個人撃墜70機、共同撃墜40機が個人感状で公認されているが、この判定には多少の疑問があり、30機台と見るのが妥当かとも思われる。杉田は野生味あふれた豪放な性格で、闘魂の権化のような戦闘機操縦者であった。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 冒頭で撃墜数について50機以上の撃墜数を自称している人は他人の戦果を混同しているということを書いた。しかしだからといって搭乗員としての腕が悪かった訳ではない。混戦の中で撃墜確認が困難であるという事情も加味しなければならない。この杉田は戦前に海軍に志願し、戦中に丙種予科練に入隊し、ど頭にミッドウェー海戦を経験するという日本が優勢だった前半ではなく、劣勢に向かっていく中盤以降を担当した搭乗員である。


 それゆえ、予科練、その後の飛練でも太平洋戦争開戦以前の搭乗員のように十分な訓練を受けて、尚且つ、日中戦争という比較的激しくない空戦場で十分な経験を積むという恵まれた環境にはなかった。前述のように初陣はミッドウェーなのである。ミッドウェー海戦に参加した搭乗員はどうも本当に内地の基地に口封じのために拘束されていたようで杉田もどうように内地の基地に拘束されたのだろう。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 本来ならミッドウェー島航空隊となるはずだった第6航空隊はラバウルに進出を命ぜられる。当然、第6航空隊に所属する杉田もラバウルに進出する。杉田の性格をよく表しているのが杉田の初撃墜である。当時、18歳で最年少搭乗員だった杉田は体当たりでB17を撃墜。その後、204空と改称された第6航空隊での最多撃墜記録保持者となる。



 1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官が前線視察する際の護衛戦闘機6機の内の一人として護衛任務に就く。杉田は2機を撃墜するが、山本長官機は撃墜されてしまう。その後、負傷して内地の教員勤務を経た後、1944年3月、263空に転属、さらに同7月201空に編入される。


 1945年1月、343空戦闘301飛行隊に転属になる。この343空とは、ほぼ全機が最新鋭機紫電改で編成された決戦部隊である。この部隊でも戦果を挙げるが4月15日、離陸中を攻撃され戦死する。わずか21歳であった。戦果に関しては個人撃墜と共同撃墜が逆だったのではないかとも言われるが詳細は不明である。



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日本海軍航空隊 撃墜王 太田敏夫

150px-Toshio_Ota 坂井三郎氏の著書『大空のサムライ』に登場する有名なエースである。撃墜王は太田敏夫といい西沢広義といい妙にイケメンが多いのは気のせいだろうか。これが世に知られたならば歴女が群がってきやしないだろうか。いや、そんなことは起こりようがない。しかし最近は『風立ちぬ』『永遠の0』が上映され社会現象にまでなるご時世、零戦のパイロットブームが起こるんじゃないかという淡い期待を胸に秘めつつ今日もブログの記事を更新するのだった。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正8年長崎県の農家に生まれ、高小卒後、昭和10年佐世保海兵団に水兵として入ったが、14年9月、46期操練を卒業して戦闘機操縦員となった。大村空、谷田部空を経て16年6月12空に配属され、漢口に進出したが、空戦の機会はなかった。

同年10月台南空に転入し、比島、蘭印を転戦した。12月8日開戦のひルソン島進攻で初撃墜を記録した、翌年1月29日バリクパパン上空でB-17と交戦して被弾負傷し、しばらく空戦から遠ざかった。

太田の輝かしい空戦歴が始まったのは、17年4月に笹井中隊の一員としてラバウルに進出してからで、同僚の坂井、西沢らと華々しい撃墜競争を展開した。8月以降は連日のガダルカナル島進攻作戦に参加したが、10月21日の空戦で敵1機を撃墜したのち行方不明となり、戦死と認定された。

太田は常に微笑を忘れぬ温厚な青年で、上下、同僚の誰からも親しまれ、愛されたが、内に秘めた闘志は凄まじく、ラエ上空で単機B-17を1時間以上も追撃して撃墜したこともあった。

総撃墜数は34機が公認されている。比較的早く戦死したが、笹井中隊の撃墜競争では、太田のペースが最高だったので、生き延びていれば、西沢、坂井に劣らないスコアをのこしたものと思われる。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


1/72 96式艦上戦闘機


 中国戦線に行ったのち、太平洋戦争では台南航空隊隊員として航空撃滅戦に参加、ラバウルに進出する。そこで撃墜スコアを重ねるが、1942年10月に戦死してしまう。この一年足らずの間に34機を撃墜したというから相当なものだったのだろう。西沢広義ですらこの間の撃墜は30機だったと記憶している。坂井が28機、笹井が27機だったと思うので太田の34機というのは相当な数であったといえる。


 太田が卒業のは操練46期であるが、この期は珍しく撃墜王は太田以外には出ていない。そしてこの46期には太平洋戦争を生き残った者は一人も居なかった。太田も1942年10月21日行方不明、戦死と認定された。すでに太田が戦死する以前に46期は9名中5人がすでに戦死していた。



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 近年、調査によって太田敏夫の最後が明らかになった。太平洋戦争の熾烈な空中戦の中で最後が判明するというのは珍しいことだ。太田が戦死した10月21日、太田はガダルカナルへの爆撃機の援護作戦に参加し、米軍機との空中戦となった。太田はすぐに一機を撃墜したが後方に付かれたため上昇しようとした時米軍機の弾が命中し太田は不帰の人となった。因みに太田が撃墜したのはハミルトンという7機撃墜のエースで、太田を撃墜したのはフランク・C・ドルーリー中尉という6機撃墜のエースであった。


 太田の戦死後の翌11月、台南航空隊は戦力の再編成のため内地に帰還した。



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日本海軍航空隊 撃墜王 武藤金義

Kaneyoshi_Mutoh このブログ、最近、撃墜王の記事が増えているけどみんな大丈夫かな〜?恐らく撃墜王オタクというのは私とあと数人くらいしか日本にはいないんじゃないかと思われる。トイガンの記事も書いていて楽しいんだけど、最近、私が興味あるものがあまりないんだよねぇ・・・。まあ、私はガンマニアから撃墜王にハマり、歴史学にハマり(ちゃんとした研究だヨ!)、全てを投げ出し現在に至るのだ。ということでこのブログは私の人生の清算という意味が多分にあるのだ。


