トイレで読む向けブログ

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01_mp7
(画像はwikipediaより転載)

 

 MP7とは、H&K社が開発したPDW(Personal Defense Weapon)である。カートリッジは4.6×30mm弾で、これは防弾ベストを貫通させることを目的として開発されたカートリッジであり、後方支援部隊の護身用の銃器として開発された。4.6mm弾の貫通力は凄まじく、200m先のクラス3Aの防弾ベストを貫通する能力を有する。弾丸が小型であるため装弾数も多く、ロングマガジンは40発を装填することができる。このため本来の目的以外にも特殊部隊等で使用される例が多い。

 

MP7(実銃)

 

 

性能

全長 415mm(ストック展開時638mm)
重量 1,900g
口径 4.6mm
使用弾薬 4.6×30mm弾
装弾数 20/40発
設計・開発 H&K社

 

開発

02_mp7
(画像はwikipediaより転載)

 

 MP7の特徴はイギリスで開発された4.6mm弾を使用することにある。この弾薬はP90で採用された5.7×28mm弾と同様の設計思想で開発された弾薬で高い貫通力が特徴であり、MP7もP90同様に後方支援部隊のPDW(Personal Difense Weapon)として軽量・コンパクトに設計されている。本体はプラスチックを多用、後方には伸縮式ストックを装備しており、作動方式はHK416等で使用されているショートストロークピストン式ガスオペレーション、クローズドボルト、閉鎖機構はロータリーロッキング方式を採用している。

 このロータリーロッキング方式とは、ボルトを回転させることで作動を遅くし連続射撃を可能にする機構で現在AK47、M16、M1ガーランド等、多くの銃に採用されている機構である。弾倉はイスラエル製サブマシンガンであるUZIのようにグリップ内に収納する形式になっており、グリップ内に収まる20連マガジンとグリップから突き出す40連マガジンがあり、銃上部には20mmレイルが装備され、そこにアイアンサイト、光学照準器等を装着することができる。

 貫通力はNIJ規格の44マグナムや357SIG弾を防ぐ能力を持つクラス3A防弾ベストを200m先から貫通する性能を持つ。1999年にドイツ連邦軍に制式採用、2001年より生産に入った。P90と同様に多くの特殊部隊において採用されている。

 

バリエーション

03_mp7
(画像はwikipediaより転載)

 

 オリジナルのMP7の他、照準器やグリップやストックの形状の一部が変更され銃身のサイドにピカテニー規格の20mmレイルを装着したA1、銃身下部のフォアグリップを廃止、代わりに20mmレイルを装着したA2モデル、セミオートのみのMP7SFモデル等がある。

 

MP7(トイガン)

 

概要

 トイガンでは頑住吉がガスガンとしてプロトタイプモデルPDWを発売、アカデミー科学が電動ガンとして発売してる。2006年2月8日には東京マルイが電動ガンを発売、2012年10月29日にガスブローバックモデルを発売している他、2009年7月28日にはKSCもガスブローバックモデルを発売している。これらはどちらも実物のデータが入手出来なかったためと言われるが実物よりもサイズが小さい。1/1スケールのトイガンでは2019年6月11日にVFCが発売したものが唯一である。

 

東京マルイ MP7 電動エアガン

性能

全長 380mm(ストック伸縮時590mm)
重量 1,480g
装弾数 50発
初速 77m/s前後
定価 28,800円

 東京マルイが2006年に発売した電動ガン仕様のMP7である。全長が実銃に比べて4cm程短いほか、重量も実銃に比べて400gほど軽い。そう考えるとおもちゃ感があるが、そこは東京マルイ。外観の完成度は非常に高く、命中精度やその他実射性能も安定している。日本メーカーなのでパーツの供給も問題が無い。サイズにこだわりが無ければ本銃も選考の対象となる。

 

東京マルイ MP7 ガスブローバック

性能

全長 381mm(ストック伸縮時586mm)
重量 2,200g
装弾数 40発
初速 75m/s前後
定価 32,800円

 サイズは同社製電動ガンと同じで実銃よりも小さいが、重量は実銃の1.96kgに比べて2.2kgと実銃よりも重く作られている。無論実銃はカートリッジを装填していない状態なので装填後は実銃の方が重くなる。電動ガンに比べて命中精度やパワー、作動の安定性は劣るものの迫力のあるブローバックを楽しみたいユーザーにはガスブローバックが良い。

 

KSC MP7 ガスブローバック

性能

全長 380mm(ストック伸縮時590mm)
重量 2,120g
装弾数 40発
初速 74m/s前後
定価 34,800円

 KSC製のMP7は東京マルイと同様に全長が4cm程短いがそれ以外の再現性は高い。ガスブローバックなので電動程の命中精度は期待できないものの、ガスブローバックでは平均以上の命中精度を発揮している。KSC製は初期モデルMP7A1とバージョンアップモデルのMP7A1-2、さらにはタクティカルモデルの3種類がある。2が最新型でマグネシウムボルトにスペアマガジンが2本付属する。価格は一緒なので購入する際は間違えないようにしたい。タクティカルモデルは限定品でこれも2と同様にマグネシウムボルト仕様である。

 

VFC MP7 電動ガン

性能

全長 418mm(ストック伸縮時640mm)
重量 1,665g
装弾数 120発
初速 91m/s前後
定価 53,600円

 このVFC製の電動MP7の最大の特徴は、他のエアガンメーカーの製品と異なり、実物大で製作されていることであろう。東京マルイ、KSC製のトイガンに比べると全長が4cm程長い。これは結構な差であろう。命中精度やその他性能においても他のメーカーに引けは取らないため、リアリティ志向のユーザーはこちらの製品が良いかもしれない。しかし総合的な性能や保証に関しては日本メーカーに一日の長がある。

 

まとめ

 

 MP7は後方支援部隊用の個人防御兵器として開発された銃器であり、ほぼ同様の目的で開発された銃にベルギーのFN社P90がある。P90に同カートリッジを使用するFive-SeveNがあるようにMP7にも同カートリッジを使用するP46があったが性能が今ひとつであったため2009年に開発が中止されている。しかしMP7の性能は高く、現在でも日本を始め、多くの特殊部隊で使用されている。

 

 


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01_深山
(画像はwikipediaより転載)

 

 深山は中島飛行機が開発した大型陸上攻撃機である。4発エンジンで全幅はB-29に匹敵する42mに達したが、性能が海軍の要求値に達せず試作機含め6機のみで生産が中止された。この6機の内4機は輸送機に改造されたが、予備部品の不足と油圧系統の不良に最後まで悩まされた。

 

大型陸上攻撃機 深山 〜概要〜

 

性能(試製深山)

全幅 42.14m
全長 31.02m
全高 6.13m
自重 20,100kg
最大速度 420km/h(高度3,000m)
上昇力 2,000mまで5分17秒
上昇限度 9,050m
エンジン出力 1,570馬力
航続距離 5,161km(偵察過荷重)
武装 20mm機銃2挺、7.7mm機銃4挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)4発または
   250kg爆弾12発または
   60kg爆弾24発
設計・開発 松村健一 / 中島飛行機

 

背景から開発まで

 

大型攻撃機(大攻)と中型攻撃機(中攻)の違い

 1938年、それまで陸上攻撃機としていたものを大型攻撃機(大攻)、中型攻撃機(中攻)という二種類に分類した。主要任務、特性は同じであるが、爆弾搭載量が大攻1,500kg、中攻が800kg、航続距離が大攻が3,000海里(5,556km)、中攻が2,000海里(3,704km)と異なる。その他、乗員数、搭載機銃数等も異なるが、大攻と中攻の大きな違いは爆弾搭載量と航続距離であるといえる。

 

ダグラス社よりDC-4Eを購入

02_DC-4E
(画像はDC-4E wikipediaより転載)

 

 1937年12月、日本の航空産業は四発重爆の開発経験のないため、海軍は米国ダグラス社からDC-4を製造権付きで購入することを決定する。このDC-4はのちに活躍するDC-4Aではなく、DC-4Eと呼ばれる別型である。しかし日本海軍が四発重爆の開発を計画していることは極秘であったため名目上は大日本航空株式会社が購入、中島飛行機が製造するという形式が採られた。

