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(画像はwikipediaより転載)

 

 艦上爆撃機 彗星とは、液冷エンジンを搭載した日本海軍の急降下爆撃機であった。その誕生は早く1940年には試作機が初飛行している。その時の最高速度は551km/hを記録、当時の新鋭戦闘機零戦を凌駕した。しかし信頼性は低く、特にエンジントラブルに泣かされた機体であった。戦争後期には芙蓉部隊で集中運用され実績を挙げている。

 

艦上爆撃機 彗星 〜概要〜

 

 

性能(12型)

全幅 11.50m
全長 10.22m
全高 3.74m
自重 2,635kg
最大速度 580km/h(高度5,250m)
上昇力 3,000mまで4分36秒
上昇限度 10,700m
エンジン出力 1,400馬力(熱田32型)
航続距離 1,516km
武装 7.7mm機銃2挺(弾数各600発)、7.7mm旋回銃1挺(約600発)
爆装 500kg爆弾1発または
   250kg爆弾1発または
   30kg爆弾2発または
設計・開発 山名正夫 / 愛知時計電機

 

背景から開発まで

 1937年、海軍は次期新型艦上爆撃機として十三試艦爆の性能要求を決定、愛知時計電機に対して開発を指示した。この性能要求は前代未聞ともいうべき厳しいもので、当時現用であった九六式艦爆に対して、最高速度、巡航速度、航続距離等、全ての面で1.7倍前後の高スペックを要求していた。これは当時、試験中で実用化もされていない十一試艦爆(のちの九九式艦爆)を遥かに超える性能であった。

 

開発

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(画像は彗星11型 wikipediaより転載)

 

 1937年、海軍から十三試艦爆開発の指示を受けた愛知時計電機は、山名正夫技師を設計主務者として開発を開始した。この要求に応えるためにエンジンはドイツダイムラー・ベンツ社製液冷式DB601エンジンを国産化した熱田12型(1,200馬力。陸軍名「ハ40」)を採用した。

 爆弾は内蔵式で最大500kg爆弾まで搭載することが出来た(500kg爆弾の場合は爆弾倉の扉は閉じられない)。制動板(急降下時に速度が上がり過ぎないように空気抵抗を発生させる板)は主翼後端に位置し、急降下時以外は主翼の一部として機能していた。燃料タンクはセミインテグラル方式でこれは燃料タンクの一部が機体の外装の一部になる方式で、彗星は主翼下面が燃料タンクとなっており、これは脱着することが可能であった。

 胴体内に爆弾倉を内蔵する形式の割には機体は徹底して空気抵抗を減少させており、液冷エンジンと相まって流線形の美しいシルエットとなった。この機体全体の抵抗は当時のレシプロ機の限界といえるものであった。武装は、機首に九七式7.7mm機銃2挺、後席に九二式7.7mm旋回機銃1挺、爆撃兵装は胴体内に500kgまたは250kg爆弾1発、主翼下に30塲弾各1発を搭載することが出来た。

 1940年11月15日、試作1号機が完成、初飛行が行われた。液冷式エンジンと限界まで抵抗を減らした機体は、一連の性能試験で最高速度551km/hと艦爆でありながら、制式採用された直後の新鋭戦闘機零戦よりも20km/h近い高速を発揮することとなった。これは艦爆としては世界最高記録であり、同時期の米海軍急降下爆撃機ドーントレスよりも140km/h以上、後継機のSB2Cヘルダイバーよりも70km/h近い高速であった。

 しかし実用面となると話は違った。のちに問題となる液冷エンジンの不調はこの時点から発生していた他、燃料タンクからの燃料漏洩等多くの不具合が発生していたが、あまりの高性能に目がくらんだ海軍は試作機を実用実験と耐熱実験を兼ねて南方に進出させただけでなく、試作3号機、4号機を艦上偵察機に改修、空母蒼龍に搭載され実戦にまで投入された。最高の条件で製作された試作機ですら不調が起こっている状態で実戦で活躍できるはずもなく、これら試作機2機は、何ら戦果を挙げぬままミッドウェー海戦で失われてしまった。

 それでも1942年7月6日、艦上偵察機として制式採用されたが、翌月15日には試験中の5号機が空中分解事故を起こし、搭乗員2名が殉職している。この空中分解は急降下爆撃が主任務の艦上爆撃機としては致命傷であったため、艦爆としての制式採用は大幅に遅れ、1943年12月になってやっと艦上爆撃機彗星11型(D4Y1)として制式採用となった。