 それはともかく、私の個人的な話なんて撃墜王のこと以上に誰も興味が無いだろう。今日紹介する撃墜王は武藤金義少尉。空の宮本武蔵と言われ、横須賀航空隊にいた当時、F6Fヘルキャット12機編隊に単機で突入し、みんなの観ている前で4機を撃墜したという超熟練搭乗員だ。とりあえずエース列伝の記事をみてみよう。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正5年愛知県に生まれ、昭和10年呉海兵団に機関兵として入団したが、半年後32期操練生に合格、卒業後大村空に配属されたが、支那事変の勃発とともに1空兵として13空に編入され、中支戦線に出動、初陣の12月4日の南京攻撃でイ-16と空戦、1機を撃墜した。12月12空に転じ、翌年10月まで南京、南昌、漢口等の空戦に参加した。

その後、大分空、鈴鹿空、元山空を経て16年9月3空に配属され、開戦とともに比島、蘭印航空戦に参加、横山飛行隊長の2番機をつとめた。翌年4月元山空戦闘機隊(252空)に転じ、11月ラバウルに進出、翌年3月までソロモン、東部ニューギニア航空戦で活躍した。18年11月飛曹長に昇進し、横須賀航空隊に転じ、19年6〜7月硫黄島に進出、防空戦闘および機動部隊攻撃にあたった。

 20年に入ると、関東地区の防空戦闘に従事したが、6月末、戦死した杉田少尉の代りに菅野大尉の護衛役として源田大佐に懇請され、343空に転じたが、7月24日豊後水道上空の空戦で戦死した。

 武藤は人格、技量ともに円熟した名手として著名である。とくに20年2月厚木上空において単機(紫電改)でF6F12機に挑戦し、各一撃で4機を撃墜した空戦は、宮本武蔵の一乗寺下り松の決闘をしのばせるものと伝えられている。総撃墜数は判然としないが、28機前後と推定される。

 小柄ではあったが、全身が運動神経の塊のような鋭い感覚を持つと同時に、明朗、快活で誰からも親しまれたエースであった。総撃墜数は28機と推定される。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


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 この武藤少尉、操練32期出身で同期には14機撃墜の尾関行治、9機撃墜の末田利行がいる。因みにこの操練32期で戦闘機に進んだ9名は全員が戦死している。死亡率は100%である。32期の中で最後まで生き残っていたのは武藤少尉であったが、武藤少尉も1945年7月24日に戦死してしまった。


 最近、この武藤少尉を主人公にしたドラマが放送され、私の度胆を抜いたのだ。因みにタイトルは『撃墜 3人のパイロット』というNHKが製作したドラマだ。私は坂井三郎がドラマ化されるのなら驚かないが(実際、映画化はされている)、武藤金義という世間ではあまり有名でない撃墜王がドラマ化されたというのは本当にびっくりした。



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 それはそうと武藤少尉は1916年生まれ、坂井三郎(64機撃墜)、岩本徹三(216機撃墜)、原田要(15機撃墜)、重松康弘(10機以上撃墜)、岡本重造(9機撃墜)、安井孝三郎(11機撃墜)、小泉藤一(13機撃墜)、大森茂高(11機撃墜)、大木芳男(17機撃墜)、菊池哲生(20機以上撃墜)、白根斐夫(9機撃墜)など撃墜王のオンパレードである。年齢的にも開戦時に25歳と搭乗員としては脂の乗り切った時期である。29歳で終戦となるので20代を空の戦いに費やしたことになる。


 武藤少尉は中国戦線で13空に配属され、のち12空へ転属になる。太平洋戦争開戦時は台湾の3空に所属し、あの有名な航空撃滅戦に参加する。その後252空に転属し、激烈なラバウル航空戦に参加する。1943年には海軍航空の殿堂、横須賀航空隊に転属になり本土へ帰還したが、坂井と共に八幡空襲部隊として硫黄島に進出する。


 横須賀航空隊は実戦部隊であると同時に、新型機のテスト飛行を担当した航空技術廠実験部を引き継いだ横須賀航空隊審査部を持つなど、研究、訓練を行う特殊な航空隊であり、太平洋戦争が始まってからも根拠地以外に展開することはなかった。しかし戦局はそれを許さずついに硫黄島進出が命じられた。



1/144 紫電改 343空 松山基地 2機セット


 武藤少尉と坂井少尉はここで特攻を命ぜられたが途中で空中戦となり特攻することなく無事帰還した。その後、横須賀航空隊に所属し続けたが1945年6月、坂井三郎との交換トレードにより343空へ転属する。そして翌7月に豊後水道上空で戦死する。


 人格に優れ、上下から慕われた人物だったようだ。特に愛妻家として有名であり、戦場からもこまめに手紙を出していたようだ。この詳細は碇義朗『紫電改の六機』に詳しい。NHKのドラマの最後に武藤少尉のお孫さんが登場し、武藤少尉の奥さん(お孫さんからしてみればおばあちゃん)が、再婚しなかったのは、「おばあちゃんはおじいちゃんのことが好きだったから帰ってくるのをずっと待っていたんじゃないか」と涙を流しながら語っていた。私も目が潤んでしまったのだった。



紫電改の六機―若き撃墜王と列機の生涯 (光人社NF文庫)


 武藤少尉の記録については上記の本以外にも『エース列伝』『日本陸海軍航空英雄列伝』等に詳しく記載されている。最後に武藤少尉と同い年で親しかった撃墜王の坂井氏は武藤少尉が撃墜されたことに話が及ぶと「流れ弾だ!」と激怒したという。武藤少尉の人柄が偲ばれる。私もこういう人間になりたかったが真逆の人になってしまった。反省・・・。