 大日本航空は当時、1938年11月に戦時体制の一環として数社の民間航空会社が合併して誕生した半民半官の会社で日本国内の航空輸送事業を独占していた。1938年、DC-4Eはこの大日本航空の旅客機という名目で95万ドル(当時の金額で190万円)で購入された。このDC-4E、実は失敗作であり、それを承知の上でダグラス社は大日本航空に売り渡したとも言われている。それはともかく、こうして購入されたDC-4Eは1939年10月日本に到着、早速組み立てられ11月13日に初飛行を行った後、密かに霞ヶ浦に運ばれ分解調査が実施された(※筆者注、このへんの時系列は今ひとつはっきりしない)。

 

開発

02_深山
(画像は右が深山、左は連山 wikipediaより転載)

 

 1938年、十三試大攻(G5N1)の計画要求が出された。この中での性能要求はDC-4Eをベースとする四発大型陸上攻撃機で、最大速度444.5km/h以上、航続力は爆装時4,482km以上、偵察時8,334km以上というもので中島飛行機に開発を命じた。中島飛行機は松村健一技師を中心に作業を開始、ベースが旅客機であるので主翼はそのままで胴体を再設計するという方針で開発が進められた。

 開発が開始されたもののベースとなるDC-4Eの製造図面の入手が必要であったため1938年2月、中島飛行機は技師数名をダグラス社に派遣する。製造図面は同年5月に引き渡しが完了する。中島飛行機では同月、全木製グライダーが製作され実験が行われている。1939年6月22日には実物の1/2サイズによる強度試験が実施。1941年2月末には試作1号機が完成する。

 当初は主翼の構造はそのまま生かす方針であったが、DC-4Eの低翼から十三試大攻では中翼に変更、胴体、尾翼は完全な新規設計であった。武装は、前方、胴体中央部上面、胴体下面、後方に1挺、胴体側面に各2挺の合計6挺であった。この内、上面には動力銃架に設置された20mm機銃、後方には20mm機銃が配置されている。

 エンジンは中島製護11型(1870馬力)が予定されていたが、開発が間に合わなかったため火星12型(1,530馬力)4基となった。1941年4月8日初飛行、ついで完成した2号機も海軍に領収された。海軍において試験が開始されたが、重量超過な上、エンジンの馬力が不足しており、最大速度は391.7km/hで要求値よりも約53km/h遅く、航続距離も要求値の50〜60%程度と期待外れのものであった。さらには油圧系統の不調が続出する。

 増加試作機4機は、護エンジンが完成したため、それまでの火星12型に代わり護11型が装備されたが、信頼性が低い上に振動が大きかったため開発は難航したが、1942年中頃には3号機、さらに4〜6号機が海軍に領収された。プロペラは1〜2号機の3翅から4翅に変更されている。これらは深山改(G5N2)と呼ばれている。最高速度は420.4km/hと約30km/h向上、航続距離も増大したが要求値には達しなかった上、相変わらず油圧系統のトラブルに悩まされていた。

 

輸送機型

 4機製造された深山改は性能が要求値に達しなかったため攻撃機としての使用は断念、輸送機に改造された(G5N2-L)。武装は撤去され、後下方銃座の位置には観音開きのハッチが設けられた。貨物搭載量は4tで油圧による操縦系統は人力に切り替えられたが、非常に重くなるため油圧で補助するという方式に変更された。

 

生産数

 試作機深山が2機、増加試作機の深山改が4機の合計6機である。火星エンジン装備の深山2機は空襲で破壊され、深山改の4機の内1号機はテニアン島で破壊され、2号機は事故で消失。終戦時は厚木基地に2機が残存していた。

 

戦歴

 輸送機に改造された深山は、1944年2月半ばに輸送部隊である1021空(通称「鳩部隊」)に配属された。配属された深山は2機で尾翼には当初は「鳩-1(2)」と記入されたがのちに鳩という呼称が廃止されたため尾翼には「21-1(2)」と記載されるようになった。3月にはさらに2機が配属、1021空は、1号機から5号機までの合計4機を保有するようになった(4号機は「死に番」であるため欠番)。これら4機の深山は、3月上旬より輸送飛行が開始されたものの故障が続出した上に部品が不足しており運用は難しかった。このような状況の中、4月19日には台湾から鹿屋に向かった深山2号機が墜落してしまった。

 6月には1号機がテニアンに進出したものの、その後、米軍がテニアン島に上陸したことにより1号機は失われている。1021空は残った2機(3号機、5号機)でマニラ方面への輸送任務を行っていたが1944年8月24日に輸送任務中止が命ぜられたため2機の深山は相模空に整備用の教材として引き渡され、そのまま終戦を迎えた。

 

まとめ

 

 深山は十三試大艇(二式大艇)と同時に計画された4発大攻である。どちらも4発であったが、飛行艇に対して陸上機の設計実績がなかったため二式大艇のような成功はしなかった。しかしたとえ開発されていたとしても防弾性能の不備により目立った活躍は出来なかったであろう。因みに深山は、キ68またはキ85として陸軍での採用が計画され、1942年4月には実物大模型審査が行われたが深山の性能不足が明らかになったため1943年5月に計画が中止されている。

 

 

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109_0903

 

 んで、デジカメ復活第一弾の記事は、ずっとアップしたかったマルゼンM4506!・・・ん?何故いまさらこんな古いものを?・・・とお考えのみなさん。アップした画像を見てくだされ!(デジカメ効果!)正直、20年前のものとは思えない品質の高さ!・・・でしょ?

 

109_0902

 

 この銃はマルゼンが恐らく1989年に発売したガスガン。私の記憶ではこの銃で今まで二流メーカーだったマルゼンが一流メーカーと認められるようになった記念碑的な銃(少なくとも私の中では)。当時はまだバブル景気でトイガンメーカーも製品に金をかけていた(と思う)。値段が12000円だったと思うな。

 

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 確か、MGCのM645の後に発売されたものだと思う。実銃はS&Wのオートマチック、製品ナンバーが4桁のいわゆる「サードジェネレーション」と言われるシリーズ。因みに2桁(M39、M59)がファーストジェネレーション、3桁(M645、M745等)がセカンドジェネレーション。昔の人気ドラマ『マイアミバイス』で主人公がブレンテン、M645に次いで使っていたというがよく知らん。他の人のブログを参照。

 

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 んで、マルゼンのM4506レビュー。トイガンでM4506をモデルアップしているのはマルゼンのみなので固定スライドでも貴重なモデル!プレミアが付きなんと!6000円・・・(全然人気無い)・・・とっとにかく購入したのだ。

 

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 何より注目してもらいたいのがこのメッキの美しさ。ヘアラインもしっかり入っているし・・・パーティングラインまでしっかり入っている!・・・まあ、これはご愛嬌。

 

DSC_0489

 

やっぱりS&Wのオートマチックはいいねぇ。。。

 

M4506

 

 実際、大げさだけど実物と見間違う位きれいなメッキだよ。ワンピースグリップのグリッピングは手にぴったり吸い付くし、実物の完成度の高さが窺える訳だ。

 

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 何より、私がこの銃を一番すごいと思うのはその命中精度だ。私が測定した結果、5mで16発撃った結果、何と3cmに集中!20発で7cm(私の集中力が切れた)。今のガスガンに引けをとらない命中精度。可動式インナーバレルでよくこの精度が出せたものだ。

 

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 トリガープルは非常に軽いが固定スライドのためにストロークはリボルバー並みに長い。パワーは測定できないけど、20年前のものだからかなり低いと思う。

 

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 私のは初期のものでノンホップ。まだS&Wのロゴがしっかり入っている。もちろん無許可だと思う(笑)。のんきな時代であった。例によってダメだしを少し。まず前述のパーティングラインが残ってしまっていること。これはメッキの良さと銃自体のデザインの正確さからするといかにも惜しい!トリガーのストロークが長すぎることは仕方ないとして、この銃は何故かマガジンを抜く時に生ガスが噴出する。

 

IMG_0913

 

 イメージとしてはマガジンキャッチを押すとガスの圧力でマガジンが射出される感じ。あと、マガジンの切断面が何も加工されていないので、マガジン挿入口のメッキが傷つくのが難点。

 とまあ、探せば欠点は出てくるが、メッキの美しさとモデリングの正確さ、命中精度の高さから考えると今でも充分に通用するモデル。コレクションとしては最高。トイガンとしてモデルアップされているのはこれだけなので店頭で見かけたら購入をおススメ!