 

 

二式艦偵11型(D4Y1-C)

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(画像は二式艦偵11型 wikipediaより転載)

 

 1942年7月6日に制式採用された彗星の艦上偵察機型であり、最高速度533km/h、自重2,440kg、胴体内の爆弾倉には燃料タンクが増設されていた。さらに偵察装備としては、写真偵察用の固定自動航空写真機K-8型を搭載しており、これは高度10,000mから地上の飛行機の識別が可能であり、電動により一定の間隔で100枚の連続写真の撮影が可能であった。12型は、後述する彗星12型を改造した型で、1944年10月に制式採用、最高速度579.7km/h。翌月には後席機銃を二式13mm旋回銃に換装した12甲型が制式採用された。

 

12型

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(画像は彗星12型 wikipediaより転載)

 

 1944年10月に制式採用された型で、エンジンを熱田32型(1,400馬力)に換装した型であったが、熱田12型以上に故障が多かった。照準器は、前期型は光学式九八式射爆照準器であったが、後期型では望遠鏡式の二式射爆照準器1型に変更されている。12甲型は後席の旋回銃を二式13mm旋回銃に換装した型で1944年11月に制式採用された。12戌型(丙型)は、後席に九九式20mm機銃を斜め銃として搭載した夜間戦闘機型である。

 

21,22,22甲型(航空戦艦搭載用)

 21型、22型、22甲型は、航空戦艦伊勢、日向搭載用に各部を強化、制動板を廃止し、カタパルト射出用に改造した型で、21型は1944年3月17日、22型は同年10月、22甲型は11月に制式採用、少数が生産された。21型は彗星11型を航空戦艦用に改造したもの、22型は彗星12型、22甲型は12甲型を航空戦艦用に改造した型である。

 

33型(D4Y3)

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(画像は彗星33型 wikipediaより転載)

 

 故障の多い熱田32型エンジンを信頼性の高い金星エンジンに換装した型で1944年5月に正式採用された。初期型は金星61型エンジンであったが、後期型は金星62型エンジンに変更された。馬力は300馬力増加したが、空冷エンジンの採用によって空気抵抗は増加したため最高速度は若干低下した。

 エンジンの換装した上で着艦フックは廃止されたため実質的には陸上爆撃機となった。尾輪は固定式、着艦フックの廃止、垂直尾翼の面積増大、武装は後席の機銃を一式7.9mm旋回銃に変更、胴体内の他に主翼下にも250kg爆弾が各1発装着できるように改造されている。

 

43型、54型(D4Y4)

 33型を防弾強化、噴進器を装備、単座化した型で防弾は、風防前面に防弾ガラスを装備、コックピット前部には5mm厚、後部には9mm厚の防弾鋼板を装備した他、燃料タンクも防弾式に変更された。噴進器は離陸用に機首下面に4FR110型噴進器(推力1,200kg)2本、緊急空中加速用に後部胴体下面に4FH121型噴進器(推力2,000kg)3本(のち2本)が装備された。

 武装は、単座化したため後席の旋回銃は廃止、機首の7.7mm固定機銃2挺も1945年4月には廃止された。胴体内には800kg爆弾1発が搭載可能となったが、爆弾倉扉は廃止された。照準器は初期型は望遠鏡式(一部光学式)であったが、後期型は照門式に変更された。これらの改修のため自重は2,635kg(12型は2,510kg)に増大、最大速力は552km/hに低下した。特攻機的性格の機体ではあるが、後部胴体内には救命筏は搭載されている。さらにエンジンを誉(陸軍名「ハ45」)に換装する54型の計画もあったが計画のみで終わっている。

 

生産数

 愛知では、1942年から1944年の間に11型(二式艦偵含む)が660機、12型が320機、33型が1944年から1945年までに536機、43型が1945年に296機生産されている。他にも第11航空廠でも生産されており、こちらでは1944年から1945年までに約430機生産された。合計2,253機(2,157機とも)。

 

まとめ

 

 彗星は生産性を重視せず、戦闘機すら振り切る高速、高性能を追求した実験機的性格の機体であった。完成当初、制式採用されたばかりの零戦を20km/hも上回る高速に海軍関係者は魅了され、試作機の実戦投入という暴挙に出たほどであった。しかし高性能の反面、生産性、信頼性は低く、実戦部隊での稼働率は低かった。彗星は、目先の高性能に目がくらみ、後方や支援体制を軽視する日本的な性格が顕著に表れた航空機であった。

 

 

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