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日本海軍航空隊 撃墜王 藤田 怡与蔵

200px-Iyozo_Fujita_b この人はあまり馴染みのない人かもしれない。岩本、西沢、坂井等に比べると知名度は今一つであろう。しかし撃墜42機ともいわれるエースである。藤田は撃墜王には珍しく海軍兵学校出身の士官であり、それも海兵66期出身という、太平洋戦争開戦前に中国戦線を経験した最後のクラスであった。それ故にもっとも使い勝手が良く、終戦まで酷使されたクラスである。操練でいうと30〜50期、予科練でいうと甲種1〜3期、乙種4〜6期といえようか。酷使されたクラスだけあって藤田は太平洋戦争のあらゆる戦闘に参加していると言っていい。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
 大正6年中国山東省に生まれ、大分県杵築中学校を経て昭和13年9月海兵66期を卒業、15年6月第33期飛行学生教程を終了して、翌年9月蒼龍乗組となり、12月8日の真珠湾攻撃に第二次攻撃隊制空隊の小隊長として参加したのが初陣であった。分隊長飯田房太大尉がカネオヘ基地を銃撃中に対空砲火で壮烈な自爆をとげたのち、藤田中尉は列機を集合してカエナ岬の帰投会合点に向かったが、途中でスターリング中尉らのP−36編隊と遭遇して空戦に入り、藤田機は1機を撃墜したのちエンジンに被弾し、ようやく母艦に帰りついたが、帰還と同時にシリンダーが落ちた。

 本土帰投後大尉に進級し、ダーウィン、インド洋攻撃に参加したのち、17年6月ミッドウェー海戦に出撃、母艦上空直衛機として第1回迎撃戦では、B−26編隊に突進して3機(うち協同2機)を撃墜、着艦給油したのち、再び発艦、敵雷撃機編隊に突進、またたく間に雷撃機4機(うち協同3機)、戦闘機3機(うち協同2機)を撃墜するというめざましい活躍を見せたが、味方対空砲火のため胴体タンクに被弾、火災を生じ、海上200mから落下傘降下した。4時間波間に漂流して駆逐艦野分に救助され、内地帰還後、飛鷹分隊長に発令され、10月ソロモン戦場に出撃したが、母艦の罐故障で飛行機隊の大部分は、20日ラバウル、ついでブインに進出し、12月中旬までガダルカナル島航空戦に参加した。

 ついで18年4月「い」号作戦参加のため1ヶ月足らずラバウルに進出、6月築城空に転じたが、11月新編の301空飛行隊長に補せられ、6〜7月の硫黄島防空戦闘に参加した。7月紫電で編成された戦闘402飛行隊長に転じ、341空に編入されて10月台湾沖航空戦に出撃、ついで比島戦線で苦闘の末、兵力の大部分を失って20年1月本土に後退、福知山基地で終戦を迎えた。

 ミッドウェー海戦における撃墜10機(うち協同7機)は、奥村、岡部と並んで1日当たり最高撃墜機数として記録されている。戦後大空に復帰し、現在も日本航空の機長として健在である。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 エース列伝にはあまり詳しくは書いていないが、1940年11月大分航空隊戦闘機実用機教程を修了し、同航空隊の教官となった。因みに教員配置は、士官は教官、下士官は教員という。その後美幌航空隊に配属され中国戦線に進出したが実戦の機会はなかったようだ。


 半年ほど勤務したのち、1941年9月、空母蒼龍乗組となる。その後真珠湾攻撃に参加、ウェーク島攻略、コロンボ空襲と機動部隊の一員として活躍する。蒼龍乗組としてミッドウェー海戦に参加、その後、ラバウル航空戦に参加する。フィリピンには341空飛行隊長として戦闘に参加、本土に帰還後は一瞬だけ343空に配属されるもすぐに601空に転属させられた。



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 前述のように海兵66期は酷使された。同期で戦闘機に配属されたもの11名中生存者は5名。死亡率は54%に達する。しかし66期はこれでも生存率が高いクラスであったといえる。前期の65期は死亡率87%、後輩に当る67期も死亡率87%であった。具体的に人数でいうと66期が5名生存しているのに対して67期は3名、65期に至っては戦争を生き抜いたのは1名のみだった。


 このようにこのクラスの士官は絶えず最前線に駆り出され消耗していったのだ。それはともかく藤田の話に戻ろう。藤田は真珠湾攻撃以来、着実にスコアを重ねたようだ。士官は通常撃墜王にはなりにくい。なぜなら士官とは戦闘全般の状況を見ながら指揮官として部下を誘導したり指示したりする監督の役割だからだ。自分が実際に戦闘をして撃墜するという状況はあまりない。


 現に海兵59期で日中戦争から太平洋戦争の前半に零戦隊隊長として活躍した横山保中佐ですら撃墜数は5機しかない。同様に不敗の零戦隊202空の名隊長であった鈴木實も横山と同期であり、日中戦争以来のベテランであったが撃墜数は5機、零戦初空戦時の指揮官であった進藤三郎中佐に至ってはエースにすらなっていない。



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 これに対して同時期を戦った下士官には20機、30機撃墜のエースがキラ星の如く輩出した。このように士官と下士官には職務に違いがあり、士官が撃墜王になるというのは珍しいことであった。藤田の撃墜数についてはヘンリーサカイダの著書によると42機、秦郁彦『エース列伝』によると10機以上となっている。


 指揮官という職務上、42機撃墜というのは難しい。実際、記録されている撃墜スコアは共同撃墜が多いようであり、実際の撃墜数は秦氏が推測するように10機程度とみてよいだろう。無論真実は誰にも分らないが・・・。藤田氏の戦いについては以下の本に詳しい。リンクを貼っておいた。



零戦隊長藤田怡与蔵の戦い (光人社NF文庫)



伝承零戦空戦記〈1〉初陣から母艦部隊の激闘まで (光人社NF文庫)


 この藤田氏、かなり人望のある人だったようだ。最後の福知山時代の部下が藤田を評してこのように言っている。

「ざっくばらんで、きさくな人柄だが、自分の功績を一言も言ったことのない人で、なんとなく人をひきつける何かがあって、この隊長となら安心して戦いが出来るという信頼感を部下に与える人だった」