 

【追記】2019年10月4日

 

 M4506のスムーズなトリガープルと脅威の命中精度は今でも覚えいてる。S&Wオートの中でも特に、M645、M4506はドラマ『特捜刑事マイアミバイス』の主人公ソニークロケット刑事が使用していたため人気がある。ガスガンとしては数社がモデルアップしているが、完成度が高いのはこのマルゼンのM4506とMGCのM645の2モデルだ。どちらも発売されたのが1990年前後の製品で、かなりの高品質だ。

 メッキも丁寧にかけられているし、パーティングラインもほぼ消されている。さらにピン類はステンレスを使用するという贅沢な仕様だ。そのような製品であるため、固定スライドガスガンではあるが、現在でも高値で取引されている。もしもリサイクルショップ等で安値で見かけたら購入しておくのがおススメ。

 

 


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01_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式陸攻は全金属製双発攻撃機でそれまでの攻撃機を超越する高性能を示した。最高速度は当時の艦上戦闘機を上回り、航続距離、運動性能全てが優秀であったが、防弾性能は皆無である。九六式陸攻は日中戦争から太平洋戦争終戦まで活躍する。

 

九六式陸上攻撃機 〜概要〜

 

 

性能(11型)

全幅 25.0m
全長 16.45m
全高 3.685m
自重 4,770kg
最大速度 348km/h(高度2,000m)
上昇力  -
上昇限度 7,480m
エンジン出力 910馬力
航続距離 4,550km(過荷重状態)
武装 7.7mm旋回銃3挺
設計・開発 本庄季郎 / 三菱重工

 

背景から開発まで

 ワシントン、ロンドン軍縮条約で対米6割とされた日本海軍は、航空機によってその劣勢を補おうとした。そこで目を付けたのが雷撃可能な陸上攻撃機であった。最初に七試大型攻撃機(のちの九五式大攻)の開発を指示、さらに中距離陸上機の開発を三菱重工に命じた。これが八試特殊偵察機(八試特偵)と呼ばれる機体でこれが改良され九六式中攻となる。

 

開発

 

八試特偵

 1933年、三菱は海軍より八試特偵の開発を指示された。九六式艦戦の時と同じように当時の航空本部長山本五十六少将の判断により細部にわたる指示はせずに性能要求は大枠のみを示し、技師に自由に腕を振るわせるという方針であった。このため三菱に提示された性能要求は「乗員3名、巡航速度222km/h以上、航続距離3,330km、自動操縦装置が装備されていること程度の簡単なものであった。

 これに対し三菱は本庄季郎技師を設計主務者として開発を開始、1934年4月18日、試作1号機が完成する。この八試特偵は、全金属製中翼単葉双発機で日本初の引込脚を装備、沈頭鋲の使用、自動操縦装置の装備等斬新なものであった。なお、試作中に計画が変更され、乗員が5名、7.7mm機銃2挺が設置されることとなった。

 1934年5月7日初飛行が行われた。当初は重量超過や重心位置や剛性不足等の問題が発生したが、テスト飛行の結果は非常に優秀であった。馬力不足から上昇力に問題があり、実用上昇限度は4,600mと今ひとつであり、巡航速度は203km/hと性能要求を下回ったものの、全体的な性能は素晴らしく、特に航続距離は4,380kmと性能要求を1,000kmも上回るものであった。操縦性能も抜群で安定性も良好、その軽快さは戦闘機並みであり、テストパイロット達から絶賛された。

 

九試中攻(九六式陸攻)

02_九六式陸攻
(画像はwikipediaより転載)

 

 1934年2月、八試特偵の実用機型ともいえる九試中攻の開発が指示された。設計主務者は八試特偵と同じく本庄季郎技師で1935年6月に試作1号機が完成する。機体は最新の超ジュラルミンが使用され、主翼と尾翼は八試特偵のものをほぼそのまま流用したが、胴体は完全に再設計され操縦席は正副並列式となった。

 機銃は前上方、後上方、後下方の3ヵ所に7.7mm機銃が設置され、爆弾・魚雷の懸吊、投下装置が設置された(爆弾等は機外に懸吊される)。エンジンは九一式600馬力エンジン2基が装備された。初飛行は1935年7月で最高速度は315km/hを記録、3,000mまでの上昇時間も八試特偵の16分54秒に対して9分43秒と航続距離以外の全てにおいて八試特偵を凌駕していた。一時期、座席の配置が問題となり時間を浪費したが、1936年6月には、九六式陸上攻撃機として制式採用された。

 

11型

 最初期の量産型で34機が製造された。エンジンは金星3型(790馬力)で最高速度は348km/hであった。続いて21型が生産された。これは金星41型または42型(どちらも1,075馬力)エンジンに換装された型で最大速度は376km/hに達した。乗員5名。

 

22型

 1939年4月、それまで後上方の機銃が7.7mmであったのを20mm機銃に変更、胴体側面に7.7mm機銃を各1挺新設、機銃を合計4挺とした武装強化型の22型が制式採用された。後上方銃座は涙滴形風防が採用されている。乗員は7名となった。エンジンは途中の生産機から金星45型(1,000馬力)に変更されている。

 

23型

 1941年2月、一式陸攻の生産に集中するために三菱での九六式陸攻の生産は打ち切られ、中島飛行機に生産が移行された。この中島飛行機で最終生産型の23型が生産されている。23型はエンジンを金星51型(1,300馬力)に変更、最大速度は415km/hとなった。

 

その他バリエーション

 九六式陸上輸送機は11型、21型がある。11型は乗員5名、乗客10名を乗せることができ、12型は乗員以外に落下傘兵12名を乗せることができた。その他民間型もあり、これは乗員4名と乗客8名を乗せることができる。ニッポン号と呼ばれた。

 

生産数

 試作機が21機、11型で34機、21型が343機、22型が238機、23型が412機生産されている。

 

戦歴

 最初に九六式陸攻が配備されたのは館山空で1936年早春のことであった。さらに4月1日には海軍初の陸攻専門部隊である木更津空が誕生、6月には九六式陸攻が配備された。1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると木更津空は長崎県大村基地に鹿屋空は台北に進出、8月14日には18機の九六式陸攻が中華民国軍の飛行場等を爆撃に成功している。この際、九六式陸攻の被撃墜2機、不時着1機、大破1機の損害が発生、以降、3日間に渡って中国本土の基地を攻撃したものの陸攻隊も9機を失うという損害を出している。これが有名な渡洋爆撃の最初であったが、中華民国軍の反撃は激しく、17日には木更津空、鹿屋空ともに兵力が半減してしまっている。

 これ以降、木更津空、鹿屋空で編成された第一連合航空隊(一連空)は陸戦協力や敵飛行場、交通施設等への爆撃、1938年2月には重慶への無差別爆撃も行ったものの、陸攻隊の損害も30機に達したため、3月には内地に帰還した。これと入れ替わりに同月、台湾の高雄で新しく高雄空が編成、さらに1939年10月には千歳基地で千歳空、1940年10月には美幌空、11月には元山空が開隊するなど、徐々に陸攻隊が充実していく。

 1941年になると新鋭の一式陸攻が部隊に配備されるようになり、鹿屋空、高雄空が一式陸攻に改変されていった。しかし未だ一式陸攻は全部隊に配備されるまでには至っておらず、太平洋戦争開戦時には一空、元山空、千歳空が九六式陸攻を装備していた。太平洋戦争開戦後は美幌空、元山空の陸攻隊がマレー沖海戦に参加、航行中の戦艦を撃沈するという快挙を成し遂げた。同時に比島では一空の九六式陸攻がクラーク基地に対して爆撃を行い、中部太平洋では千歳空の九六式陸攻がウェーク島攻撃を実施している。

 1942年1月には一空、元山空がラバウルへ進出、珊瑚海海戦等にも参加したものの7月には一空が内地へ帰還、兵力の補充のため、11月には701空(旧美幌空)がラバウルに進出しているが、この頃には主力は一式陸攻に代わっており、九六式陸攻は徐々に第一線から後退していったものの、終戦まで哨戒、索敵、船団護衛等に活躍した。

 

まとめ

 

