
(画像は一式戦闘機隼三型 wikipediaより転載)
主な航空機メーカーの戦後
中島飛行機
1917年に創業した航空機メーカーで終戦まで世界有数の航空機メーカーであった。 創業者は元海軍機関大尉中島知久平で中島飛行機から生まれた航空機は一式戦闘機隼、四式戦闘機疾風、夜間戦闘機月光、艦上攻撃機天山、艦上偵察機彩雲等枚挙にいとまがない。終戦直前に第一軍需工場となり実質国営化。終戦後、中島知久平は社長を自任、社名を富士産業株式会社とする。
その後、GHQより財閥会社として解体命令、1950年5月に工場ごとに15社以上に分割された。1952年のサンフランシスコ講和条約が発効すると分割されたうち5社が再統合に動きだす。1955年4月には5社に加えさらに1社が加わり6社が集まって富士重工業株式会社を設立する。
その後、自動車部門はインプレッサやレガシー等数々の名車を生み出し現在に至っており、航空機部門も1958年にはT-1練習機を開発、1978年にはT-3、1987年にはT-5を開発している他、対潜哨戒機P-1や輸送機C-2の製造にも参加、自衛隊や消防、警察のヘリコプターの定期整備も行っている。
2016年に社名を富士重工業からスバルに変更し現在に至っている。このスバルのロゴは戦後に再統合した際の5社が一社になるということを表したものだという。
三菱重工業
言わずと知れた名機零戦や百式司令部偵察機、九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機、雷電等を開発したメーカーだ。1950年、三菱重工業も戦後には財閥解体により、それぞれ東日本重工業、西日本重工業、中日本重工業に分割された。さらに1952年には三菱日本重工業(東日本重工業)、三菱造船(西日本重工業)、新三菱重工業(中日本重工業)、に商号を変更している。1964年にはこの3社が再び三菱重工業として合併して現在に至る。
川崎重工業
川崎重工業は三式戦闘機飛燕等を生み出したメーカーである。1919年、川崎造船所兵庫工場に設立された飛行機科が前身である。1937年飛行機部門が分離、川崎航空機工業となる。終戦により民需産業に転換、1956年には国産初のジェット練習機T-33の製造、1966年にはP-2Jをライセンスを得て国内開発をする。1969年に川崎重工業に吸収合併、現在でもC-1、C-2輸送機、観測ヘリコプターOH-1等の軍用機の開発を行っている。
川西航空機
1920年、日本毛織の創業者川西清兵衛によって操業された航空機メーカーである。飛行艇の開発に強みを発揮、九七式大型飛行艇や二式大型飛行艇、紫電改等の航空機を開発した。終戦直前に第二軍需工廠として国有化された。戦後はGHQの命令で航空機の製造が中止され民需産業への転換を図った。1949年には社名を新明和工業としている。サンフランシスコ条約以降は再び飛行艇を中心に航空機メーカーとして現在に至る。
愛知航空機
九九式艦爆の開発で有名。1893年に設立された愛知時計製造合資会社の一部門として出発、1943年に愛知航空機として分離された。終戦により民需産業へ転換、1946年には愛知起業株式会社に商号変更、その後、紆余曲折を経て2012年より日産自動車の子会社となっている。
九州飛行機
1830年に創業した渡邉藤吉本店の分工場として1886年に開設された。1904年に軍需産業に参入、1916年に渡邊鉄工所となる。1935年より航空機の製造を開始、1943年に航空機部門を分離して九州飛行機を設立する。1953年に渡辺自動車工業と改名バス車両の修理、更新を手掛ける。2001年に会社清算を行い解散した。
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