 藤田は戦後、公職追放のため職業を転々とした後、日本航空のパイロットとして世界の空を飛びまわった。日本で最初のボーイング747の機長となり1977年退職した。そして2006年肺がんのため死去した。



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日本海軍航空隊 撃墜王 菅野直

200px-Naoshi_Kanno この人は人気あるよねー。珍しく士官の撃墜王。総撃墜数はエース列伝によると25機、一説には48機とも65機ともいわれている。初出撃が1944年と戦争後半を戦った撃墜王である。凄まじい闘志を持っていた暴れん坊だったようで訓練で随分飛行機を破壊したようである。後に有名なエース部隊、「剣」部隊こと343空の隊長として太平洋戦争最末期を暴れまわった。(画像はwikipediaより転載)


日本海軍戦闘機隊のエースとは


概要
大正10年宮城県に生まれ、昭和16年12月第70期生として海兵を卒業、18年9月第38期飛行学生教程を終了した戦中派エースである。

19年4月、343空(初代)分隊長として内南洋に進出、7月には201空の戦闘306飛行隊分隊長、ついで飛行隊長に転じ、ヤップ島、比島で激烈な空戦を体験した。とくに7月のヤップ島における数次のB-24迎撃戦では、60数機を撃墜破し、菅野自身も体当たり攻撃を実施して1航艦長官から部隊表彰を受けた。10月第1次神風特攻隊が編成された時は、その隊長に想定されていたが、飛行機受領のため本土帰還中であったので、代りに関大尉が指名された。

敗戦つづきの比島航空戦でも果敢な闘志で見事な指揮を見せ、とくに10月27日のマリンドケ島上空空戦では、混成の17機をひきいてグラマンF6F16機と空戦、12機を撃墜する撃墜する戦果をあげた。この間、菅野は何回も特攻を志願したが、優秀な技量を買われて容れられず、19年12月343空(2代)の新編と共に戦闘301(新選組)飛行隊長を命じられ、本土防空、沖縄航空戦に活躍した。

 しかし20年8月1日、屋久島上空で空戦中に20ミリ砲の筒内爆発を起こし、操縦困難に陥ったが、列機の堀光雄飛曹長の援護申し出を断り、空戦終了後、堀が探しても見当たらず、行方不明のまま戦死と認定された。

戦死後、全軍布告、2階級特進の栄誉を受け、海軍中佐に任じられた。短身でブルドックのような闘魂を持った猛将タイプのエースで、総撃墜数は25機(公認)である。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)



1/32 川西 N1K2-J 局地戦闘機 紫電改“後期型" (08236)


 実際、1944年4月が初陣というのはかなり遅い。この時期といえばラバウル航空戦は実質的には日本の敗北に終わり、最後まで戦っていた岩本徹三、小町定、小高登貫等の撃墜王を輩出した253空もトラック島に後退した時期である。戦闘は完全に守勢にまわっており、同年6月にはマリアナ沖海戦で日本軍の機動部隊は実質的に壊滅する。この時期に菅野は初空戦を経験する。


 初空戦でいきなり隊長というのはかなり無茶な気がするが当時の人事が硬直化した日本海軍では仕方のないことであった。隊長も部下も困ったことだろう。しかし菅野直は元々統率力のある人間だったのだろう。その後も343空においてラバウルの撃墜王杉田庄一の尊敬を一身に受けることとなる。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 菅野は戦闘中に体当たり攻撃をしかけており、ラバウルで体当たり攻撃でB17を撃墜した杉田とは性格的にも合っていたのだろう。どちらも豪放磊落な人物だったようである。この菅野、エース列伝にもあるように何度も特攻に志願したが入れられず343空の隊長として日本海軍最後の決戦部隊の指揮をとることとなる。


 1945年4月、鹿屋基地において杉田が撃墜され戦死すると目に見えて落胆していたという。その菅野も太平洋戦争終結直前の8月1日、行方不明となり戦死と認定される。これは私の主観であるが、源田実に闘将といわれた菅野は戦後の平和な時代を一凡人として生きることができたのであろうか。岩本徹三が職を転々とし、赤松貞明はある中になったりと翼をもがれた撃墜王達の戦後は必ずしも幸せとはいえない。



最後の撃墜王―紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯 (光人社NF文庫)


 菅野直はその生涯で65機、または48機、はたまた25機撃墜と言われるが実際はどうなのだろうか。これは全く推測でしかないが、天性の素質がある搭乗員というのは基本的にはいないと言われる。アニメに出てくるようなコックピットに座った瞬間から敵を倒せる搭乗員というのは実際には皆無である。


 搭乗員は訓練と経験によって技量を上げていくしか道はないようである。菅野直は太平洋戦争中盤に訓練を受けている。この時期の訓練とは戦前のように十分な訓練を受けたとは言い難い。その上、即実戦である。さらにその実戦は日本軍劣勢である。航空機の性能、物量、搭乗員の技量、全てにおいて劣勢な状態であった。マリアナ沖の七面鳥撃ちとまで言われる程練度に差があった米軍パイロットを新米搭乗員である菅野直が数十機を撃墜するということが可能だろうか。


 もちろん新米搭乗員が実戦で開眼し撃墜王となった例も散見される。しかしあまりにも条件が悪すぎる。40機、60機というのは論外としても、私は、菅野直がエースであること自体を疑問に思っている。もちろん根拠の無い推測ではあるが・・・。そして最後に、もし杉田庄一が健在であれば、こんなことを書く私は間違いなくボコボコにぶん殴られていたであろう。



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日本海軍 特二式内火艇 カミ車

Ka-Mi_float これはアツいでしょー。日本海軍特二式内火艇カミ車。水陸両用戦車だ。読みは「ないかてい」ではなく「うちびてい」なのだ。私はずーっと「ないかてい」と読んでいた。私と同じ轍を踏まないように皆さん気を付けて下さい。これ、何に使えるかというと敵地への強襲上陸時に橋頭保を確保するために使用するのだ。それでは今日はこの特二式内火艇をみてみよう(画像はwikipediaより転載)