 九六式陸攻は当時の戦闘機を凌ぐ高速であったため海軍内部に戦闘機不要論を引き起こす結果となった。しかしこれは防弾性能を全て犠牲にした結果であり、実際に戦闘に参加した九六式陸攻は防弾装備の欠落のため多大な損害を受けることとなる。そして防弾装備を強化されることなく終戦まで使用され続けた。

 

 

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01_流星
(画像はwikipediaより転載)

 

 流星は戦闘機、爆撃機、攻撃機の3機種の機能を全て兼ね備える万能機として設計された。戦争後期に生産され実戦にも参加したが、ほとんど活躍することなく終戦を迎えた。基本性能だけを見れば世界最高級の航空機であるが、エンジンの不調や各種不調に悩まされた航空機であった。

 

艦上爆撃機 流星 〜概要〜

 

性能

全幅 14.4m
全長 11.490m
重量 自重 全高 4.07m
自重 4,030kg
最大速度 567km/h(高度6,000m)
上昇力 6,000mまで10分20秒
上昇限度 11,250m
エンジン出力 2,200馬力
航続距離 1,852km(増槽装備時)
武装 20mm機銃2挺、13mm機銃1挺
爆装 800kg爆弾(または魚雷)1発または
   500kg爆弾1発または
   250kg爆弾2発または
   60kg爆弾6発
設計・開発 尾崎紀男 / 愛知航空機

 

背景から開発まで

 それまで艦上攻撃機、艦上爆撃機と機種を分けていた海軍航空であったが、機体の性能の進化、また同時に艦艇の性能の向上により艦上攻撃機には高機動性、艦上爆撃機には積載能力の向上というように艦攻と艦爆の設計上の差が少なくなっていった。

 この結果、艦攻と艦爆、そして艦偵の機種統合という動きが現れるようになってきたが、これはまた実施部隊からしても好都合であった。このような事情を踏まえ1941年、海軍は愛知航空機に対して十六試艦上攻撃機という名称で、艦上攻撃機と艦上爆撃機の両方機能を備えた高性能艦上機の開発を命じた。

 

開発

02_流星
(画像はwikipediaより転載)

 

 1941年10月、海軍は愛知航空機に対して十六試艦上攻撃機の開発を命じた。海軍からの性能要求は、当時の新鋭機零戦を上回る速度と武装を持ち、優れた空戦能力を持った艦上攻撃機の能力と艦上爆撃機の能力を持った艦上機の開発という毎度ながらの過酷な要求であった。

 これに対して海軍からの要求を受けた愛知航空機は尾崎紀男技師を設計主務者として計画を策定、1942年1月から本格的な設計が開始された。機体は日本では珍しい逆ガル翼の主翼に胴体内爆弾倉を設け魚雷以外の爆弾はこの爆弾倉内に搭載することとし、これによって空気抵抗の減少を図った。尚、扉は油圧による開閉式である。

 武装は当初は翼内に7.7mm機銃各1挺、後部座席に旋回式7.7mm機銃1挺であったが、増加試作中に武装強化が要求され、翼内に20mm機銃各1挺とされた。さらに1944年には旋回銃も13mm機銃に変更が要求され、結局、20mm機銃2挺と13mm機銃1挺という強力な武装となった。エンジンは誉11型(1,800馬力)でプロペラは4翅VDM定速プロペラが採用されていた。

 1942年12月試作1号機が完成、初飛行が行われた。完成した流星は予想以上に重量があり、さらには誉エンジンのトラブルやその他故障が頻発し、量産に入ったのは1944年4月であった。同年10月には実施部隊で使用できるレベルにまで達したが、その後も実験が続き、制式採用されたのは1945年3月であった。

 生産は開始されたものの東海地震や空襲などにより捗らず、終戦までに合計111機が生産されたのみである。試作機は増加試作機も含め9機(8機の可能性あり)が製造され、これらは試製流星(B7A1)と呼ばれ、その後の量産型はエンジンを誉12型(1,825馬力)または誉21型(2,000馬力)に換装、流星改、または流星11型と呼ばれた(B7A2)。さらに試製流星改一(B7A3)と呼ばれるエンジンをハ42/11型に換装した性能向上型も計画されたが計画のみで終わった。

 

評価

 スペックとしてはエンジン出力、爆弾搭載量では米国艦上攻撃機には劣っていたものの、速度、航続力は上回っており、世界最高性能と言って良い機体であったが、誉エンジンの不調や油圧系統のトラブル泣かされ、稼働率は低かった。流星は実戦にも参加したが戦果は不明である。流星の実戦部隊が編成されたのが昭和20年3月であり、初の実戦が7月24日で、英国機動部隊に対するものであった。戦果は不明であるが、111機製造され、終戦時の残存機が58機と大きく消耗していた。戦闘で撃墜されたものは15機で、その他の消耗の理由は不明である。

 

生産数

 愛知飛行機で試作機1機、増加試作機8機、量産機82機、大村の第21航空廠で約20機の合計111機が製造された。終戦時には58機が残存している。

 

戦歴

 1945年3月に流星が制式採用されると同月流星を運用するための部隊第5飛行隊が編成、第一航空艦隊75空(のちの752空)に麾下に配属されることとなった。これが唯一の流星部隊で初の実戦は前述の通り7月24日、25日で英機動部隊である第37機動部隊に対し薄暮攻撃を実施するため流星12期が1733から1818の間に千葉県木更津基地を出撃するが、戦果は無く、夜戦型ヘルキャットの攻撃を受け4機が撃墜されている。8月9日にも12機が出撃、6機が未帰還、13日にも4機が出撃したが全機未帰還、最後の出撃は終戦の日である8月15日の午前中である。

 

まとめ

 

 流星は戦闘機、爆撃機、攻撃機の全てを合わせた万能機となる予定であったが、あまりにも計画が理想的に過ぎた。海軍の性能要求は、当時の日本の技術力を大幅に超えたものであり、その上登場時期も遅すぎた。機体設計は素晴らしかったが、他の戦争後期の日本機同様にエンジンの不調に泣かされた機体でもあった。しかし、工場の工作精度の低下や空襲が頻発したこの時期に至ってはどのような航空機であっても高性能を発揮することは出来なかっただろう。

 

 

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スーパーレッドホークアラスカン
(画像はwikipediaより転載)

 

 今日紹介するのは、スタームルガー社製スーパーレッドホーク。1979年にスタームルガー社が開発した44マグナムのダブルアクションリボルバーレッドホークの改良型である。ガスガンではタナカワークスとマルシンがモデルアップしている。実銃の性能とガスガンの性能についてみてみたい。

 

スーパーレッドホーク(実銃)

 

 

性能

口径 44口径、454カスール、480ルガー
重量 1502g
全長 194mm
使用弾薬 44マグナム、454カスール、480ルガー
装弾数 6発

 

概要

 レッドホーク1979年、スタームルガー社で開発された44口径マグナム銃である。スタームルガー社の44口径マグナムは1959年に発売されたスーパーブラックホークがあるが、こちらはシングルアクション銃である。シングルアクションとは一射撃毎にハンマーをコックして引き金を引くという動作をする(リボルバーでは。オートはまた違う。)。

 それはどうでもいいとして、それまでスタームルガー社には44口径のダブルアクション銃は存在していなかった。S&Wが1956年にM29を発売してから20数年。遅ればせながらという感じであろう。デザインは以前に発売されたセキュリティシックスそのままである。

 スーパーブラックホークでS&Wを大きく引き離したスタームルガー社であったが、レッドホークもまた大成功だったようだ。安価でなおかつ頑丈というスタームルガーの製品は実用重視のアメリカ人にはウケたようだ。

 1987年、頑丈だったレッドホークをさらに頑丈にしたのがスーパーレッドホークだ。一番の特徴はバレルとフレームの付け根を延長したフレームでカバーした。見た目は相当悪くなったが、強度は強化されたようだ。しかしやはりしかしこの改良によって重量は30g程増加することになる。

 バリエーションとしては10mm弾仕様モデル、454カスール、480ルガー、さらに銃身を無くしたアラスカンがある。アラスカンもスーパーレッドホーク同様の口径が存在するが10mm仕様のみない。 当初、装弾数は6発であったが、2008年に排莢を容易にするために5発に変更された。454カスールモデル、480ルガーモデルはノンフルートシリンダーモデルであり、44マグナムモデルはフルート付きモデルである。