性能
全長 7.42 m(フロート付き)
車体長 4.80 m(フロート無し)
全幅 2.8 m
全高 2.3 m
重量 12.5 t(フロート付き)
9.15 t(フロート無し)
速度 37 km/h(陸上)
9.5 km/h(水上)
行動距離 320 km
140 km(浮航)
主砲 一式37mm戦車砲×1(132発)
副武装 九七式7.7mm車載重機関銃×2
(主砲同軸機銃および車体前方機銃)(3,500〜3,900発)
装甲 6〜12 mm
エンジン 三菱A六一二〇VDe
空冷直列6気筒ディーゼル
110 馬力
乗員 6 名
(wikipediaより転載)

概要
 海軍陸戦隊はそれまで八九式中戦車や九五式軽戦車等の陸軍制式戦車、及び独自に輸入したヴィッカース・クロスレイ装甲車等を使用していたが、上陸作戦に使えるような車両は保有していなかった。そこで陸軍技術本部の協力を仰ぎつつ、九五式軽戦車をベースに開発したのが本車である。

 潜水艦による輸送を考慮したため、全面的に溶接構造を採用し、ハッチ部分にはゴムシールを装備するなど、車体の水密化を図っていた。水上航走時は、後部に付けられた2基のプロペラスクリューによって推進した。
砲塔は二式軽戦車の物を流用していた。

 主砲は、前期型では間に合わせに九四式三十七粍戦車砲もしくは九八式三十七粍戦車砲を搭載していた。後期型では本来の一式三十七粍戦車砲を搭載していた。一式三十七粍戦車砲は主砲同軸機関銃である九七式車載重機関銃との双連であった。

 また、車体前方左側に九七式車載重機関銃を装備していた。そのため前期型で車体前方機関銃1挺のみであり、後期型では主砲同軸機関銃と合わせて2挺である。

 本車の特徴として、車体の前後に水上走行を可能とするための着脱式の舟形フロート(浮き)を取り付け、上陸後に着脱するようになっていた。フロートの再装着には時間がかかるため、厳密には本車が「水陸両用戦車」でいられるのはフロートを付けている状態の時のみである。

 ただ、帝国海軍は本車を上陸侵攻作戦用の兵器と位置づけていたため、この点はあまり問題とはされなかった。前部フロートには一体式の前期型と左右分割式の後期型があった。
(wikipediaより一部転載)
 さらに詳しい情報を知りたい方はこちら(wikipedia)



1/72 WW.II 日本海軍 水陸両用戦車 特二式内火艇 カミ 海上浮航形態 (後期型フロート付き) 1944年 フィリピン レイテ島オルモック


 性能的には軽戦車くらいだろうか。主砲は37mm砲で装甲は6mm〜12mmと比較的ライトな造りとなっている。機関銃の弾丸は確実に防ぐことができる戦車である。しかし水陸両用戦車が必要なのは橋頭保を確保するまでの間であり、このライトな造りの戦車でもある程度任務に耐えることはできる。しかし強襲上陸で敵が砲を持っている場合にはあまり効果が無いかもしれない。


 運用は砲を持っていない敵を相手にする場合に限られそうである。現実には本車が登場した1942年にはすでに上陸作戦を行う段階にはなく、貴重な装甲戦力として島嶼に配備された。しかしだ。私が気になっているのは現実の運用ではない。


 計画通りに運用された場合のことなのだ。この特二式内火艇カミ車は日本海軍所属の艦船なのだ。運用は海軍陸戦隊が行う。海軍陸戦隊とは基本的には臨時で水兵が陸戦を行うものだが、ほぼ常設されていた。この陸戦隊が水陸両用戦車を使用して敵前上陸を敢行するというのが本車の目的である。


 でもどこから??



ドラゴン 1/72 WWIJN 日本海軍 水陸両用戦車 特二式内火艇 カミ/7435


 そう、私が気になっているのはどこから発進するかということだ。もちろん戦艦や巡洋艦はそんな機能はない。輸送船も水陸両用戦車を海上で発進させる能力は無いのだ。んで、海軍はどこから発進させるつもりだったかというとそう


また潜水艦からの発進だ!!


 日本海軍はなんでも潜水艦から発進させるのだ。小型潜水艦、小型偵察機、小型爆撃機、S特部隊、補給物資等々・・・。この特二式内火艇ももちろん潜水艦から発進させる。強襲上陸なので何隻必要なのかは知らないがすべて潜水艦から発進させる。



1/72 WW.II 日本海軍 水陸両用戦車 特二式内火艇 カミ 陸戦ver. サイパン 1944年 6月 (塗装済完成品)


 現在では水陸両用戦車は強襲揚陸艦から発進させる。では当時は強襲揚陸艦は無かったのか?いや日本には世界初のドッグ型強襲揚陸艦があったのだ。飛行甲板を持ち、艦内に搭載している大発を海上から発進させることができるという完全な強襲揚陸艦だ。この強襲揚陸艦、ある組織が運用している。この組織に頼めば特二式内火艇は最高の条件で運用できる。その組織とは・・・


日本陸軍船舶運用部隊



1/700 日本陸軍特殊船 神州丸 1942


 ああ、残念だ。その最高の強襲揚陸艦を持っているのは、海軍が大っ嫌いな陸軍なんだねー。しかしこの強襲揚陸艦、あきつ丸、神州丸は飛行甲板を持ちカタパルトにより戦闘機を発進させることができ、さらに船尾、船腹のハッチから大発を発進させることができる。ここに水陸両用戦車が加われば上陸作戦にはこれ以上ない理想的な条件が揃う。そう、


陸軍が開発した空母に海軍が開発した戦車を搭載して運用することで最高のスペックを発揮できるのだ!



1/72 WW.II 日本海軍 水陸両用戦車 特二式内火艇 カミ 海上浮航形態 (後期型フロート付き) 1944年 千島列島(塗装済み完成品)


 何でこんなことになってしまったのか分らないが陸海軍の不仲が一因であることは間違いなさそうだ。通常は陸軍と海軍は作戦地域を分担しているが、その陸海軍の領域が交錯する場があるのだ。一つは「空」、もう一つが陸と海の境界線である海岸だ。


 空は陸にも海にも存在する。だからそれぞれ陸軍航空隊、海軍航空隊と航空部隊を作った。同じ空なので基本的には同様の問題が発生する。同様の脅威に対処しなければならない。だから同じような性能の航空機を陸海軍別々に製作する。零戦と隼、雷電と鐘馗、月光と屠龍等々。これは独自に行うことができた。しかし、もう一つ交錯する場所である海岸では調整が必要なんだね。


 んで、調整がうまくいかなかった結果、陸軍が空母を作り、海軍が戦車を作るというあべこべな状態になってしまった。人工的な組織である陸海軍が地理的要因によって交錯してしまうのも面白いね。


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日本海軍航空隊 撃墜王 大原亮治

Garuda02 wikipediaに画像が無かった。何せこの大原亮治氏、まだ御健在なのだ。撃墜数は自称48機。自称というと怪しく聞こえるが、撃墜数はほぼすべて自称なのだ。太平洋戦争は編隊空戦がメインなので、第一次世界大戦のように一騎打ちで相手を倒すという時代ではなくなっているのだ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 さらにラバウル航空戦等になると撃墜戦果なんか確認している場合ではないのだ。生きるか死ぬか。混戦にでもなろうものなら一機が敵のバックをとる。さらにその後ろに敵が一機、またその後ろに味方が狙っているというような状態になるようでとても撃墜数を数えている場合ではなかったようだ。


 撃墜数の話が長くなったが、私はそもそも零戦のパイロットおたくになったのはその撃墜数に憧れたのだ。子供の頃の私にとって撃墜数というのは非常に分りやすい基準だった。しかし大人になってさらに詳しくなってみると撃墜数があまり正確ではないこと、さらに名パイロットとは撃墜数が多いだけではないということを知ったのだ。


 んで、現在に至る訳だけど、やはり撃墜数はどうしても気になってしまう。そういうことで撃墜数の話が非常に多くなるのだ。これは私の癖なので許してほしい。最後は懇願になってしまったが、このブログはそもそも私が楽しむためのものなので・・・やっぱり許してほしい。画像が無いのも寂しいのでとりあえず有り物を貼っておいた。(画像はガルーダ。有難い神様らしい wikipediaより転載)


概要
大正10年宮城県に生まれ、昭和17年7月丙4期飛練を卒業した戦中派パイロットである。
卒業と同時に6空へ配属され、同年10月補充員として、ブインに進出した。10月23日のガダルカナル島攻撃で初戦果をあげていらい、翌年10月横空に帰還するまで約1年、ソロモン、ラバウル、ニューギニアの激烈な空戦に参加し、生き残った。

 とくに18年5月13日のルッセル島上空空戦では宮野大尉の2番機として出撃、コルセア2機に追尾されたのを果敢に反撃して1機を撃墜、コロンバンガラ島に不時着した。この戦闘に対して、のちに204空司令から善行表彰を受けている。本土帰還後はひきつづき横空に勤務し、20年春の関東防空戦闘に参加して、終戦を迎えた。戦後、海上自衛隊に入る。撃墜機数16機。
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 記事のあまりの短さに愕然としつつ進めていきたいと思う。この大原亮治氏は丙飛4期出身。丙飛4期とは太平洋戦争開戦後に卒業したクラスだ。つまり卒業後、いきなり練度の高い米軍航空隊と戦わなければならないという非常に厳しい状況に置かれていた。


 ただ、この丙飛4期はまだ初戦期であったせいか後半に比べればまともな訓練を受けていたようだ。私の感覚では丙飛ではこの4期がまともな訓練を受けた最後のクラスと感じている。この丙飛4期には撃墜王杉田庄一がいる。その前の丙飛3期には谷水竹雄、杉野計雄等、もっとも過酷な状況で戦ったエース達がいるのだ。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 この大原亮治氏の経歴はすごい。wikipediaにも記事はあるがあまり詳しくないので私が気合いを入れて詳しく書いてみよう。ただ、詳しくといっても私基準の詳しさである。


 1921年宮城県生まれ、1940年6月海軍に入隊。1941年2月丙種予科練4期生として土浦航空隊に入隊した。1942年7月21期飛練課程を修了し、さらに戦闘機操縦者として大分航空隊に配属。その後いきなり第六航空隊に配属された。第六航空隊とは後の204空のことでのちにラバウル航空戦の中核となる部隊である。


 1942年10月に激戦地のラバウル、それも悪いことに最前線のブーゲンビル島ブイン基地に六空は進出する。1943年10月内地に移動になった頃には当初の六空搭乗員は3名しかいなかったという。1943年11月、海軍航空隊の殿堂、横須賀航空隊に配属される。その後終戦まで横須賀航空隊所属となる。



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 これが大原氏の経歴であるが、大原氏の経歴で面白いのは転属が一回しかなかったことだ。海軍は転属が多い。例えば岩本徹三は12空、瑞鶴戦闘機隊、281空、201空、204空、253空、252空、203空と転属し、その間に教員配置もこなしている。これをみれば大原氏の転属一回というのが特異なのが分るというものであろう。


 下に挙げたのは大原氏のインタビュー、雑誌『丸』に寄稿した記事を収録した本である。大原氏は自伝こそ書いてはいないがインタビュー等は受けてくれるようで私としてはありがたい限りである。何せ歴史上の人物がインタビューに答えてくれるのだから。



零戦の20世紀―海軍戦闘機隊搭乗員たちの航跡 (スコラスペシャル―ミリタリーシリーズ (40))


零戦最後の証言 2―大空に戦ったゼロファイターたちの風貌 (光人社NF文庫 679)


零戦、かく戦えり!