 以上がスーパーレッドホークの概要である。以前、スタームルガー社の製品を「農耕馬」と譬えた人がいたが、まさにその通りの製品だ。銃はあくまで実用品なので、美しいデザインより「壊れない」「安い」「確実に発射できる」等が重要となってくる。これらを兼ね備えたスタームルガー社の製品は現在でもバカ売れだそうだ。

 

スーパーレッドホーク(トイガン)

 

 日本ではモデルガンはもちろん出ていない。モデルガンブームのころ、スーパーレッドホークが存在していればモデルガン化もされただろうが、残念ながら当時、スーパーレッドホークは存在しなかった。

 唯一近いのがWAが出していたルガーセキュリティシックスシリーズだが、かなりマイナーな存在だ。もちろん、こういうモデルガンは後に異常なプレミアが付くものだ。WAのセキュリティシックスもこの例に漏れず、現在では、とてもビックリする値札が装着されている。

 関係ない話になってしまったが、このスーパーレッドホーク、日本では何と2社からガスガンとして発売されている。これはマルシンとタナカ。マルシンはカートリッジ仕様でタナカはペガサスシステム。カートレスだ。これが両社の大きな違いである。どちらを買うかは人の好みだろう。

 タナカは命中精度も最近ではだいぶ良くなって来たようだし、外観のリアリティは業界随一と言っていい。これに対しマルシンはカートリッジを装填、排莢できるというリボルバーの醍醐味を堪能することができる。それに8mmBB弾モデルもあるというのも魅力だ。両社の製品共に良いところがある。

 

マルシン スーパーレッドホーク

 

特徴

 モデルガンメーカーの老舗マルシンのガスリボルバー。重量はカートを入れると900g前後となり、グリップしている手より先に重心があるために結構重く感じる。非常に再現度は高いが、フロントサイト前部に実銃には無い穴が開いており、さらにはフレーム全部のバレル接合部の形状が実銃の滑らかさが無いのが残念。

 しかしそれ以外の再現性は高く、刻印もほぼ実銃通りに入っている。グリップはプラ製でラバー風コーティングがされている。木製グリップのオプションは無いようだが、どのみちグリップにガスタンクがあるタイプのリボルバーは木製グリップを装着すると熱伝導が悪くなり、ガスタンクが暖まりにくいのでおススメはできない。

 性能は意外に良い。初速は60〜70m/sと高めであるが、これは銃身長によって異なる。但し、どのモデルもシングルアクションでは初速は落ちるが、これはガスリボルバーの宿命なので仕方がない。メッキモデルが多いが、箱出しでは作動は硬い。それなりに慣らし運転が必要である。

 

長所

 前述のように意外にパワーがあるが、同時にリボルバーにしては命中精度は高く、個体差はあるものの大体5mで5cm程度にはまとまる。リボルバーとしては異常な高性能といっていい。命中精度が高い理由は、シリンダーが引き金を引く直前にしっかりロックされること、バレル基部とカートが密着していることだ。何よりもマルシン製スーパーレッドホークの最大の長所は外観でモデルガンメーカーだけあってメッキの美しさはトップクラス。さらにトリガー、トリガー周りが金属製はのが良い。この部分は直接皮膚に触れるため感覚的にリアリティがある。

 もう一つ地味ではあるが、フレームのシリンダー側の面が亜鉛ダイキャストで作られている。通常多くのガスリボルバーはこの部分をフレームと同素材(ABS、HW等)にするためにスイングアウトをするとすぐに擦れて摩耗してしまうが、本製品は金属であるため消耗しにくい。

 

短所

 改造防止のため、シリンダー内側に切通しがある。通常使用する場合はあまり目に付かないが、リアリティという点においては今ひとつである。実射ではハンマー、トリガーが異常に重いのも欠点である。理由はシリンダーとバレルがタイトに接着するためで、これにより摩擦が大きくなりシリンダーの回転が重くなるためだ。接地部分にオイルを注すか削ってしまうと軽くはなるが、命中精度に影響するデリケートな部分であるので注意が必要。

 他にはあまり欠点は聞かないが、個体によってはフライヤー(弾が左右どちらかに極端に反れる)が起こることも極稀にあるという。さらに最近のマルシン製ではあまり聞かないが、ガスルート上のフレーム部分に亀裂が入るというのはこの種のエンジンを使用するガスガンでは定番であるが、これは仕方ないのかもしれない。

 

バリエーション

 マルシンのスーパーレッドホークには44マグナムモデルと454カスールモデルの2種類があり、それぞれ7.5インチバレルと9.5インチバレルがある。バリエーションはそれぞれABS、HWモデルがあり、ABSにはシルバーメッキモデルとディープブルーモデルがある。モデルガンメーカーだけあってメッキの仕上げはAAAクラスである。かつては8mmBB弾仕様も発売されていたが現在は絶版のようだ(2020年6月)。

 

マルシン スーパーレッドホーク アラスカン

 

 近年発売された上記マルシン製スーパーレッドホークのアラスカンモデル。レッドホークの銃身が無いタイプでハンターのサイドアームとして活躍することが期待されているモデルである。44口径仕様である。銃身以外は他のマルシン製スーパーレッドホークと同じである。長所としては短銃身モデルであるにもかかわらず命中精度は高い。これも個体差はあるが、大体5mで5cm程度にはまとまるようだ。

 欠点としては正面から見た場合、銃口が別パーツで金属製なのが不自然に見えてしまう。本体と材質が異なるため特に目立つ。さらにはバレル上部の段差は実銃ではスローブ状になっているのだが、この部分が再現できていないのが一番の残念なポイントだ。

 

【おまけ】フリーダムアート散弾カート

 マルシン製スーパーレッドホークに使用できる散弾カートがフリーダムアートから発売されている。これはカート内に複数のBB弾を装填することで「散弾」とするもので44マグナムタイプのカートでは6発、454カスールタイプでは7発のBB弾を一度に発射することが出来る。軽量弾を使用すると綺麗に散布するので面白い。

 

まとめ

 

 今日は、ルガースーパーレッドホークを観てみた。レッドホークに比べデザインの評判は米国でも悪いようだ。しかしメカニカルで無骨なデザインは妙に魅力的にも見える。同時にハイパワーなカートリッジを撃ち出す頑丈なボディに農耕馬のたくましさを感じる。

 

 


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01_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 百式司令部偵察機は世界初の戦略偵察機九七式司令部偵察機の後継機で三型で最高速度630km/h、四型では10,000mでも同速度を発揮した。これは日本陸海軍実用機中最高速度である。太平洋戦争開戦から終戦まであらゆる戦場に現れ情報収集に活躍した。

 

百式司令部偵察機 〜概要〜

 

 

性能

全幅 14.70m
全長 11.00m
全高 3.88m
自重 3,263kg
最大速度 604km/h(高度5,800m)
上昇力 8,000mまで20分15秒
上昇限度 10,500m
エンジン出力 1,050馬力×2基
航続距離 4,000km(増槽装備時)
武装 7.7mm機関銃
設計・開発 久保富夫 三菱重工

 

背景から開発まで

 九七式司令部偵察機の活躍は陸軍に戦略偵察機の重要性を認めさせるには十分であった。しかし九七式司令部偵察機は司令部偵察機としては暫定的なもので固定脚であること等、性能に不満な点も残るものであった。このため陸軍は本格的な司令部偵察機の開発を計画することになる。この時の性能要求は引込脚で最大速度が高度4,000mで600km/h以上、航続距離が巡航速度400km/hで6時間という厳しいものであった。特に写真撮影のために水平直線飛行性能が良好であることが強く求められた。

 

開発

02_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 1937年12月27日、陸軍は三菱重工に次期司令部偵察機をキ46として試作を命じた。これに対して三菱重工は、設計主務者を九七式司令部偵察機と同じ久保富夫技師として設計にかかった。まずエンジンは、敵地深くに侵入した際にも安全性を確保できるようにハ26(850馬力)の双発とし、構造上、空気抵抗が大きくなってしまう空冷エンジンの不利を極小化するためにエンジンナセルを始め流線形のデザインを取り入れた。本機はその後、日本陸海軍を代表する傑作機と言われるが、本機の要求に関して陸軍は細部にまで注文を付けず、メーカーに自由に設計を行わせたことにあるとも言われている。