 上記の3冊は私も全部持っているが絶対に買いだ。航空史家が書いた零戦のパイロットの本はたくさんあるが、本人の話は迫力が全然違う。いつかこういったインタビューも出来なくなるので早いうちに読んでおこう。こんなすごい人達と同時代に生きていることに感動するかもしれない。いや、私は感動した。


 せっかく〆たところでなんだけど、私は1990年代中盤に一番撃墜王に憧れていたのだ。この頃はまだ坂井三郎やら羽切松雄、杉野計雄、谷水竹雄、宮崎勇、小町定等の著名な撃墜王達が健在であった。それどころか台南空司令斎藤正久大佐すらもまだ健在だったのだ。しかし彼らも皆鬼籍に入ってしまった。憧れの人達が亡くなっていくのは本当に寂しかった。



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パチンコ人口がピーク時の3分1に激減

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パチンコ人口がピーク時の3分1に激減、1000万人を切る 「AKB48」や人気アニメを使った台に若者は来なかった


 記事が長いので記事の全文引用は割愛。パチンコ人口がピーク時の1/3になってしまったらしい。この記事でも書いているように理由は簡単。遊ぶための金が高くなり過ぎてしまったからだろう。私は基本的にはギャンブルはやらないが、パチンコは昔やったことがある。昔とは10年以上前でまだ1パチも無く、500円玉を入れると貸玉がジャラジャラーってでるやつだった。(画像はパチンコ屋から逃げ出す兵士達 wikipediaより転載)


 何となくやってしまうことが何度かあったが、結局、大当たりを出してもいつ止めていいのか分らないし、そもそもほとんど当らないので止めてしまった。その後、CRマシンなどという得体のしれないメカが登場し、パチンコをするのに何千円も支払わなければならないことを知りパチンコ屋には全く寄り付かなくなった。


 その後、1円パチンコが登場したようだが、多感な青年時代にパチンコをやらなかったために興味が全くない。このような流れでパチンコをやらなくなった人間は私だけではないだろう。実際、この記事でもパチンコ人口減少の原因としてあげられている。面白かったのはメーカー団体が随分前からこの問題を指摘していたが、遊技場を運営する団体は耳を貸さなかったという。


 結局、短期的な利益に目がくらんでしまったのだろう。人気アニメを題材にしてもパチンコ自体の楽しさがなければ新規の顧客は増えない。利益は多少減ってもファンを増やすべきだった。後悔しても後の祭りだ。


 しかしこれはパチンコ業界だけの問題ではない。この発想自体がまさしく新自由主義の発想だ。どういうことかというと、現在、世界中で格差が広がっている。もちろん新自由主義が世界を席巻しているからだ。新自由主義の最大の問題とは利益を少数の者が独占してしまうことにある。分配しないのだ。


 成功者は当然の権利として利益を独占する。それは理屈の上では正しいのかもしれない。しかし利益を分配しないので中流層がいなくなり、ごく少数の富裕層と多くの貧困層が生まれる。多くの人は経済的に余裕がなくなり、商品が売れなくなる。そして経済的な理由から子供も作れない。市場がどんどん縮小していく。子供も減っていくから将来的にも市場の減少は進んでいく。


 最終的には経済が停滞する。パイが小さくなる。かつてフォードはベルトコンベアシステムによって労働者に高い給料を支払うことを可能にした。ベルトコンベアシステムにばかりが注目されるがフォードは労働者に高い給料を支払うことで中間層を生み出し、市場を拡大することに成功したのだ。


 それと真逆なことを現在、世界中でやろうとしている。日本の消費税増税もそうだ。庶民には増税しているのに大企業は軽減税率。福祉を充実させるための消費税だが、2014年4月の施行と同時に年金の額が切り下げられている。完全な所得移転となっている。


 でも、日本人はおかしいことに気付き始めているようだ。昨年の衆院選の結果がそれだ。右翼政党、極右政党は議席を減らし、穏健保守、革新政党が議席を伸ばした。自民党ももちろん議席を減らした。日本人は新自由主義、格差社会、そして戦争に対して否と言っているようである。


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日本海軍航空隊 撃墜王 岡部健二

200px-Kenji_Okabe 撃墜15機のエース岡部健二・・・。という風に記憶していたんだけど、1998年にヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画1998年を買ったら撃墜数が50機になっていた。岡部健二は戦後50年の間にどうやってスコアの伸ばしたのだ。


日本海軍戦闘機隊のエースとは


 疑問は尽きないが、恐らく自称か周りの搭乗員仲間が主張したのだろう。それはそれとして岡部健二、坂井三郎の同期であるというから太平洋戦争ではすでにベテランの域に達していたのだろう。それも優秀者が選抜されるという母艦搭乗員である。うーんすごい。(画像はwikipediaより転載)


概要
1回の空戦で8機(うち不確実3)の公式記録を持つエースである。大正4年福岡市に生まれ、修猶館中学を卒業して海軍に入団、昭和12年11月38期操練を卒業し、佐伯、大村空を経て13年7月12空に転属して支那戦線に出動したが、空戦の機をえなかった。

 太平洋戦争開戦直前に翔鶴乗組となり、ハワイ攻撃では母艦直衛に当った。17年4月9日トリンコマリ上空に空戦が初陣で、ハリケーン2機を撃墜した。5月8日の珊瑚海海戦では上空直衛の任に当たり、急降下点で米艦爆群を待ちうけて次々と8機を撃墜したが、母艦の被爆で着艦できず、着水して救助された。

 18年7月再び翔鶴乗組となり、11月1日ラバウルに進出、2日の大空襲迎撃をふくみ数回の迎撃戦に参加した。その後大村空に、19年7月新設の634空に転じたが、もはや乗るべき空母はなく、10月捷号作戦の発動により、陸路沖縄、台湾を経て比島に進出、レイテ作戦に参加したのち、年末に本土へ引きあげ、601空で終戦を迎えた。理論家肌で、特攻反対を公言していた激しい性格の名手であった。撃墜機数15機
(日本海軍戦闘機隊〈2〉エース列伝より一部転載)