 1939年11月(8月とも)、試作1号機が完成、同月に初飛行に成功する。その後、基本審査、実用実験、寒冷地試験等の各種試験が行われ1940年8月(6月とも)10日試験が完了した。試験の結果、安定性、操縦性などに関しては非常に優秀であったものの、最高速度が540km/hと性能要求の600km/h以上に遥かに及ばなかったが、1940年9月下旬に百式司令部偵察機として制式採用された。この間に試作機、増加試作機含め7機が製造されている。

 

二型

 1941年3月、キ46のエンジンをハ102(1050馬力)に換装したキ46兇了邵遒行われた。このハ102に換装した況燭蝋眦5,800mで最高速度604km/hを記録、改良により自重は増加したが燃料搭載量も増大したため航続力も374km長くなった。但し、自重が増えたため着陸速度が増大し、着陸距離が儀燭606mから706mと100mほど長くなった。同時に翼面荷重も若干増大している。二型の試験は1年以上に及び、1942年5月に試験が完了、翌月に百式二型司令部偵察機として制式採用された。この二型は、初期こそ脚破損等の問題点が発生したが種々の対策により解消されている。

 この二型は大戦時に最も活躍した型であったためいくつかのバリエーションが存在する。B17迎撃用として37mm戦車砲を搭載した型がある。これは1942年12月末に設計開始、1943年1月に1号機が完成した。この機体は17機(15機とも)製造され、同年2月にラバウルの飛行第10戦隊に送られた。1944年11月には6機に斜め銃が取り付けられた。さらには現地部隊で翼端を25cm切断した機体もあったようだ。この機体は速度こそ10km/hほど向上したものの離着陸が非常に困難であったという。

 

三型甲

 二型が初飛行を行った1942年5月、三型の開発が命じられている。これはエンジンを水メタノール噴射式のハ112供1,500馬力)に変更したもので、エンジンが大型化したため新たに抵抗の少ないエンジンナセルを製作、同時に航続距離を延長するために燃料タンクを増設した。さらに後部の7.7mm機銃は効果が無いため撤去、胴体燃料タンクには防弾ゴム被覆が施された。

 1943年3月に試作1号機が完成、1944年3月に基本審査が完了したのち1944年8月に百式三型司令部偵察機として制式採用された。

 最高速度は高度6,000mで630km/hと日本陸海軍の実用機中最速を記録した。大きな欠点はなかったものの酸素装置の性能不良、自動操縦装置の不良、脚の強度不足等の問題が実戦部隊から指摘された。後期生産機からは推力式単排気管が採用されている。

 

三型乙(百式司令部偵察機三型防空戦闘機)

 1943年6月、審査中の二型の防空戦闘機型の開発を開始。1944年8月、試作1号機が完成した。これは機首に20mm機関砲2門搭載、それまで胴体と一体化して流線形を構成していた風防を段付きに変更、推力式単排気管を採用した。乙型は90機(75機とも)が改造され、内、15機が37mm上向砲1門を搭載した三型乙+丙であった。

 

四型

 三型に排気タービン過給器を装着した型で、1943年12月に試作1号機が完成、1944年1月12日初飛行をした。排気タービン過給器を装着したため細部に改造が行われた。このため自重は179kgしたものの高高度性能はずば抜けており、高度10,000mで630km/hを記録した(三型は580km/h)。基本審査は1945年8月に完了、同年9月より量産に入る予定であった。

 

生産数

03_百式司偵
(画像はwikipediaより転載)

 

 儀燭試作機3機、増加試作機5機、生産機26機の合計34機が生産されている。二型は試作機4機、生産機1,093機の合計1097機、三型は試作機を含め611機が生産された(内4機が四型に改造されている)。合計の生産数は1,742機である。現在はイギリスに三型甲が1機が完全な姿で残されている(上掲画像)。

 

戦歴

 1940年11月に制式採用された百式司偵は、1941年8月に北支に展開していた独立飛行第16中隊に配備、これが初めての実戦部隊への配備であった。その後、この独飛16中隊は飛行第81戦隊に改変、11月には仏印サイゴンに進出、マレー方面の隠密偵察を行っている。太平洋戦争の開戦を迎えると81戦隊と同じく百式司偵を装備した第15独立飛行隊によってシンガポールの偵察が行われた。

 その他にも初戦期の蘭印航空戦、パレンバン空挺降下の事前偵察を行う一方、ビルマ方面でも81戦隊が百式司偵による偵察を実施、81戦隊は終戦まで同地で偵察活動に活躍している。南方では1942年7月に独飛70戦隊がニューギニアに進出、10月には独飛76中隊がラバウルに進出しており、それぞれニューギニア、オーストラリアやソロモン方面の偵察に活躍した。1943年6月には独飛74中隊、81中隊がニューギニアに進出、さらに1944年1月には満洲から進出した独飛82中隊も進出した。

 1944年5月には満洲から15戦隊がニューギニアに進出、海軍指揮下に入り洋上航法を習得したのちニューギニア北岸の偵察、さらには「あ」号作戦開始に伴いパラオ、ペリリュー島に進出して洋上での索敵を行ったのち、9月には比島に移動している。一方、同時期に満洲から比島に進出した2戦隊もダバオに進出、同じく海軍指揮下で洋上航法の訓練を受け6月にはパラオ島、ペリリュー島に進出、7月には同隊も比島に移動した。

 1944年10月には台湾沖航空戦が行われるが、この航空戦でも百式司偵を装備した10戦隊が米機動部隊索敵に出撃し、接触に成功、写真撮影を行い帰還している。この頃には百式司偵三型に改変した15戦隊、38戦隊が比島に進出、1945年2月には全ての戦隊が内地に帰還した。蘭印方面ではニューギニアで消耗した独飛74中隊が百式司偵三型に改変して同方面に進出、哨戒活動に従事している。1945年3月には台湾に展開していた第10戦隊が沖縄方面の偵察活動に参加、満洲では独飛81中隊と第42教育飛行隊が終戦まで活動している他、中国大陸では18中隊が同じく終戦まで活動している。

 そのほか、北東方面(現在の北方領土)でのアッツ島偵察やマリアナ強行偵察、本土防空戦での武装司偵によるB29迎撃等、百式司偵は多くの方面で活躍した。

 

まとめ

 

 百式司令部偵察機の成功は、陸軍が設計の細部に至るまで首を突っ込まなかったことになると言われている。その結果、実用機中最高速度を発揮、その高速は海軍にも注目される程であった。四型に至っては高度10,000mで630km/hを記録している。この高空性能に注目した陸軍は防空戦闘機型も開発したものの偵察機用に設計された機体は強度的に急機動には耐えられず目立った活躍はしなかった。

 

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01_P90
(画像はwikipediaより転載)

 

 P90とは、FN社が1990年に開発したPDW(Personal Defence Weapon)である。これは後方支援部隊等の兵士が最後の護身用に持つ火器で、第一線部隊の装備に対抗するために防弾チョッキも貫通する強力な5.7×28mm弾を使用する。形状は人間工学に基づいており反動が少なく扱いやすいがマガジンの交換に慣れが必要なこと等の欠点もある。

 

P90(実銃)

 

 

性能

全長 500mm
重量 2,540g
口径 5.7mm
使用弾薬 5.7×28mm弾
装弾数 50発
設計・開発 FN社

 

背景から開発まで

 当初、P90は後方支援部隊や車両の要員等、自動小銃を装備することが負担となる職種の兵士の自衛用として開発された武器であった。しかし小型で強力な貫通力を持つP90は特殊部隊用の火器として位置付けられるようになっていった。

 

開発

02_P90TR
(画像はP90TR wikipediaより転載)

 

  1986年に開発がスタート、1990年に生産が開始されたPDW(Personal Defence Weapon)である。最大の特徴はライフル弾を小型化した形状の5.7×28mm弾(SS90)を使用することで、この弾薬は小口径でありながら防弾チョッキを貫通する威力を発揮する。機構は小型化するためにブルパップ式を採用、主要パーツをプラスチック製とし軽量化も図っている。

 発射機構は単純なクローズドボルト・ブローバック方式でセミ・フルオート切替式で空薬莢はストック下部より下に排出され、発射速度は850〜1,100発/分、銃全体は人間工学に基づいた上に、衣服等に本体が引っかからないように丸みを帯びた形状として設計されており、パーツの交換等をすることなく左右両利きで使用できる。照準器は光学照準器とバックアップ用として通常のアイアンサイトも装備、マガジンは透明なプラスチック製で本体上部に位置しており、90度回転させて給弾するという独自の方式を採用、装弾数は50発と多いものの特殊な形状をした弾倉のため交換には熟練が必要である。これはP90の設計の目的が使用者が敵から攻撃を受けて最後の手段として使用するためであり、弾倉を交換して戦闘を続けるというのを主には想定していないからであろう。

 それだけに性能は素晴らしく、新規に設計されたSS90は150mの距離で防弾チョッキを貫通することが可能でありながら、反動も非常に少ない。因みに1993年にはさらに高性能のカートリッジであるSS190が完成している。

 

バリエーション

03_PS90
(画像はPS90 wikipediaより転載)

 

 照準器を廃止し、代わりにピカテニー規格の20mmレイルを搭載したTRモデル、米政府用モデルであるUSG(United States Government)、セミオートのみとした上でバレルを16インチに延長した民間モデルであるPS90カービン、1995年に登場したレーザーモデルがある。このレーザーモデルは可視レーザー(いわゆるレーザーサイト)を搭載するモデルと赤外線レーザーを搭載するモデルがある。この赤外線レーザーは射手が暗視装置を装備した状態で使用する。

 

P90(トイガン)

 

概要

 1991年にトイテックがガスフルオートで発売、2001年4月12日には東京マルイが電動ガンとして発売、2002年4月4日にはP90TR、2006年9月11日には再びP90を電動ガンとして発売、2012年6月28日にはハイサイクルモデルとしてPS90を発売している。

 

東京マルイ PS90 HC ハイサイクル電動ガン

性能

全長 667mm
重量 1,918g
装弾数 300発
初速 85m/s前後
定価 34,800円

 レシーバーは実銃同様樹脂製であるが、アウターバレルはアルミ製で16インチ銃身が装備されているが、取り外してP90とすることも可能である。フラットトップ仕様で光学照準器は装備されていない代わりに上部には20mmレイルが装備されている。ハイサイクルモデルであるため24発/秒での連射が可能、セミオートのキレも良い。命中精度やその他実射性能に関しては東京マルイ製であるので最高クラスで、BB弾が一直線にターゲットに吸い込まれていく。

 

まとめ

 

 P90は主に後方支援部隊用に設計された火器で設計思想的にはM1カービンに通じるものがある。コンパクトで反動が少ないため、世界中の特殊部隊で採用されている。同時に開発されたSS90(またはSS190)の性能は高く、この弾薬を使用した火器にはP90のサイドアームとして開発されたFN Five-seveNがある。

 

 


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01_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式艦戦は映画『風立ちぬ』で有名である。九六式艦戦の試作機である九試単戦は当時海軍で制式採用されていた九〇式艦戦の最高速度293km/hを大きく上回る451km/hを発揮、一気に世界の航空機製作の最先端に位置した名機中の名機である。

 

九六式艦上戦闘機 〜概要〜

 

 

性能(1号艦戦)

全幅 11.0m
全長 7.71m
全高 3.27m
自重 1,075kg
最大速度 406km/h(高度 - m)
上昇力 5,000mまで8分30秒
上昇限度 8,320m
エンジン出力 632馬力
航続距離 1,200km(増槽装備時)
武装 7.7mm機銃2挺、30kg2発または50kg爆弾1発
設計・開発 堀越二郎/三菱重工

 

背景から開発まで

 1934年2月、海軍は三菱重工と中島飛行機に次期艦上戦闘機である「昭和九年試作単座戦闘機(九試単戦)」の試作を命じた。試作に当たって海軍の性能要求は厳しいが、今回の海軍航空本部の性能要求は艦上機という制約を外した上、寸法や航続力に対する要求も緩和するといった思い切ったものであった。これは設計者に自由に腕を振るわせることで高性能機を得ようという構想であった。

 これに対して中島飛行機は主翼を上下の張線で固定した単葉機で、胴体は金属製、主桁は金属製であるが、リブは木製の羽布張りであった。操縦性能は良好であり、最大速度は407km/hにも達した。次期艦上戦闘機として審査中の九五式艦戦の最高速度が352km/hであるを考えるとその凄さが判る。しかし、この中島製九試単戦も堀越二郎技師設計の三菱製九試単戦の性能があまりにも卓越していたため不採用となってしまう。

 九試単戦の試作を命じられた三菱は、弱冠30歳の若手技師である堀越二郎技師を設計主務者として、他にも後に傑作機百式司偵を生み出す久保富夫、零式観測機を設計する佐野栄太郎等と共に開発に取り組んだ。

 

開発

02_九試単戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 堀越二郎技師は七試艦戦の失敗の検証から九試単戦の設計には空気抵抗の減少と重量軽減を最重要視することとした。この結果、外板を取り付ける際の鋲には空気抵抗を激減させる最新の沈頭鋲と皿子ネジが採用された。これは現在でも使用されている方法である。エンジンは強力な中島製寿エンジンを採用、主翼は前下方視界の確保と脚の強度の関係から、何と逆ガル翼を採用する。これはあまりにも斬新すぎるために安全のため試作2号機は通常の水平にした主翼で製造されている。脚は固定式とした。

 1935年1月、試作1号機が完成。2月4日に初飛行が行われた。一連のテスト飛行で三菱製九試単戦は、予想最高速度である407km/hを大きく上回る451km/hを記録。これは海軍の性能要求351km/hよりも100km/h上回っていた。機体の問題としては、着陸時に機体が上昇してしまう「バルーニング」、大仰角時に機体が上下左右に揺れてしまう「ピッチング」を起こすこと以外は大きな問題はなかった。

 九試単戦は試作機が2機、増加試作機が4機製作されているが、2号機以降は逆ガル翼は廃止されている。このため1号機の飛行試験で問題となったバルーニングの問題も解決、その他の問題も解決したことから以降は2号機の形式で生産されることとなった。

 三菱製九試単戦は、速度以外にも格闘戦性能においても複葉機である九五式艦戦を上回り、当時の横須賀航空隊分隊長源田實大尉をして「天下無敵の戦闘機」と言わしめたほどであった(源田大尉はのちの真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の航空参謀で終戦時343空司令)。量産機はエンジンを寿2型改(632馬力)として1936年11月19日、九六式1号艦上戦闘機として制式採用された。

 

キ18(陸軍向き改修型)

 この高性能に注目した陸軍はキ18として陸軍向けに改修したものを1機発注している。テスト飛行で大破してしまったものの最高速度は444.8km/hを発揮、上昇性能も5,000mまで6分26秒という好成績であったが、陸軍航空技術研究所は安定性と操縦性に検討の余地ありとした。これに対して明野飛行学校側は成績優秀として増加試作機の発注を希望したが、技研はエンジンの信頼性を理由に反対、陸軍航空本部も性能不十分として3社(三菱、中島、川崎)の競争試作を実施するとした。

 陸軍の次期戦闘機の競作には三菱もキ33として九試単戦の改良型を提出したものの中島製キ27が制式採用された。この一連の出来事の背景には陸軍の海軍の機体を無条件に採用することへの心理的抵抗、さらには中島飛行機の政治的圧力の存在が推測されている。

 

1号艦戦改(A5M1a)

 翼下に20mm機銃を2挺追加した機体。1号1型の内、2機が改造され実戦部隊に配備された。

 

2号艦戦1型

 1937年9月15日制式採用された。全金属製モノコック構造とし、エンジンを寿3型(690馬力)に換装、これに合わせてプロペラも3翅に変更された。初期生産の数機を除き主翼にねじり下げ翼を採用した。前期型は操縦席頭当て直後のフェアリング(操縦席後方の背びれのような形のもの)内に搭乗員保護用のロールバーが設置されたが、後期型はフェアリングの高さを高くする形に変更された。

 

2号艦戦2型(A5M2b)