 最初は小町定と同じ翔鶴戦闘機隊に所属する。真珠湾攻撃ではこれもまた小町定と同じ上空直掩である。本当に何でこんなに撃墜王は上空直掩にまわされるのだろうか。この時点では新兵なのだが。その後、珊瑚海海戦に参加する。この海戦には岩本徹三も瑞鶴戦闘機隊として参加している。


 この戦いで岡部健二はまたもや上空直掩となり、攻撃してきた米空母艦載機を次々と8機を撃墜する。そして岡部健二もまたラバウルに派遣されることとなる。しかし期間は短かったようだ。その後フィリピンに進出するが、ここで元台南空飛行隊長中島正少佐に対し、特攻反対を唱える。中島少佐からは不穏分子と睨まれ迫害されたようである(杉野計雄『撃墜王の素顔』光人社1997年)。



1/32 エアークラフト No.17 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 二一型 60317


 特攻推進派で自分も後から行くと多数の特攻隊員を送り出した中島少佐は戦後、特攻隊員達をネタに本を出版、航空自衛官として昇進を重ね、空将補となり位人臣を極める。晩年は陶器作りに精を出すという悠々自適な生活を送り1996年、86歳で天寿を全うした。確かに後から行くというのは嘘ではなかったようだ。それはそうと岡部少尉、やっとのことで内地に戻ったが最後に所属した航空隊も601空という母艦戦闘機隊であった。


 岡部健二はこの激しい太平洋戦争を生き抜いた。撃墜数に関しては、エース列伝では15機ということになっている。しかしヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画1998年によると撃墜スコア50機ということになっている。エース列伝は飛行機隊戦闘行動調書に記された数であろうが、この50機という数字は何を根拠としているのかは不明である。


 海軍航空隊の多撃墜搭乗員はほとんど例外無くラバウルでスコアを稼いでいるが、岡部健二は一時的にラバウルに派遣はされたが、長期間はラバウルにいなかったようだ。そして、ほぼ母艦戦闘機隊員として太平洋戦争を戦い抜いた。母艦戦闘機隊というのは基地戦闘機隊に比して空戦の機会は少なかった。故に母艦戦闘機隊のトップエースである斎藤三朗少尉(操練44期)も撃墜スコアは18機と基地航空隊のトップエースが西沢広義少尉の87機、岩本徹三少尉の216機と比べると極端に少なくなる。



1/32 エアークラフト No.18 1/32 三菱 零式艦上戦闘機 五二型 60318


 もちろんトップエース両氏の撃墜数が事実とも思えないが、ラバウル航空戦にも短期間しか参加せず、実戦においてはほぼ母艦戦闘機隊員として活躍した岡部少尉がどこで50機というスコアを稼いだのかは疑問が残る。これはヘンリーサカイダ氏に直接訊いてみるしかなさそうだ。


 誰が言ったのか分らない撃墜数はともかく、岡部少尉の戦歴はベテランと呼ぶにふさわしい。特にほとんどを母艦戦闘機隊員として太平洋戦争を戦い抜いた搭乗員はそう多くない。御健在であれば2014年で99歳、御健在であることを願っている。



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無職の男性は老けるのが早い

(画像はwikipediaより転載)


2年以上無職の男性は、同年代の働いている男性よりも老けるのが早い。雑誌PLoS Oneに掲載された論文の中で述べられている。

 学者たちが、フィンランドの男性と女性の細胞から抽出したDNAサンプル5500個以上を研究した結果、複数の男性のDNAに、老化が原因とみられる変化があったという。学者たちが、そのような染色体を持つ男性の経歴を分析した結果、大部分の人が、約2年あるいは2年以上、無職だったことが分かった。 
なお、なぜ無職であることが男性の老いを早め、なぜ女性にはそのような変化がなかったのかは不明。
(ロシアの声 より転載)


 ホントにそうなんだよ。私も無職だったころは老けるのが異常に早かった気がする。理由は不明とあるが、多分、食事が不規則、もしくは過食気味になること、さらに人と会話をすることが極端に少なくなることから表情筋の筋力低下、それと同じく人に会うことが少なくなるので緊張感の欠如というところだろう。


 特に顕著なのは食事。仕事をしている時は朝、きちんと朝食をとる人は少ないと思う。さらに仕事が始まってしまえば、食事は昼だけでそれ以外は食べたくても食べられない。帰ってからは人によってはガツガツ食べるがそれにしたって「毎日が日曜日」という状態に比べれば規則正しい。



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 何故、こんな記事を書いたのかというと私は人より老けてみられるのだ。そしてかなり気にしている。コンプレックスといっていい。今は仕事が冬休みで9連休を満喫中。そしたら体重は1堋増えただけだが、顔の劣化がビックリするくらい進んだ。それも6日目にしてである。


 この原因は表情筋とは関係ない。何せ6日しか経っていないから。6日で筋肉に変化は起こらないだろう。そうなると原因は食べ物以外には考えられない。見た目からも明らかに肌が荒れているのが分る。原因は食事の量が多すぎたのと内容が脂、糖分、塩分が多すぎたのだろう。



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 なぜ分るかというと、誰でも年を取れば分るが自分の体の「声」に敏感になってくるのだ。そうとしか言えない。明らかに上記の三物質を取りすぎている。特に糖分、塩分が多すぎるようだ。体が止めてくれと言っている。食事を減らさない限り、私の劣化は止まらないと思う。


 では、なぜ食事を過剰に摂取するのか。原因は恐らくストレスだろう。私は原因をストレスとすることに抵抗があるのだが、私の体や行動の変化の原因を調べると必ず「ストレス」という言葉が出てくる。そして現在私はかなり日常的にストレスを感じる環境にいる。もう認めざるを得ない。


 ストレスを無くすのが解決であるが、直近の課題として節食に努めなければならない。少なくとも「老け顔」コンプレックスの私は節食をしなければストレスが増えるということを実感した。同じ悩みを持っている人がいるとすれば一緒に頑張ろう。老け顔って結構、言われるんだよね。みんな年齢より若く思われたいから見下すことで安心したいという心理があると思われる。


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