03_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 1938年8月19日に制式採用された。剛性低下操縦方式を導入。密閉式風防を採用、これとともに胴体、カウリング等も再設計された。脚の車輪が大型化され支柱が短くなっている。九六式艦戦の通信機器は当初は受信のみであったが、2号2型からは送信用に九六式空1号無線機が搭載されたが、この無線機は零戦にも搭載され「聞こえなくて当たり前、聞こえたら雑音だと思え」と搭乗員間で言われた程の代物でどの程度有効であったのかは疑問である。この無線機用のアンテナ線支柱がフェアリング最頂部に設置されている。風防は搭乗員に不評であったため、後期型では再び解放式に戻されている。

 

3号艦戦(A5M3)

 20mmモーターカノン付きイスパノスイザ12Xcrs水冷V型12気筒エンジン(690馬力)を採用した型で2機が改造された。水冷エンジンを採用したため九六式艦戦とは別の機体と見えるほど外観が変わりスマートになっている。モーターカノンの性能に問題があった上、エンジンの国産化が困難であったため試作機のみで終わった。この2機はエンジンを寿3型に戻し実戦部隊に配備されている。

 

4号艦戦(A5M4)

 1939年2月3日制式採用された最終生産型で、エンジンは寿41型(710馬力)に変更。アンテナ線支柱がある。最も多く生産された型で、三菱の他にも佐世保海軍工廠、渡辺鉄工所でも生産された。渡辺鉄工所(のちの九州飛行機)製の機体は4号艦戦2型と呼ばれる。

 

二式練習用戦闘機(A5M4-K)

04_九六式艦戦
(画像はwikipediaより転載)

 

 九六式4号艦戦を練習機化した機体で1941年に渡辺鉄工所に指示、1942年6月に試作1号機が完成した。主な改造点は、複座化したのと後部胴体両側に水平鰭が設置されたことで1942年12月23日制式採用されたが渡辺鉄工所で4機、佐世保海軍工廠で20機を生産されたのみである。同様の用途で九六式練習用戦闘機も1942年7月に正式採用されている。

 

生産数

 三菱で782機、九州飛行機で35機、佐世保海軍工廠で約165機の合計982機製造された(1,094機とも)。

 

戦歴

 1937年7月、盧溝橋事件が勃発すると海軍航空隊も新たに編成した第13航空隊に九六式艦戦を配備、中国大陸に進出させているが交戦することはなく、8月末にそのまま内地に帰還した。次に九六式艦戦を装備したのは空母加賀戦闘機隊で9月4日に中島正大尉の指揮で敵機と交戦、6機中3機を撃墜して初戦果を記録、同月中に13空も中国大陸に再進出している。

 10月に入ると海軍航空隊も南京航空戦に参加、13空、加賀戦闘機隊共に同航空戦に活躍、続く中支方面の空戦では空戦中に敵機と衝突して片翼となった九六式艦戦を巧みに操り無事に帰還した「片翼帰還の樫村」が有名である。その後、12空、鹿屋空も九六式艦戦を受領、徐々に他の戦闘機隊も90式、95式艦戦から改変されていったが、九六式艦戦は高性能であったものの航続距離が非常に短く遠距離攻撃を行う爆撃機への随伴が難しいことも明らかになっていった。

 零戦は日中戦争中に実戦配備されてはいたものの太平洋戦争開戦時には生産が間に合っておらず、千歳空や鳳翔、龍驤、祥鳳、瑞鳳、春日丸(のちの大鷹)戦闘機隊は九六式艦戦のみ、初期の航空撃滅戦で活躍する台南空、三空ですらも未だに一部、九六式艦戦を装備していた。開戦後の1942年2月にはルオット島に展開する千歳空の九六式艦戦隊が米機動部隊の航空隊を激撃、12機撃墜を報告、自隊損害ゼロという戦果を挙げたものの、この頃になると駿馬九六式艦戦も旧式化が目立つようになってきている。

 しかし零戦の生産が間に合わず、1942年4月に編成された6空(のちの204空)も九六式艦戦を装備していた他、同年5月に竣役した空母隼鷹の戦闘機隊も当初は九六式艦戦を装備しており、アリューシャン作戦に際して志賀淑雄少佐の指示の下、急遽零戦に改変されている。これ以降、徐々に零戦の装備が進み、九六式艦戦は第一線部隊から後退、後方で練習機として使用されることとなる。

 

まとめ

 

 九六式艦戦は試作機ほどの高性能は発揮できなかったものの日中戦争で活躍。その後は太平洋戦争でも初期には前線で活躍、それ以降も練習機として終戦まで活躍し続けた機体である。開発当時、性能は世界的に見てもトップクラスの航空機であった。それまで複葉機であった日本海軍の艦上戦闘機はここから一気に単葉全金属製に移行する。

 

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01_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 キ60は太平洋戦争開戦前に開発された液冷重戦闘機で、三式戦闘機飛燕とは「姉妹機」に当たる。最高速度は560km/hを記録、運動性能も比較的良好であったが同時に開発されていた三式戦闘機飛燕が高性能を発揮したため試作機のみの製作となった。試作機は実戦部隊に配備されている。

 

重戦闘機 キ60 〜概要〜

 

性能

全幅 9.78m
全長 8.40m
全高 2.75m
自重 2,150kg
最大速度 560km/h(高度4,500m)
上昇力 5,000mまで6分00秒
上昇限度 10,000m
エンジン出力 1,100馬力
航続距離 - km
武装 20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門(3号機のみは12.7mm機関砲4門)
設計・開発 土井武夫 / 川崎航空機

 

背景から開発まで

 1939年1月、液冷エンジン搭載航空機の製造にかけては日本では一日の長のある川崎航空機はドイツのダイムラー社との間で液冷エンジンDB601のライセンスを取得、このエンジンを使用する航空機の開発を計画した。

 

開発

02_キ60
(画像はwikipediaより転載)

 

 1940年1月、川崎航空機は陸軍に液冷エンジンを使用する重戦闘機と軽戦闘機の開発計画を提出、翌2月には、川崎は陸軍より重戦闘機キ60、軽戦闘機キ61(のちの三式戦闘機飛燕)の開発が指示された。川崎は、土井武夫技師を設計主務者として以前に不採用となったキ28試作戦闘機を元に開発を開始した。設計は12月に完了、1941年3月には1号機が完成、続いて2〜3号機も完成した。

 キ60は、極力空気抵抗を減らすように設計され、スライド式風防、短縮式内側引込脚、引込式尾輪等の新技術が取り込まれた。翼面荷重(機体重量を翼面積で割った数値)は172kg/屬氾時としてはかなり大きな数値であった。これは零戦、一式戦闘機隼が100kg/崛宛紂二式単戦鐘馗でも157kg/屬任△襪海箸鮃佑┐襪箸修旅發気判るであろう。つまりは「速度は速いが運動性能は低い」機体であった。

 飛行性能は、最大速度560km/h、5,000mまでの上昇時間が6分、実用上昇限度が10,000mであった。重戦闘機キ44(のちの二式単戦鐘馗)やドイツのBf109E(1941年に日本陸軍に3機輸入されている)と模擬空戦を行った比較した場合、性能は対等若しくは優位にあったが、同時に製作していたキ61(のちの三式戦闘機飛燕)が高性能を発揮したため試作機のみで生産は中止された。武装は1、2号機が胴体内に12.7mm機関砲2門、翼内に20mm機関砲2門を装備、3号機は胴体12.7mm機関砲2門、翼内に12.7mm機関砲2門である。

 

生産数

 3機のみ。2機は実戦部隊に配備された後に大破。1機は終戦時まで残存した。

 

戦歴

 試作のみで終わったキ60であるが、1号機と12.7mm機関砲4門を装備した3号機は独立飛行47戦隊に配備された。独立飛行47戦隊は開戦直前の1941年11月に編成された部隊で南方作戦で出現が予想されたスピットファイア戦闘機に対抗するために急遽、制式採用前のキ44(二式単戦鐘馗)増加試作機9機で編成された部隊である。愛称は「かわせみ部隊」または「新撰組」と呼ばれ、戦隊名の「47」は赤穂四十七士に因むと言われている。配備されたキ60はどちらも事故により破損、実戦には投入されていない。

 

まとめ

 

 キ60は川崎航空機が開発した重戦闘機であったが、当初の計画ではキ60を中間機と位置付け、キ60の性能をみた上で改めて本格的な重戦闘機の開発をするというものであった。このため当初から試験機的な性格が強かった戦闘機であった。

 

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